六一、神は力なり  
     
   たち出でけるは何なるか。われも今は何なるかを知らずといへ共、必ずわかる時來るべし。今より後は必ず其(その)人に就(つい)ても、其物に就ても知るところ多かるべし。其人とは誰なるか。今より昔に溯(さかのぼ)りて何千年といふを知らずと雖(いえども)、昔の昔の其昔の人にてあるなり。其人の顔は正に人と思へぬやうな顔なれども、人なる事は其言葉によりて明らかなる也。其言葉は何なるか大和言葉とて、他の國には無き言葉なり。
 言葉のもとは神の御聲(みこえ)によりたるものにて、人の造りたるものにあらず、全く神の聲(こえ)を其儘(そのまま)言葉として傅(つた)へ來りたるものなり。ソレ故昔は文字あるにあらずして唯言のみありたる也。言靈とは即ち其事なり。其言靈の働によつて何事も出來たるなり。言葉は即ち神なりし也。言葉の発する時必ず力あり、其力によりて何事も出現したるなり。即ち神出でよと申さるる時、何ものにても出で來りしなり。萬物神の言葉によりて現れたるなり。言葉は即ち力なるが故に、其力によりて出來ざる事は無きなり。
 何事を傅(つた)へんとするも、其言葉の力によりて之を為し得たるもの也。神のものを造らんとするや、唯何もの現はれよと云ふのみにて可なりしなり。
 神の言葉は聲として現はるるもあり、又光として現はるるもあり、其時によりて異ると雖(いえども)、其聲(そのこえ)も其光(そのひかり)も元々神の力の現はれに外ならざるを以て、全く同一物と見て差支無し。光も聲も共に神の力の現はれなるを以て、光のあるところ必ず神の力あり、ソレ故形の有無は問題にあらずして、力の有無が大なる問題なり。形ありても力無きところに眞の神はあらざるなり。形無くとも力の現はるるところには必ず眞の神の存せるわけなり。此事よくよく注意せざるべからざる也。
(十三分)
 
     
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