(29)自殺した霊はどうなるか (昭和五十七年八月二十六日)  
     
  (自問)「折角この世に命をもちながら、色々な理由によってこの世に興味を失い、あの世、つまりそちらの世に早く行きたいと……あるいは、もう眠ってしまいたいと、そういうことなのかもしれませんが、とにかくそのようにして、あの世への旅を急ぐというようなことを考えることも、一生のうちには誰しも幾度かありますし、またそのようなことを実際におこなってしまうということも世の中には稀ではありません。それに対して、霊界からはこれをどのように見るか、あるいは、そちらに死を急いだ者の結果がどういうふうになっているかというようなことで、霊界からの言葉をお願いします」

―――さよう、死を急ぐということじゃ。そなたがお尋ねのことは、死を急ぐ者がある、それに対して些かでも知恵ある霊人じゃ、つまりこちらのような立場におる者がどのようにそれを見るか、ということをお尋ねじゃの。
 古から、死出の旅を急ぐということは、よくあったことじゃ。のう、人は苦しみの……そちらの世にて、誰しも楽しみというものを求めておるじゃろう。その楽しみというものが、それぞれの希望に応じてほどほどに得られるならば、人はこちらへ、つまりそなた方からいえばあの世じゃのう、あの世への旅を急ぐというようなことはない。そのようなことは何よりも恐ろしきことと感じるように、もともと人の命というものは作られておる。そうであろう。人は死を恐れるのじゃ。死を恐れるは本能といってよい。死を恐れるということが同時に、この世で命を長らえたいと。命を長らえたいと思うは、死を恐れるという心と裏表であるのじゃ。それは二つ一つのもの、背中合わせのものといってよい。死を恐れるがゆえに、わが命を全からんとする気持ちにつながっておる。また逆に、この世に命を全からんとするならば、死というものを遠ざけんとする。
 さてそこでじゃ、今も申せし通り、人は楽しみというものを求めておる。これは万人誰しも然りと。その楽しみといえど、人によってそれぞれじゃということ。楽しみといえど、どのようなことを楽しみと致しておるかによって、その人の命のあり方というものがきまってくるのじゃ。どのようなことを楽しみと致しておるか、どのようなことをわが命の目標とするかによって、その人の値打ちもまたおのずから定まってくるともいうことができる。
 さて、そちらのお尋ねのことは、死出の旅を急ぐ者ということであろう。つまり分かり易い言葉でいうならば、希望を失うということじゃのう。生きることに興味を失うということじゃ。そのことがそのまま、「もう死にたい」という気持ちに相通じてくるわけじゃ。
 さてのう、希望を失うということについては、人が何をもって希望と致しておるかによって、おのずからそこに人それぞれの生き方というものがあらわれてくるじゃろう。その者がこの世に望むものは何かということじゃ。この世に望むものが、たやすく得られるものと、なかなか得られぬものとあろうのう。たやすく得られるものを希望しておるならば、その望みは次々に叶えられる。なれど、この世で叶えられぬものを希望しておる者は、なかなかその望みが叶えられぬがゆえに、そのような者は、その希望が達成されぬということが分かった時に、分かり易き言葉を使えば「死にたい」ということになるであろう。
 しかし、自然というものは、よくしたものじゃ。たとえ希望が失われたように見えても、その環境の中で、また新しき希望が心の中に湧いてくると。これが普通のことじゃ。希望を失ったように見えても、その中でまた希望を見つけ出し、そのようにして人はなかなか死ぬというようなことはできんものじゃ。たとえ心の中に幾百度そのようなことを思うても、それでも希望というものを見つけ出して生きんとする。
 あの世というものが、なかなか分からぬようにしてあるのは、一つには、この世のみが我の生きる世界であると感ぜしめんがためであるのじゃ。この世が我の生きておる世界、この世がただ一つの世界であると感ぜしめんがためには、あまりあの世のことが分かっては都合が悪い。それゆえに、普通には特別な力を与えた者以外には、なかなかあの世のことは分からぬような仕組みとなっておるのじゃ。
 さて、そちらの世で希望を失うという者のことについては、その人の心の持ちようにより、希望を失うに至る事情はそれぞれじゃということじゃ。それはさておいて、もし、いかなる理由にせよ生きるということに希望を失うてこちらへの旅を急ぐと。つまり今そなたもお尋ねの通りじゃ、何もかも忘れて眠りたいと。あるいは、早くあの世へ行って先に逝った肉親に会いたいと。たとえばそういう気持ちも中にはあるかもしれんの。ま、そのような理由によって死出の旅を急ぐというような者があると致せ。そのような者に対して、こちらがどのように感じるかと、そなたはお尋ねじや。
 ところがのう、ここで一つはっきりと申さねばならぬことは、死出の旅を急ぐ者は大層な思いちがいを致しておるということじゃ。つまり、あてはずれと申すかのう、大層なあてはずれということになり、その者がそちらの世で最後に感じた最も大きな希望というてもいいかのう、つまり永遠に眠りにつきたいとか、あるいは早くあの世の世界で生きんと思うその希望じゃ、つまり、そちらの世でその者にただ一つ残された希望が、その急ぐということによって・・・こちらへの旅を急ぐということによって叶えられぬことになる、ということじゃ。こ一つをのう・・・
 さよう、そなた方の中で、希望を失うということについては、さまざまな理由があるじゃろう。誰から見てもそれは無理でないと思うようなこともあるじゃろう。あるいは、周りから見てそれほどまでにせずともと思われる時でも、本人から見れば、この世には希望は何もないと感じる時もあるじゃろう。いずれに致せ、希望を失った場合にただ一つ持っておる希望は何かといえば、早くこの生を終えて永遠の眠りにつきたい、あるいは永遠の生に・・・つまり新しい世界にかわってしまいたいということじゃのう。その希望が、叶えられぬことになるということじゃ。それをこちらからそなた方に得心のゆくようにと申すが、なかなかのう世界が違うがゆえに、うまく説明ができるかどうかはしらんが、まずできるだけのことを努めてみようのう。
 まず、どのようなことでその思いがとげられぬかといえば、まず第一に、こちらへの旅を急ぐということは、すでに与えられた命を生きずして、つまり自らが自らの命を縮めるということになろう。のう、そうであろう。人それぞれには宿命というものがあり、そちらの世でなさねばならぬことがあるのじゃ。なさねぼならぬことをしとげずして、自らがその宿命を無理にまげてこちらへの旅を急いできたと致せ。さすれば、そのような者にどのような運命が待っておるかということじゃ。それをまずのう、こちらの実態をそなた方にお伝えせねばならぬということになる。急いだ者が、どのような所にとめ置かれるか、ということじゃ。その実態を知れば、どのような者といえど、〈これはうかつに、自らの命を縮めるなどということは思うてもならぬ〉ということを知るに至るのじゃ。の、その実態をそなた方にお伝え致そうの。
 それはのう、まず永遠の眠りにつかんと致すじゃろう。それがその者の希望じゃ。つまり、そちらの世に希望を失いし者の一番大きな・・・その者に残りし一番大きな希望は、永遠の眠りにつかんと致すことじゃ。それは、絶対に叶えられぬことであるのじゃ。なぜかと申せば、魂というものは、そなたももうご存じの通りであろう、永遠のものであると。そして、そちらからこちらの世に来るのが眠りと思うておるは、そちらの世の人びとの大層な思いちがいじゃ。必ず目が覚めねばならんのじゃ。目が覚めるということは、自分に気がつくということじゃ。目が覚めたと致せ。こちらの世でしばらく眠った後に目が覚めるじゃろう。その覚めた所は一体どういう所かということじゃ。のう、本人が死を急いだは、永遠の安らかな眠りというを心に描いてのことであろう。ところがその者が眠りを覚ました所は、思いもよらぬ恐ろしき世界ということになるのじゃのう。
 向こうの世界に着けば目が覚めるじゃろう。永遠の眠りは無いということじゃ。誰でも目が覚める。目が覚めた時にまず第一に当然のことながら〈我は永遠の眠りについたつもりなのに自分がまだここに生きておる〉ということじゃ。永遠の眠りということは、つまり死ぬということをそのように感じておるの。眠りにつくといえど、これは何もなき、ということじゃな。永遠の眠りにつくということは、目が覚めぬということじゃな。目が覚めぬと思うてこちらに来たのに目が覚めるということは、気がつくということは、「これは死にそこねた」とこう思うのじゃ。お分かりかのう。死にそこねたと思うのじゃ。そこでまたぞろ、何とかして眠りにつきたいと思うじゃろう。なれどすでにこちらの世、そちらの立場からいえばあの世に来ておるのじゃから、死のうと思うても死ぬことができぬわけじゃ。つまり永遠の目覚めの世界におるということじゃ。永遠の眠りについたつもりなのに目が覚めておるということ、これほど大きな苦痛はないのう。そしてその苦痛が、長く長く長く続くのがその実態であるということじゃ。
 のう、永遠の眠りにつくということは、意識を失うて眠りたいと思うておる。ところが目が覚める。しかも目が覚めた所が楽しき所かといえぼ楽しき所とは言えんのう。なぜならば人の心というものは、その心にふさわしき場所に置かれるということじゃ。その心の望み通りのものが映ってくるということしや。これはそなたにもいつか話したことがあると思うが、たとえば悲しみという気分に満たされているとしなされ。されば全てのものが悲しくみえるであろう。そうではありませぬか。心の中が怒りに満たされておれば、全ての見るもの聞くものが癪の種になるのじゃ。のう、心にさわるじゃろう。どのようなものを見ても聞いても腹の立つもととなる。なれど心が嬉しさに満ちておる時は、どのようなものを見ても嬉しいじゃろう。全てのものが我に対してほほ笑みかけているように思えるじゃろう。嬉しき時というものは、そういうものじゃ。またたとえ少しばかり我の気に入らぬことがあっても許せるじゃろう。容易に許す気分になるじゃろう。
 ところがじゃ、眠りたいのに眠ることができぬと。これはのう、そなたの世界でもあることじゃ。眠りたい眠りたいと思うておるのに、そばで子供等かバタバタと騒げば、また何か騒音が聞こえて寝ることができぬ時に、そなた方はどのような思いが致すかのう。大層腹が立つじゃろう。それと同様に、永遠の眠りにつかんと致して自らの命を縮めた者は、向こうに行ってやがて目が覚めれば、眠りをさまたげられたと。つまり死にそこねたということは、また死なねばならぬと。のう、あてどもなく死に場所を探すという、そのような心境になるであろうの。
 ところがじゃ、こちらの世にては、死に場所を探しても見つけることができんじゃろう。魂というものは永遠に生き続けるものなれば、死に場所を見つけようとしても見つかるはずがないということじゃ。そこで、その時の苦しみというものは大層なものじゃということじゃ。
 つまり、そちらの世にて考えちがいを致していたということじゃ。永遠の眠りというものがこの世にあると思いこんだがゆえにじゃ。のう、思いちがいというものは、どうにもならんのう。思いちがいというものは、人からは許されるのじゃ。思いちがいを致していたのじゃから、人はその罪を問わんじゃろう。なれど自らは、思いちがいをしたことに対するしっぺ返しじゃのう、思いちがいをしたということに対しては、どこまでもその結果を逃げるわけにいかぬということじゃよ。
 たとえばこれは一つの話じゃが、崖の上に立ちて、「我は空を飛べる者なり」 と思うて飛んでみたとしなされ。されば、これは誰しもお分かりの通りの結果となるであろう。のう、空を飛ぶことができる者は、羽根を持たねばならんのじゃ。なれど、我は羽根を持っておると思いちがいを致した者が崖の上から飛び下りれば、それは結果は無惨なものじゃ。なれど思いちがいを致しておるのであるから、人はその非を責めるということは致さんじゃろう。しかし、その結果は自らがあくまでも受けねばならぬということじゃ。
 あるいは、水中にて我は生きることができると仮に思うた者が、たもとの中に石を入れて水中に沈んでみたと致しなされ。さればその結果もお分かりの通りじゃ。のう、人というものは、水中にも非ず空中にも非ず、この地上にてつつましく生きるようにと、その生を与えられておるのじゃ。つまり自らの生きる世界には、一つの限りがあるということじゃ。その限りの外に出でて我が生きんとしても、それは無理なことじゃ。人の生きておる世界には、このように限りというものがある。また、その限りというものを心の中に知ってその中で生きるならば、おのずからその限りにょって守られるというようになっておるのじゃ。限りというものは、その者の行動を制約するものであると同時に、守るものでもあるのじゃ。このことに思いを致さねばならんのう。我がどのような世界でも生きることかできるというわけではない。その行動にはおのずから制約がある。なれど、その制約の中を守りさえすれば、我は守られるということじゃ。これが自然の掟というものじゃ。その掟にのう、思いちがいをするということは、そむくということではないのじゃ。なれど我がその掟を十分知らずに崖の上から両手を広げて飛ぶならば、その結果は一直線に真下に落ちてゆくじゃろう。の、これは誰しもお分かりの通りじゃ。
 同じように、人の命というものにも一つの制約がついておるのじゃ。つまりこの世に生きて おる間は、自らの身を縮めようなどとは考えてはならぬ。いやいや考えることまでは許されるのじゃ。誰しもそのように考えても、またその思いを変えるならば……のう、思い返しというものがあるじゃろう。ふつう誰しも、わが身に苦しきことがあれば、ついそのように考えてしまう。なれど、しばらくすれば誰しもまた思い返しを致すものじゃ。
 なれど、永遠の眠りにつかんとして我がわが命を縮めたと致せ。苦しみから逃れんとしてじゃ。ただ一心に眠りたき気持ちにてじゃ。されば、やがて気がついた所は荒涼として誰もおらぬ所じゃのう。荒涼とした所じゃ。荒涼とした所に我が一人、ぽつんと置かれることになるのう。
 なれど、人の最後の思いというものは、よく記憶しておるものじゃ。そちらの世にて最後に思いしその念というは、ただ永遠の眠りにつきたいと、そしてその中で何もかも忘れたいと……。なれどのう、その時に思い出してくるのは、それまでの苦しみというもの、その苦しみから逃れんとして我が我の身を縮めんと致していたことじゃ。そのことが、そちらの世にての最後の思念であるなればこそ、我が目が覚めた時に心の中に浮かび上がってくるは、我はわが命をなきものにすることに失敗したということじゃ。そのように誰しも思うじゃろう。そして、もう一度この眠りにつかんとして、つまり、どのようにしてわが身を縮めようかと、そのような思いに満たされるということじゃ。そして、あちらこちら、あてどもなく放浪することになる。
 あてどもなくと申しても、実は狭き所で動きまわっておるにすぎぬ。本人はあちらこちらへ行くのじゃが、その目はおおいかぶされておる。おおいかぶされておるというは、心がそのような狭き思いに満たされておる時は、周りのものが何も見えぬということになるのじゃ。たとえていえばそちらでも、何か一つのことを思いつめれば、周りに何かあってもそれが目に入らぬということがあるじゃろう。目の前に見ても何も見えぬという感じになることがあるじゃろう。思いつめた時というものはそういうものじゃ。その見えぬということが、今はじめに申した荒涼とした場所にわが身が置かれるという意味になるのじゃ。映らんのじゃ。心が狭くなっておる。心が狭くなるということは、一つのことに縛られるということじゃ。一つのことに縛られるということは、そのこと以外目に入らぬということじゃ。心が狭い、という言葉もあるじゃろう。心が狭いということは、こちらの世にては文字通り狭き場所にわが身が置かれるということになるのじゃ。色々なものが目に入らぬということじゃ。さてその中で、またわが身を縮めんとして、どのようにすれば眠りにつけるかと、その思いであちらこちらへと……つまり心のあがきというものじゃ。お分かりか。心のあがきの中に長く苦しむことになるのじゃ。
 うむ、なるほど、そなたのお尋ねというは、誰かそれをしらせる者はなきかということか。それを見ておる者が哀れにと、哀れと思うて救いの手をさしのべるがほんとうであろうと、のう。
 なれどのう、これはなかなかそのようにもいかんのじゃ。思いつめた者を説得するというのは、容易なことではない。それは、そちらの世にても同じことじゃ。自らが一つのことを縁として我が学ぼうという気持ちになった時には……一つのことを我が自らの力にて知らんと欲した時には、それがまた与えられるのであるがのう。それと、魂の生長というものは、あまりにも手出しを致しては真の生長はできんのじゃ。多少の手助けをするというはよいのじゃが、我に学ぶ意志もない者にあまりにも手助けをすることは、かえってその者の真の生長のためにはならんということじゃ。つまり、我が努力をせずとも与えられるということは、我が自ら得ようという気持ちに欠ける者となるじゃろう。我が自ら考えて一つのことを致さんとする……つまりそちらの言葉でいえば自主性というかのう、自主性を失わせるということは最も魂の生長の上にはさまたげとなるのじゃよ。そこで、自らがそのような思いちがいを致して、つまりこれは責任の回避ということじゃ。そちらの世にてもそうであろう。自らなさねばならぬことはある。自ら道を求めようとすれば、どのような苦しき境涯におっても、その中で新しき道を求めようと思えぼあるはずじゃ。それを、自ら逃げようとしたのじゃ。逃げようとした者に、追わえて行ってまでその苦しみはとろうとせぬのが、この自然の掟というものじゃ。向こうの心が、またこちらに向いて救いを求めると、そのような気持ちになった時に、少しなりの手助けをするはよい。なれど心の生長というは、特に代わりてするわけにはいかんのじゃ。そちらの世にては、たとえば重たき物を持っておる者がおると致せ。力に余りて立ち上がることができぬという時であれぼ、そばからそれをひょいと持ち上げて歩くことができるようにするはよいなれど、代わりて物を持ち歩くということを致しておれば、その者の力がつかぬということじゃ。重きものを持って歩くことによって人の体に力というものがつくであろう。同じように心というものも、気力をふりしぼって一つのことをなさんとする時におのずから力というものが与えられる。そのようにして人の心というものは次第に、強く、大きく、明るきものに育っていくのじゃ。
 されば、魂というものも、出口を見出ださんと探しておる時には、こちらの方に明るき所があると指し示すはよい。なれど、自らが真にその気持ちにならぬ間は、無慈悲なようでもしばらくそのままに打ち捨てておいて、自らが明るき所へ出んと道を求めはじめた時に初めて力を貸すと。力を貸すというよりも知恵を貸すというは許されることじゃ。なれど、そのようにだだ眠りたき者に、眠りたい眠りたいと全てのものから……つまり、我のなすべきことを避けて眠りたいとする者に、あえて力を貸すというようなことは致さんのじゃ。しぼらくの間は、そのままに放置しておくということになる。しぼらくの間と申せどその本人にとりては、随分長き苦しみの間ということじゃ。長きの間苦しんで、初めて真に、また新しき道を尋ねんとする気力が生まれてくるのじゃよ、のう。

  ―心中した霊の行方−

 なるほど、よくそちらで男女の心中と……そのことをお尋ねか。心中との。その世でとげることができぬがゆえにこちらに来て……あの世にて結ばれんとのう。
 これもなかなか、そうはいかんのう。うーむ、心というものはその境涯によりてのう、境涯によりて定まるということじゃ。されば、我の命を縮めてまでこちらの世に来んとした者は、気がついた所はバラバラということになっておるのう。一緒に同じ所に目が覚めるというのではないのう。これはどういうわけかのう。まだ十分に分かっておらぬが、添いとげられるという状態ではないのう。バラバラになっておるのが常であろうのう。そして、互いに探さねばならぬということになるじゃろう。
 心の思念の力にて、その求める力によりておのずから会えるのではないかとそなたは……ちょっとお待ち下され………。そのようにはなっておらんという答じゃのう。気がついた時に、探せど探せど相手が見つからぬという状態になるであろうというのう。それはのう、そちらの世で掟を破りし者じゃ、命を縮めるというは、この折角大自然より与えられた命を自ら縮めた者は、今聞いて参ったが、どのような場合も共にいるという状態ではないというのう。うーむ、そちらの世にては、足を運べば離れた所の者とでも場所を共にすることができる。相手の心もそれを許すというのであれば、同じ場所におることができるのう。ところが情死した者は共におらんのう。うん、今聞いて参ったのじゃが、共におらぬということじゃ。一人ずつ別々になって何かを探しあてんと……のう、これは決して共におらぬということじゃ。気がついた時には相手の姿は見えぬということじゃ。まず第一に、気がつく時間がちがうということじゃ。のう、そちらの世にては、目をあければ同じ場所に相手の姿が見えるじゃろう。それは体というものを持っておるからじゃ。なれど、こちらは心だけの世界でのう。まずそちらの世にては、一つの縁によりてそのような心の(恋愛)状態になったと致しても、その魂の本源というものはさまざまに違うておるわけじゃ。されば、同じ時に目が覚めるわけにはいかんから、気がついた時には相手の姿は見えぬということじゃよ。お分かりかのう。ましてこちらの世にては、時間というものが、そちらの思うほどもないのじゃよ。魂の状態というものじゃよ。魂の状態が人それぞれに皆ちがうということじゃよ。もう一つつけ加えて申そうかのう。そちらの世にては、体というものがあるじゃろう。同じ年格好の者であれば、それぞれが若き姿を致しておるの。たとえば、心がほんとうは年をとったような者であれど、年が若ければ一応若き姿を致しておるじゃろう。されば、外面だけ、うわべだけを見て恋い慕うということがあるじゃろう。しばらくつきあううちに、お互いをだんだんと深く知るに及んで、その心……その心もち、その心がけ、その心ゆきには飽きがくるということがあるじゃろう。そこで、飽きがきて別れてしまうということもある。お互いに見向きもせぬようになるということもある。ところがじゃ、こちらの世にては心だけの世界と常づねそなたに申しておるじゃろう。心の働きというものだけが感じられる世界じゃ。そこで、心が眠っておればその姿を見ることができぬということになるのじゃ。そちらの世にては体というものがある。そこで体をかくせば、その体が持っておるところの心というものも見えぬようになるじゃろう。体をかくせば、その者の所在が知れぬということになる。こちらの世にてはそうではないのじゃ。心の働きがとまれば、その者の所在が知れぬということになるのじゃ。お分かりかのう。心が働きをやめれば、その者が消えたと同じことになるのじゃ。そちらの世にては、体をかくすことができる。なれどこちらの世にては、体というものはないのじゃ。
 そこで、先ほどのそなたのお尋ねの件じゃが、そちらの世にあって、たとえば親が許さぬとか、あるいは周りの色々な状況により共に添いとげられぬと。では天国にて結ばれんと死を早めると。いわゆる情死というものじゃ。心中と申すかのう。そのような時に、たとえば若気の至りにて、のう、心と心の結ばれというよりは、やはり外見により、うわべによって、一時の情熱と申すかのう、一時の心の炎にてそのように思いつめた者が、この世にて結ばれるが無理とあらば天国にてと、そのようにして死を早めたと致せ。なれど、心の状態というものがあろう。心の状態というものがそれぞれ別々のものなれば、それぞれの心が行く世界は別々じゃ。さらに、目が覚める時間というものも皆ずれておる。そこで、目をあけてみれば……気がついてみれば、そぼに相手がおらぬということになるのじゃ。相手の姿は、ようとして行方知れぬと。のう、お分かりか。こちらの世は、心の働きというもののみが力をもっておる世界じゃ。心が働きを休めれば、無いと同じこと。それが、こちらの世の掟というものじゃ。
 そしてそのように、そちらの世にても責任ということじゃのう、責任。人がこの世に生きてゆく上には、さまざまな責任というものが生じておるじゃろう。人から愛情というものを受ければ、それに対して報いを致すというも一つの責任というものじゃ。これは押しつけというに非ずして、おのずからそうせずにおられぬように人というものはできておるじゃろう。なれど、そのように死を早めるということは、周りの者にどれだけの悲しみと迷惑を与えるかもしれぬ。そのようにして天国にて結ばれんとしても、周りの者の気持ちも悲しみも迷惑も考えぬと、つまりそのように責任のなき者が、つまり一言にいえば心の弱き者がこちらの世で目を覚ましても、その心の弱さゆえに相手を探そうと思えど探す力がないということに相なるのじゃ。
 心の力と。のう、そちらの世にても、たとえば忍耐というものがあれば、難しきことでも一段一段その忍耐を重ねて努力を致すうちには、ついに目指すものを手に入れるということがあるじゃろう。忍耐というものは大いなる徳であるのじゃ。ところがそのように情死を致すような者は、やはり心の弱き者といわねばならぬ。心の弱き者というは、こちらの世にては力の無き者ということになるのじゃ。力の無き者はやはり、おのずから狭き所にわが居場所を見つけるほかはない、ということになる。心の狭きというは、文字通りの姿を現わすがこちらの世界の掟であるのじゃ。心の狭き者は狭き世界に住まねばならぬ、心の広き者は広き世界に住むことができるというは、こちらの世の法則じゃ。うそ、いつわりのきかぬ世界じゃ。
 そちらの世にては、自分の力に非ずして周りより貸し与えられたるもの、たとえば金子とか権威とか、そのようなものでわが身を飾ることができる。小さなものでも大きく見せることができる。なれど、そのようなことは通用せぬ世界じゃ。されば心の強さ。強さというものにも色々なものがある。一つには耐える力、一つには周りに力を及ぼさんとする力じゃ。周りに力を及ぼさんとする……これには勿論ふた通りあるのう。一つは、善意によりて人を救わんとする力、もう一つは、わが力にて人を従えんとするようなものもあるじゃろう、つまり人を奴隷にするような心じゃ。これも一つの心の力ということができる。その中で、美しきもの、正しきもの、これが天国を形作る。また、よこしまなるもの、みにくきもの、これが地獄を形作るということじゃ。そこでこちらの霊界においても、そのような天国と地獄というものもおのずから作られるは当然の理じゃ。人の心には天国と地獄が住むように、こちらの世にても天国と地獄と、そのようにあい別れておる。またその中には、その中間の世界というものも色々にあるわけじゃ。
 そちらの世にては、人の心は、体というものの中に一応その住み場所を定められておるによって、心は天国に住むに値する者であっても貧しき所に住まいを致しておる者もある。またその反対に、たとえ形の上では金に飽かした贅美をつくした場所に住まいを致しておる者も、その心は掃き溜めのような所に住まいを致すが似つかわしいというような、そのような心を持てるものもあるじゃろう。なれど、こちらの世にては、その心の状態にふさわしき所に住むがこちらの世のきまりということになっておるのじゃ。お分かりか。されば、心を強く、正しく、大きく、美しく致すように心掛けるは、それだけの報いというものを必ず受けるはこちらの世の掟であるのじゃ。こちらの世にては、そのような心を得んと努める者は、それにふさわしき報いというものを必ず与えられる世界であるのじゃ。
 されば、また話は元に戻りて、わが身を縮めるというは、天地自然が折角与えんとした命を小さき人の心の判断により・・・世の中に、これほど大いなる善意というものはないのじゃ、命ほど、この世で大きな宇宙自然の善意というものはない。その善意を自ら否定するということは、最も大自然の掟にそむくことであるのじゃ。そのような、分かり易き言葉でいえば恩知らずじゃ、恩知らずは、その恩というものが分かるまで暫し、周りからの救いの手というものは差し置くが、かえってその身のためということになろう。されば、その者が荒涼とした世界に一人、長き期間にわたりて置かれるは、これも実は大自然の善意より出たものであるのじゃ。周りからの救いの手というは、しばらくの間さしとめられるのじゃ。周りから手を伸ばそうと思うても伸ばすことができぬ。そのようなことも知らずして霊界の誰かが手をさしのべようとしてもその手が、まあそちらの言葉でいうならば何か不気味なものに触れたように、凍えるようになるのじゃよ。のうお分かりか。不気味なものに触れれば、思わず手をひっこめずにおれぬ。そのようにしてそちらの世にての責任をまぬがれて、責任を逃れてこちらの世に来た者に、その自然の掟を十分に知らぬ者が手をさしのべようとしても、その手は思わずこのように何か不気味なものに触れたかのように、思わずひっこめずにおられぬような力に打たれる。そのようにしてしばらくそのままに置かれるのじゃ。しばらくと申せど、やはり長い期間と申さねばならぬ。
 さればのう、そちらの世にて一生生きても、たかだか六、七十年であろう。みどもの時代では五十年も生きれば、まあよい方であった。六、七十年かのう、僅かな時じゃ。僅かな時が至れば、また新しき世界にて色々さまざまな経験を持つこともできる。新しき世界に移ることができるということじゃ。僅かな日というものじゃ。その僅かな日も我慢ができぬというは、一時の心の炎、一時の心のあやまりとは申せ大層な報いを、それに幾十倍する大層な報いを後から受けねぼならぬことになる。それに比べれば六、七十年というは、そちらの世にての一生は短き期間じゃ。たとえ、一時わが心の炎をかきたてるものであっても、たとえそちらの世にて何かの事情によりて添いとげることができぬとあっても、また時経れば新しき連れ合いを得て、そのうちにこれもまたよしと、そこで前のことは若き時代のひとときの思い出として、ほどよくおさまるということもあるじゃろう。また、たとえそのようになくても、六十年や七十年、一つの思い出として相手の幸せを祈りつつ過ごすということもできぬでもない。またそのように致せば、そのように長き期間一つのことを思いつめるならば、また別の世界にて相まみえることもできるということになる。それは、そのように長き期間一つのことに耐えて一つのことを思い続けたというその念の力によりて、こちらの世にてまた相まみえることができるということがある。なれどそのように、周りの悲しみも災いも知らずしてわが命を縮めるような心の弱き狭き者は、こちらの世にては、そのような心にふさわしき所にとめ置かれるということに相なるのじゃ。このことを知れば、誰しもそう容易に死を急ぐということはなかろうとのう。お分かりか。そのようにこの世は仕組まれておるということじゃ。これだけ聞けば、死を急ぐということは……自らの命を縮めるということは、いかにその者にとってためにならぬかということがお分かりじゃろう。
 
     
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