珍しく酩酊していた火村はいつもよりも少しだけ据わった眼差しをオレに向けて聞いたこともないような鋭い声で言い放った。
『アリス…、抱いて、いいか?』
それは、まるで。
悪魔の甘言。
危うくオレの心に切り込んでは揺さぶる。
擁いていた淡い気持ちを見透かしたような声色で限りなく優しく、それでいて拒めない強さでオレを捉えて絡めとっていくのだ。
ああ、堪らない。
堕ちて、しまいたいよ。
火村、君の声が満ちた甘い時間へと。
「なぁ、キミ、ちょっと呑み過ぎやないの?」
安い、早い、旨い、と評判で、学生が行きつけにしている飲み屋。そこで期末試験の打ち上げと証した飲み会に誘われた。なんとなく集まった人数はそこそこで、中には知らないヤツすらいたが女子禁制にした事が功を奏して気兼ねない楽しいひと時が送れたと思う。
いろんなヤツが居て、思うままに酒を呑んで会がお開きになる頃には大抵の人間…もとい、ほぼ全員がへべれけになっていた。
オレ然り、火村然り。
上機嫌で店を後にしたアリスとは違い、心なしか機嫌が良くないように見受けられる火村が、「どうせ帰れないだろ、なら部屋で飲みなおそうぜ」と誘い、異があるわけもなくオレは頷いた。それで彼の部屋にストックしてあった焼酎を開けて飲み交わしていたのだ。
既に空いている瓶は小一時間も前から床に転がっている。
ベースの出来上がった状態からのハイペースは、何時にも増して酔いを増徴しており、目の据わった火村にへらへらと笑いかける当のオレだって相当足に来ていた。飲む前にしっかりと食事を取っていたのがせめてもの救いか。
訳もなく笑いが漏れる。
それを聞き咎めた火村が
「………ああ?」というのだって呂律はかなり怪しい。
やはり酔っているのだ。
それなのに火村は妙に冴えた眼差しでじろりとオレを一瞥すると、銜えた煙草に煙草の箱を近づける始末。
きっと火をつけようとしているのだろうな、アレは。
「ほらって、ソレ煙草の箱やで?ライターはこっちや、酔うてるな、火村」
「酔ってねぇ、ちょっと間違えただけじゃねぇか」
少しだけ拗ねたような物言いで、それでもふん、と鼻で笑うと持ち直したライターで火を灯して深く吸い込んだ。
手元にある灰皿は少し前から溢れんばかりの灰で埋め尽くされていて、少しでも指先が着地点を間違えたらあっという間に傾れを起こして零れてしまいそうだ。
ふう、と紫煙を吐き出す横顔に頬が熱くなるのは摂り過ぎたアルコールのせいばかりではない。
溢れて零れてしまいそうなのは、きっと気持ちも同じなのだ。ほんの少しのきっかけで必死に築いた壁などあっという間に崩れてしまうだろう。
「なぁ…、今日どうして来たん?キミ、予定ある言うとったやろ?」
「ん〜?」
廻り始めた世界に存外軽くなった口が気持ちを正直に映し出して言葉にしていく。
今まで傍に居てなんとなく聞けなかったような事までも、実にあっさりと。
それはきっと、本当は気になって仕方なかった事。
「飲み会、だっだけど…。一度断ったやん?なんや、ほら。この間から付き合ってる子と予定があったのやろ?よかったんか?…彼女」
彼女。
知り合いになってから既に何人目の彼女かわからないけれど、確か珍しく長く続いている子だ。
・・・といっても今週でやっと3週間だったか?
呆れるくらいに早いスパンで入れ替わる“彼女”の椅子にはまるで予約待ちの列が続いているように間がない。
決して優しいとはいえない扱いにも係わらず、火村が振られるという事態は引き起こらず大抵が彼を束縛しようとしたり、必要以上に干渉したりしようとした結果、一方的に別れを宣告されるというスタイルなのだ。
アリスにはソレが不思議でならない、いや、ならなかった。
でも。
でも、今なら彼女達の気持ちが少しだけ分かるような気がする。
「ああ、いいんだ。あんな女、他人だからな」
「そんな言い方せんでも、曲がりなりにも“彼女”なんやろ?」
どんな酷い言い方をされたって。どんな酷い扱いを受けたって。
それでも―――。
「いや、彼女なんかじゃねぇよ。もう別れたからな」
それでも、キミと言う男の傍に居たいんだ。
隣に、居たい。きっと、そうなのだと思うよ。
「え、別れたって…。いつ?」
「あ?覚えてねぇ、忘れた。昨日とか一昨日とかそこらへんじゃねぇの?」
その声で、名前を呼ばれたい。
それがとても特別なことのように思えるからだ。
「ふ〜ん、そうなんや…。ってことは、新しい子が出来たんか…」
隣に居て、触れ合って、横顔を見つめていたい。喩え、微笑んでくれなくてもいいから…。
「いや。面倒だから作ってない。…なんだ、それがどうした?」
最後の一口を吸い込んで灰皿で揉み消した火村はふわりと煙を吐き出してゆっくりと身体をオレに向け怪訝そうな面持ちで見つめてくる。
その真っ直ぐ逸らされない瞳に、どうしようもなく胸が高鳴ってしまう。
ばくばくという鼓動に持ち上げられた血液が頭へと上り、うまく考えが纏められないのに…。
まるでそこに意思があるかのように口だけは勝手に動いて言葉を発してしまうのだから本当に嫌になる。頼まれもしないのに、せっせと己が堕ちるための穴を掘っているような気分で堪らないのだ。
それでも、後悔を先に立たせることは出来そうもない。
「ん、珍しいなぁと思ってな。ほら、いつも誰かが居たやんか?オレが知ってる限りでは初めてくらいやね」
「…そうか?」
ああ、苦しいよ。息が鼓動に負けてしまいそうだ。
きっと後で後悔する。
分かっているのにどうして言葉は勝手に漏れ出してしまうのだろう。
「そうや。…寂しくとか、ないんか?」
「はぁ?何が…、ああ。性欲処理が出来なくて、か?」
さらっと真顔で言う火村はおかしいくらい軽口を叩くのに、目が。ちっとも笑っていない。
その、瞳の色がどこまでも深い漆黒で、打ち付ける鼓動とその闇に意識まで吸い込まれてどうにかなってしまうような気がして。雰囲気に、飲まれていたんだと思う。
それは、実にあっけない陥落。
「え…?いや、あの、…そうなん?」
何がそうなのか、すでに自分でも何を言っているのか分からなくて一層鼓動は煩くなるのに躰の方は金縛りにあったようにぴくりとも動かせない。
見つめてくる瞳に、視線を逸らすことが出来ない。
「そうだ、と言ったら?…お前がどうにかしてくれるのか?」
「…な、なに、言って…」
息が、止まりそうだよ。
火村、オレ…。なんでこんなに苦しいんやろう。
「…アリス」
「っ…!」
しかし答えはようとして知れず、それどころかいつの間にかオレを捉えていた視線がすぐ目の前にあった。
互いの息すら感じるほどの至近距離に、覗き込んだ瞳の奥に驚いたように見開いたオレの目が見えるくらい、傍に。
ふわりと香る煙草の匂いに言いようのない感覚が研ぎ澄まされた五感を刺激する。
「俺を、慰めてくれるのか?アリス」
「ひ、むっ…」
つい、と逸らされた顔が耳元へと寄せられて直接耳朶に囁かれる声に全身から力が抜けていってしまい、
「アリス…、抱いて、いいか?」
じん、躰の奥が痺れる甘い言葉に淡く儚い筈の心がどうしようもなく揺さぶられて―――。
寄せられた口唇を拒む事など出来なかったんだ。
ああ、酔っている。
きっと火村は酔っていて自分が何を言っているのか分かっていないのかもしれない。
そうだ、来るもの拒まずのスタイルでは、もしかしたら男相手も有り得るのかもしれない。
自分への言い訳を必死でしていた。滑稽でもある思考すらおかしいと気が付けない。それなのに妙に冴えた感覚と動けない躰のアンバランスさに、ガラガラと音をたて壁が崩れて塗りこめた想いが溢れてしまう。
だって、オレがソレを、望んでいたから。
心が火村を求めていたから―――。
以前サイトにアップしていた物を再アップです。
Author by emi