こっち、見ろ。
さっきからずっとそればかりを心の中で唱えて…祈る様に見つめていると言うのに熱視線を向けられている当の本人にはまったく届いていないらしい。
今度の学会用の資料だとかいうアリスには到底読み解く事の出来ないドイツ語だかフランス語だかの分厚い本に視線を落としたまま、時折…絶妙なバランスを保ちテーブルと化したテキストの上に置かれたマグを傾けて喉を潤すだけ。
煙草すら…思考の波に呑まれてしまった様だ。
めずらしく気合い、入っとるんやな、火村。
いつもならじっと見つめているだけ、であっても…その視線を自分に都合よく解釈した火村によって肉弾戦へと持ち込まれてしまう火村曰く、酷く煽情的なアリスの観察視線も今日に限ってはその効力を発揮していない。
これは…いい機会かも。
はじめのうちはそう思って呆れるくらいにじっくりとその顔を眺めていた。
ほんの少し寄せられた意思の強さを表すかのように整った眉、眉間に寄った皺さえ男らしさを誇張させるだけのアイテムでしかない。割とぽってりとしたアリスの口唇とは違う、薄く少しだけ傾いた唇もきゅっと結ばれた口元も。すう、と通った鼻筋から実は広めの額に…はらりと掛かる硬質な髪。切れ長の瞳は伏せられて漆黒の眼が字を追って忙しなく動く。
美人は3日で飽きる、言うけど…火村はいつ見ても、見飽きる事ないなぁ…。
普段からあまり表情を多く載せない整った顔立ちであるからこそ、たまに見せる
はにかんだような微笑みとか…ごくまれに現れる破顔一笑になど。
感動すら覚える。
学生の頃から…気がつくとそうやって火村の横顔を眺めていた気がする。いつだって「気が付け」と「気が付くな」を心の中で繰り返して思っていた。もし…このまま火村がこっちを見てオレが見つめているのに気が付いたら…その時は気持ちを伝えよう、好きだと、言えるかもしれないと。
本を読む君の横顔を見つめて…呪文の様に繰り返した。
でも。
伏せられていた視線はいつだって活字を追ったまま、アリスを見ようとはしなかった。結局、痺れを切らしたように想いは互いに伝わってしまい…今となっては誰よりも傍にいる二人、になったのだけれど。
遊んでくれてたウリもコオもおこたに入って寝てもうたし…な。
何時かと同じ様に…でも、いつかとはほんの少しだけ違う呪文を繰り返し心の中で唱えてみる。構って欲しいんやない、ただ、ちょっと試したかっただけやねん。心の片隅で自分に言い訳なんかしながら…。
たった一言の…呪文を唱えた。
『書を捨てよ』
20年目になんとなく20のお題より
Author by emi