辿るべき路-9-





朝がきて、…ひたすら時間が過ぎていくのを待って。

そして、夜になって。

思い出を繋ぎとめるだけの闇を超えて。


そうして毎日がただ懺悔の刻として過ぎていくのだと思っていた。


闇に溺れていた私をキミの声が呼び戻した、あの朝になるまでは。



「なぁ…火村、オレがキミに電話したって…ほんま?」


互いの気持ちを隠して背中合わせで居た私たちは、半年モノ間、傍に居なかった事を埋めるかのように寄り添っていた。

抱きこむようにして支える火村は、そうしている間中、ずっと掌を優しく撫ぜて…指に填められた約束の証を弄っている。


衝撃の発言から暫くは、180度方向を変えた現実に頭が追いついていかなくて呆けていた様な私だったが、確かに傍にある温もりと、逃げていかない時間に、徐々に思考が戻ってきつつあった。その中で。当たり前だけれど、信じがたい事…どうして私がここに居るのか、という疑問が湧いて来たのだ。


自分で自分を理解しきれていない、コントロールもままならない私だけれど…いくらなんでも酔っていたとはいえ、自分から火村に連絡を取るとはどうしても、思えない。

聊か猜疑の籠った視線を向けた私に、ばつの悪そうな火村がお詫びと言わんばかりにこめかみに口付けをしてくるのに、片目をしかめてやった。


「…赦してくれアリス、お前を騙した。本当は、ここへ来る前にお前は泥酔していて意識が飛んでた。現に抱えているのが俺だってこと、わからないみたいだったしな」
「なんやて?…どういうことやねん!オレが納得できる形で説明せんかい」



腕に抱かれて胸に寄りかかっている体勢では、満足に睨みつけてやることも出来やしないが…かといって其処から離れる気にもなれず、結局そのままの体勢で先を促すことにした。…答え次第では、私のした事はこの際棚に上げて…考えておこう。

「いや、そもそもアリスがマンションから居なくなったのに気がついてから、テーブルの上の書き置きを見て…お前が帰ってくるのを待っていたんだが」

「帰ってこうへんかった?」

「そう、帰ってこなかった。仕方なくて取りあえず置いてあった鍵を使って施錠して…時間の在るときには必ずマンションへ寄る様にしていたんだ。…でも、お前は帰っている気配がしなくて」


するり、と掌を撫ぜていた火村の腕がまるで私の躰を掻き抱く様に…強張っていく。
それが、火村の不安を写取る様で…なんだか私まで、哀しくなってしまう。

「…片っ端から関係先に連絡をして、居所を捕まえようとしたんだ。それなのに…片桐め…、知らぬ存ぜぬを通しやがった。…ああ、思いだしてきた。あいつ、素知らぬ顔で…」

低く籠った様な剣呑な声に、慌てて言葉を遮った。
違う、責められるべきは彼では無い。


「ちゃうねんて!片桐さんは悪ないねん。…オレが、絶対に知らないと言いきって欲しいって言ったから、だから…」

だから、彼はその約束を守り通してくれたんだろう。ただ平凡な作家の担当をしているだけなのに、この剣幕でおそらく凶悪な雰囲気を纏った火村の詰問にすら、揺るがない意思でもって私との約束を守り通してくれたのだ。
…その、律儀なまでの片桐の行動にアリスは心から感謝を唱えたかった。

私の為に、…嫌な想いをしていたのに。彼はひと言たりともそんな事、言わなかった。微塵も感じなかった。いつだって、そうだ。

「…わかってるさ、アリス。わかっていてもな、…やっぱり嫌な、モンなんだよな。俺はアリスの居場所すら知らないのに、片桐はきっと傍でお前を…見てると思うと、な」

すり、と寄せられる頬に涙がこぼれそうになった。

ああ、こんなにも…。私はこんなにも皆に護られていたんだ。独りだと思って打ちひしがれていたのは…私だけだったんだな。

寄せられる火村の体温を慈しむように掌に包みこんで…身を寄せると、抱きしめる腕に力が籠った。


「…本当は感謝、してるくらいだぜ?自分はお前と約束をしたから居場所は言えないけれど、でも、そのかわり…スパイを送ったから、なんて、な」

「…スパイってなんや」

うっとりとした甘い時間はそう長くは続かないらしい。

次から次へと零れ堕ちる私の知らない事実に、長年友人として言いたい事を言いあってきた私たちの関係が待ったをかけるからだ。

…なんだ、スパイって。

「いや…、さすがに手の届かないところに居るお前の事が心配ですぐにでも逢いに行って確かめたい気持ちが強くて、…でも、な。全ての問題が解決してから…晴れてお前を迎えに行こうと決めて…それが、けじめだと思ったからな。俺が直接アリスに逢いに行く事は出来なかった…」

「…から?」

「ちょうど、お前の傍に居たなんとかいう作家にお前の様子を俺に伝えてくれと頼んだ」
「はぁ?」


同じ発音でも言葉の意味はこうも違う。
はあ、と大きなため息を吐く火村は後ろから抱きしめたままの体勢で心底心配したのだと言わんばかりの声色で続ける。

「先月、くらいだな。ソイツから俺に電話があったのは…。あんまり、お前を…泣かせるなと、言われたよ。ご丁寧にお前がどんなふうに泣くのかまで…説明をくれやがった」

「なっ…」

「すぐに…飛んで行きたかった。傍に行って…どんな方法でもいい、アリスに謝って赦してもらえなくとも…隣に居て抱きしめてやりたかった!」


ぎり、と鈍い音が聴こえて振り向いた私の目に飛び込んできた、火村の…苦渋に満ちた表情が。何より火村の想いを写取っていて…。抱きしめる腕の力も…寄せられる体温の意味も。

「…ひむら」

「それが、出来ない俺自身が…情けなくて悔しくて。いっそ何もかも失ってしまえばいい、そんな風にも思った。仕事なんてどうでもいい、研究なんて…と。手に入れる為に壊れてしまう世界なら、いっそ壊れたままお前だけが…居れば、それでいい…」

「そんなんっ、いやや…!」

「アリス…?」

重ねた掌にぐっと籠った力に、上ずった私の声に驚いた様子の火村が…むしろ心配そうに瞳を覗きこんでくるが一度堰を切った感情は留まる事無く勝手に溢れだしてしまう。

「そんなん、嫌や…。やって何もかも失うなんて…オレが…キミにあんな事したから、本当は幸せになれる筈だったキミが…全てを失ってしまうなんて。オレには堪えられん!」

だから、絶対に嫌だし、もしそうなってしまったら…オレはオレを絶対に許せない。
きっと、キミが傍に居る事を望んでくれたとしても…隣で笑う事なんて…出来ない。

「そんなん、…無理、や」

もしかしたら…こうして火村が隣に居るのは、彼の言う様に全てを捨てて来たのかもしれない。そうではないと、火村が言っているのにも関わらず、むくむくと不安が胸のかさぶたを押し上げる。そして…高ぶったままの感情は胸の奥から涙を押し上げて涙腺を決壊させてしまう。

情けない、顔をしているんだろう。
なんて、弱い…心なんだろう。

そう思ってみても、火村が困った様に涙を拭ってくれるけれど、…余計に哀しかった。

「アリス…ごめん、泣くな。大丈夫だから…。言ったろ?全部ちゃんとかたを付けたって。…時間掛かっちまったのは、俺が全てを失ってお前の前に立っても…お前を傷つけて哀しませるだけだと思ったからな。周囲には彼女のした事の詳細は明かしてはいないが…ごく限られた関係者には事情をきちんと説明して、俺の子なんて出来て居ない事も証明して、…なにも失わず事を収めたつもりだ。研究だって…ちゃんと続けて居られるさ」

「…そうなん?」

ふ、と細めた瞳から優しさが零れて…落とされる口付けが私の詰まらない不安を拭ってくれる。

「ああ…、もっとも教授になるのは…もうちょっと後になるかもしれないが…」

触れられたところから温かさが伝わって、その温もりはやがて全身へ浸食するように浸み渡っていく。こんなにも温かくて…こんなにも優しいキミを、私は知らない。

「うだつが上がらないおっさんだが…ずっと傍に、居てくれるか?アリス…」


私の知らないキミは…あとどのくらい居るのだろう。

溢れだした愛を隠そうともしない、呆れるくらい柔らかさに満ちたキミを見て…同じように微笑んでいる私は。

…キミにとっても知らない私、なんだろうか。

「…火村、キミがずっと…好きやった」

零れ堕ちた禁忌の言葉にすら…。

「ああ、アリス…俺だって、ずっと隠してた。お前を…愛している事を」

厭うどころか…全身が悦びを語る。

合わせた掌と、輝く約束の印。

私たちはお互いに背中を向けたまま、歩いて、歩いて歩いて…そうしてやがてこのリングの反対側で、再び出逢う事が出来たんだろうか。道を…外れる事無く。遠回りこそしたけれど。

でも。

キミに…、お前に…、出逢えてよかった。

今は、心からそう思える。

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Author by emi