「んっ…」
遠くで聞こえる誰かの話している声と、喉に乾いた痛みを感じて意識が浮上する。
なんだったかな…。
起きぬけは考えがまとまり難い。とても重要な事を考えていた筈なのに、何も思いつかない状態が続く。それでも、ややあって動かした躰のだるさに火村は自分の置かれていた状況を思いだした。
「…ああ、なんてこった…」
煙草を吸った後、少しだけ開いたままのカーテンの隙間から洩れる光は明け方の暁光だろうか、しらじらと夜が明けようとしている時分らしい。ざわざわと耳に届いていた微かな音は付けっぱなしになっていたテレビから聴こえていて、妙に耳に付くざわめきを追い払う為手さぐりにリモコンを探すと忌々しげに電源を切った。
…どうにも、やりきれない。
「っ…くぅ〜っ!」
だるい躰を起こして伸びをする。…だるいのは当たり前か。
ソファに腰を下ろしたままの体勢で寝入ってしまっていたらしく、首は変に硬まったまま腰は纏わりつくような痛みに苛まれているのだ。壁に掛かっている時計を見ると、5時過ぎを指していた。
物音のしない書斎を窺い見ると、ほんのりと明りが洩れているのが確認できるがその中でアリスが繭を紡いでいるかどうかまではわからない。
そっと、足音を立てずに近付いてドアを開けると、果たして…。
「…寝てやがる…」
開いたドアに気がつく事無く机に突っ伏して寝入っているアリスの背中を見て、なぜだか泣きたい位の脱力感に苛まれる。それでも、そのまま放っておくわけにもいかない火村は大きくため息を吐いてその華奢な背に近付くと頬に触れ、肩をゆすって声を掛けた。
「ほらっ、アリス!寝るな、おちるぞっ!!」
「ん、…」
完全に寝モードのアリスは肩を揺らしても声を掛けても細いため息の様な声を漏らすだけで意識が浮上しない。その掠れた声に悶々としながらもディスプレイを見ると、いつから触っていないのか画面は完全にブラックアウトしている。今日の為にやや無理をして忙しさに追われていたせいで疲れていたのだろうか、寝入ってしまっていた自分にも腹が立つが、この状況にはもっとイライラが募る。幸せそうな寝顔を見せているアリスを見て先ほどのイメージが強烈に脳裏に浮かび善からぬ妄想がぐぐぐと頭を擡げてくるが、それをぐっと我慢すると再度、アリスの肩を揺さぶった。
「アリスっ!原稿はっ?…お・き・ろっ!!」
「んっ、あ…?」
何度目かの揺さぶりと呼びかけにやっと堕ちていた意識を浮上させたアリスは寝ぼけ眼を擦りながらぼんやりとした表情で画面を見、そして脇に立つ火村を見つめる。
「…ひむ、らぁ…?」
焦点の合わない視線で舌足らずに呟くアリスに火村の我慢は沸点をぎりぎりのところで保っていたが、やっと開いた瞳は重力を増し今にも堕ちていかんばかりで、その危うさが保っている筈の火村の箍を外してしまいそうだった。
「ほら、アリス!原稿、片桐さんが待ってるんだろ?」
「ん〜、ええの〜、もう、送ったから…、だいじょ、うぶ…」
突っ伏していた机から頭を離しても芯の無い状態のアリスは、ふわふわと状態を揺らして脇に立つ火村に絡まる様にして凭れかかってくる。
「…ねる〜、おや…しゅ…ぃ…」
冗談じゃ、ねぇ…!!
かくん、と折れるアリスの首に腕を慌てて差し出した拍子にマウスに触れたらしく、ぼうっとモーターの回る音と共にPCの画面が復帰してメールの一覧を映し出した。
その中に、2時間程前に送られてきていた片桐からの「お疲れ様です!無事に原稿を頂きました。とりあえずはゆっくりと休んで下さい」なる内容のモノを見つけ、他に開いているファイルが無いかどうかだけ確認してから電源を落とす。
そうして、再び意識を落としたアリスを肩に担ぐと寝室へと運んだ。
疲れた躰に少しの睡眠、そして、極めつけには夢の様な3連休とくれば、火村の心は湧き立つばかりだ。いそいそとアリスをベッドへ運びしどけなく四肢を投げ出したアリスの耳元で熱の籠った声を吹き込んでやる。
「…アリス、未だ寝るなよ。これから、だろ?」
囁きと共にさわさわと掌を躰に這わせ感じやすい耳朶を甘噛みしてスイッチを入れていった…筈なのに。
「…?アリス…、アリス…?」
聴こえてくるのは艶めいた甘い吐息、ではなく…、どこまでも穏やかな寝息。
「〜っ、アリスっ!」
「ん、かっ…」
ふいに蘇るアリスの言葉に火村は頭を抱えたくなった。
『本来なら7時までの締め切り、結局間に合わなくてラストスパートが延々と続いているんや、ごめんっ火村。俺が寝て仕舞わん様に見とってくれる?え…?この部屋に居るんはいやや。邪魔やもん、リビングにおって』
間に合わなくて…、いつから修羅場だったのか今となっては想像しか出来ないが、此処まで深い眠りに落ちているアリスをみると、もしかしたら前の日から寝ていないのかもしれない。お互いに何かと忙しくしていた事もあり、実に2カ月という長い不在期間だった俺たちはアリスが入稿してから、甘く濃い時間を過ごす予定だったのに…。
「頼む〜、アリス…!」
悲痛な火村の言葉など、もはや一向に届かないところでアリスは眠る。時折瞼が動き長いまつげが細かく震えるが、規則正しい深い呼吸は間違いなく穏やかな眠りを証明していた。起きる、気配など、…微塵も感じない。
あまりに深々と眠るアリスを強引に起こしてしまうのも忍びなくて、諦めた火村は覚めきらない熱を抱えて隣に横たわった。妙に冴えた意識と、先ほどまで浸かっていた淫秘な夢の余韻が躰の奥で燻って火村を苛む。
邪魔だからと追い出された書斎から遡る事、数分前。
久しぶりに訪れる夕陽丘のアリスの部屋の前で、嬉しさからかいつになく緊張して呼び出しを押した火村を出迎えたのは、締め切りを通り越して修羅場にどっぷりと浸かったままの、擦り切れたアリスだった。
…いや、どんなに疲れて居ようが、どんな格好をして居ようがアリスはアリスだ。逢えて嬉しいには変わりないのだが、ウエルカムと抱きつくどころか、締め切りを通り越したことでテンパったあげく『片桐サ〜ン!」と他の男の名前を連呼し、きてくれたけど構えないしええの?と呟き、それでもお前を見ていたいという俺の申し出に書斎に居るのは邪魔だから出てけ、と言い…。
漏れるのはため息ばかりだ。
ふつふつとすれ違いの苛苛が募るが、ぐっとこらえリビングで煙草を吸って…そして、どうやら俺も寝ていたらしい。
その夢が、…堪らなく素晴らしいものだった。
「夢ってとこが味噌だよな…」
―人間にとっては、しばしば憧憬のほうが現実よりも好ましい
ラングベーン 「教育者としてのレンブランド」より―
寝付けそうにない明け方、偉人たちの名言ばかりが脳裏に浮かんでは消えていくが、消えていかない煩悩にただ、ただ、ため息を漏らすばかりの火村であった。
>以上、火村さんの儚い願望と切ない現実でした…。いいのか?これは…。すっきりと目覚めたアリスちゃんを待っているのは、…飢えた狼、なんでしょうけど、今悶々と眠れずに身悶えている火村ですから、アリスが目覚める頃には想像で燃え尽きて意識を手放している事でしょう(笑)そして、せっかく二人で居るのに寝てるってどんなや?!と怒るアリスと寝入ってしまった自分に2度目の後悔をしている事でしょう。ダメな火村…。今、寝とけ。
Author by emi