『あいつが死んで誰が悲しむいうんや!
感謝されこそすれやろ。それなのに――』
時として、言葉は人の心をも殺す。
それは冷たく鋭く深く。
残酷に抉りながら刺し殺してしまうのだ。
だから、俺は―…。
「…39.5分、あかん。温度計が壊れとる…」
何度も測り直してみるもデジタル表示にそう大差はないのに
アリスは細い棒をひらひらと振って数字を眺めた。
体温計が壊れているわけではない。
ぐらぐらと揺れる視界。
ふわふわと漂う意識。
「壊れかけとんのは俺や」
このところの気候の変化で調子が悪かった、
それに気がつかない振りをして目前に迫る
締切をなんとか乗り越えたのが一昨日。
首を長くして待っているであろう片桐に
脱稿の知らせをした時には既に声が枯れていたから
危ない兆しは見えていたのだが。
「眠気には勝てんかった…」
取りあえず寝ようと布団にもぐりこんだアリスは
耳馴染みとなっている声に起こされた。
「現場が近くなんだが、来るか?」
誘いの言葉に迷う余地はなかったはずである。
調子が悪いこともある、その上万全の態勢で無かったこともある。
そもそも迷う方がおかしい現実なのに
「行く」と答えてしまったのはひとえにアリスの我儘だ。
ギリギリのところで目には見えない戦いを繰り広げている
火村を一人にしておきたくない。
もとい、そんな火村を…自分の知らないところで
苦しませたくは無い。
なんというエゴ、自己満足な考えだろうか。
火村にしてみれば大きなお世話以外何物でもないのだが
それでも、助手と言う名目で何の役にも立たないアリスが
現場に誘われる事の意味を、自分の中で具現化したかった。
彼が揺らめきそうな時、支えになれるのは自分だけなのだという
思いがアリスを突き動かしてしまっていた。
やはり無理だったのだと後悔してみても時はすでに遅い。
「大丈夫か、アリス。お前調子悪いだろう」
あげく、名探偵にはアリスの状態などお見通しで
かえって気を使わせてしまったらしい。
「やから早々に退散してきたのに、何やっとんのや、俺は」
ふらふらと身体を引きずりながら独り語ちた。
この時期は一日一日で気温が下がっていく。
明け方ともなれば一日で冷え込みがぐっと増すのに
増やすべき毛布を出す気力さえなかったアリスは
眠気に勝てずそのままベッドへとダイブしてしまった。
そして今朝。
案の定どうにも寒くて目が覚めた訳だが…
いかんせん身体が言う事をきかない。
節々が痛い、を通り越して感覚が無い。
だけれど、立てない。
「あかん、本格的に力が入らん」
襲いかかる寒気に耐えながらなんとか毛布を重ねて
布団に入ると、高熱で過敏になった感覚が
シーツを滑る素足にさえ痛みを与える。
寒いのだか、熱いのだか。
分からない状態でアリスは携帯を引きだすと
リダイヤルを押し耳に当てた。
ほどなく寝起きの声がアリスの耳朶を打つ。
『なんだ、早いなアリス。具合はどうだ?』
「あかん、体温計が根をあげよった」
『はぁ?意味が分からねえな、どうしたアリス』
どうしたもこうしたもない。
事の次第を告げると呆れて、それなのにどこか
焦った声が「現場に行く前に寄る」と告げた。
そして火村が辿りつくまでの少しで無い時間を
アリスは眠っているのだか起きているのだか
良く分からない状態で過ごしていた。
意識が曖昧に漂う感覚に半ば酔っていたのかもしれない。
こんな時でも考えるのは…火村の事ばかりで。
「…や、こんなときやからこそ、かもしれん」
ぶつぶつと独り言を繰り返すあたりかなり危ないのだが
それにすら気が付いていない。
そうこうしているとがちゃり。
解錠の音、やや急いた足音がして
思い人が顔をのぞかせる。
「…どうだ、アリス」
「どうもこうもない、極めて良好や」
「その顔のどこが良好だ、…熱。高いのか」
かさかさに乾いた唇でうぃ、と答え布団を鼻先まで上げる。
「薬、飲んだし大丈夫やって。気にせんと行ってええ」
わざと景気のいい声を出せば見咎めた火村が眉をしかめる。
わかっているのだ、カラ元気な事くらい。
だけれど、アリスの矜持を汲んできっと火村は頷くだろう。
それを見越してつっけんどんに振舞う自分は…卑怯なのだろうか。
いや。
「ほんま、大丈夫やし。今日一日寝とったら熱も下がるわ。
きみ、現場やろ?船曳さん待っとるで、センセ。早よ行ったり」
『大丈夫そうじゃない』
『無理をするな』
そんな言葉を掛けようとしたのだろう、
口を開きかけた火村を遮るタイミングでたたみかける。
そうすれば、ほら。
「…じゃあ、とりあえず行くが何かあったら連絡しろ、いいな」
「了解や」
キミはそう言って部屋を後にするだろう。
そして、きっと…。
『火村先生、本調子やないみたいですね』
あれでなかなか敏い森下あたりに気がつかれて
それでも表立っては言われず、それとなく
周囲に気を使われるだろう。
私の立場はあくまで『助手のようなもの』だ。
けれど、ようなもの、がいるといないとでは
かくも違うモノなのだろうか。
「もっとも全部ただの推測でしかないけどなぁ」
推測?
違う。
それは、アリスの…希望的観測だ。
なのだけれど、あながち間違いとも言えない。
「だから、おちおち寝ても居られんのやで、火村」
明日にはあらかた熱を下げておかなければと思う。
そして這ってでも同行し、闇を撃ち落とす為の
緩やかなスロープを支えてやらなければならない。
その為に必要な、眠りはすぐそこまで迫っている。
部屋に残った微かな香りは知りたるキミの薫りで
それを感じながらもぞもぞと身体を動かして瞼を落とす。
やがて来るであろう深淵の眠りに立つために。
アリス視点で「イイ夫婦の日」の合間的な話です。
Author by emi