五〇、神の愛  
     
   しばしば話したる事なれど、今に猶(なお)不明の点ありといふが、ソレは何なるか、今よりソレに就(つい)て話されたし。
 話したる事は多しと云ふと雖(い)われは屡々(しばしば)聞きたる話なし。其(その)話とは抑(そもそも)何なるか。先づソレより話し給へかし。われは未だ何事に就て話されたるかを記憶せず。又誰より如何なる話を聞きたるかさへ記憶せず。希(ねがわ)くば全く初めと思ひて其話をわれに聞かしめ給へ。然らば話すべし。其話と申すは即ち神の話なり。今迄にも神に就ての話は屡々(しばしば)之を為したりと雖(いえども)、又更に為せといへば幾度にても為すべし。
 話といへば常に神の話になるなり。神より外に語るべき事は無きなり。何事を話しても結局は神の事を話すわけなり。即宇宙の森羅萬象(しんらばんしょう)悉(ことごと)く神の顕現と其(その)作用ならざる無きを以て也。神の話と申しても唯(ただ)何神樣に就てといふわけにはあらず。神の諸徳を話すに過ぎざるなり。
 今は改めて神の御徳の中にて、最も貴き御徳即ち愛に就て話すべし。キリストは神は愛也(あいなり)といひたれど、我國に於ても神の徳にして最も貴きものは愛なり。
 愛といへば如何(いか)にも親が子を愛し、親鳥が子鳥を愛するが如き、肉身的の愛を思ひ起し易(やす)きも、神の愛は其(その)樣なものと異る。神の愛は種々の形に於て世に現はる。例へば光の如きも神愛の発現(はつげん)なり。
 光あるによりて萬物(ばんぶつ)は生々として発動す。若(も)し此世に光なかりせば、生物の発動は忽(たちま)ちに停止すべし。されば生物に取りて無くてはならぬものは第一に光なり。されば光は生物にとりて第一番に必要なるものなるを以て、其(その)最も必要なるものを無限に無代にて与へ給(たま)ふ神の愛は、實(じつ)に廣大(こうだい)なりと云(い)はざるを得ざる也。
 光と共に熱をも与へ給ふ。此(この)熱も實(じつ)に生物の生々とし発動するに必要なる事は光と異らず。又更に神は水を与へ空氣を与へ給ふ。其水といひ空氣といひ、實(じつ)に無限に存在するが故に、人間は普通其(その)価値を知らず、全く無代のものと思へども、此(こ)れ程人間生存に取つて必要なるものは無きなり。空氣の如きは僅(わずか)か五分間之を与へられざる時は人間忽(たちまち)ち死すべし。ソレ位大切なるものなり。然るにソレ等多數(たすう)の必要欠くべからざるものを、神は無償にて無限に与へ給ふ。此れ以上大なる愛はながるべし。普通人間界に於ては、米一升恵まれてさへも、其(その)恵みたる人は愛を施したりと思ひ、又受けたる人も愛せられたりと感ずるにあらずや。貧者あり金を人に請(こ)ふ、誰人か直(じか)に之(これ)に數円(すうえん)の金を施せば、其(その)人は愛深しと評するにあらずや。
 其(そ)れ等僅(わず)かの物質を甲より乙に与へてさへも、ソレを愛々といふ人間界に於て、生存上一分も欠くべからざる大切なるものを、無償にて無限に何人にでも与へらるる神の愛は、實(じつ)に無限なりといふべきにあらずや。
 斯(か)く考へ來(きたる)る時、神は實(じつ)に愛の大塊(かたまり)なりと云ふの外なきなり。即ちキリストの云へる如く、神は即ち愛なりといふも、決して過言にあらざるなり。
 此(こ)れはキリストのみの思想にあらず。日本に於ても神代此方(このかた)此(こ)の如き思想は、日本民族の間に血から血へと伝統し來(きた)り居る也。
 天照大神を日の神と仰ぎ、日光に等しき徳を此世に降し給ふと信じ來りたるも、全く其限りなき愛を感じ居るの証拠なり。故に吾人は神の徳中最も貴くして、最も偉大なるものは愛の徳にありといふ所以(ゆえ)なり。
(十三分)
 
     
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