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『点子ちゃんとアントン』エーリヒ・ケストナー
岩波少年文庫(池田香代子訳)/新潮社「世界名作選・山本有三編」より(高橋健二訳)

スウ(2004.1.16)

なんだか心がうるおってとてもいい感じでした。
この本が面白かったところを3つに分けて述べます。(高橋健二訳のマネ)

●点子ちゃんの魅力
なんと言っても点子ちゃんの天真爛漫な朗らかさが魅力的でした。床屋のシーンではニコニコしっぱなし。自分が子供のころ空想でコ芝居していていとこのお兄さん達に見られたのを思い出してしまいました。冒頭から明るく面白い話を読みたい人にはうってつけです。
お金持ちのお嬢様だからってわがまま勝手なわけじゃなく、かといってお上品で従順なわけでもない、何を言いだすかしでかすか分らないワクワク感がとっても楽しくて大好きになってしまいました。

●ケストナーの語り
物語の途中で作者ケストナーの語りが入ります。これが物語をより深いものにしていて感動的でした。
登場人物の行いにツッコミをいれつつ、親子について、夫婦関係について、家族・友情、生きることの厳しさについて・・等など、人生において大事なこと、思慮深く考えなくてはならないことを教えてくれます。こういうものが入っていて邪魔にならず説教くさく無く面白い本、の存在を初めて知りました。
子供のころに読んでいれば、精神形成に影響を与えたのか、あまりピンと来ない事もあったかもしれませんが、いま読んだ事でポッゲ夫妻の関係とか、アントンが生活のこまごまとした心配事でなかなか寝付かれないところなんてとても実感を伴って、いい加減楽したり楽しみのことばかりに逃げていないで、生きる事の厳しさに向き合う覚悟をしなくちゃいけないと思ったり。
児童書ですが、決して甘いだけの話ではありません。子供には子供の、大人には大人の感じどころがあるお話です。

メモ〜

立ち止まって考えたこと(高橋健二訳では「反省」)
1.義務について 2.誇りについて 3.空想について 4.勇気について  5.知りたがりについて 6.貧乏について 7.生きる事のきびしさについて  8.友情について 9.自制する心について 10.家庭の幸せについて  11.嘘について 12.ろくでなしについて 13.偶然について  14.尊敬について 15.感謝の気持ちについて  16.ハッピーエンドについて

●邦訳をくらべたら
〜掲示板談義〜
子供図書館オフや掲示板でのやりとりでケストナーを読みたくなったので、そのへんからの保存です。みなさま感謝です。

2003/12/25(Thu) かおり
「点子ちゃん」と名訳したのは高橋健二氏だったでしょうか?
とにかく40年前の高橋氏の訳で読んだそれと、現在岩波から出ている池田香代子氏の訳とでは全く趣が違って時代を感じられます。
(前者は今ではNGワードが頻発していて、それと池田氏のを読み比べるとかなり面白かったです)

2003/12/26(Fri) スウ
>「点子ちゃん」と名訳したのは高橋健二氏だったでしょうか?
そうですね。こども図書館では、昔の高橋氏訳の本が展示してあったのに解説の札は池田香代子氏になっていたりと面白かったです。
風太さんの娘さんがドイツ語を勉強されているらしく、高橋氏訳はけっこう間違ってるとも聞きました。
でもそれでも味があっていいんでしょうね。私は読んだことが無いのでぜひ読みたくなりました。訳の違いをくらべるのも面白そう(^^

2004/01/01(Thu) 風太
『点子ちゃんとアントン』
高橋さんの訳だとたしか「婚約者」(池田さんの訳)というのが「おむこさん」ってなってて、はづきと笑ったのなんのって。高橋さんの訳って迷訳かなと思うところ結構あるんですけど、でもそこがまた味があっていいんですよね。池田さんは『夜と霧』も新訳していらして、『飛ぶ教室』も期待してます。

2004/01/05(Mon) スウ
>『点子ちゃんとアントン』
そうなんですか〜でもおむこさんの方が可愛いかんじですね。意味が全然違いますけれど(笑)。
迷訳でも味がある、というのは「点子ちゃん」のネーミングひとつでもう分ります分ります(^^
『飛ぶ教室』とこれは是非読んでみたいです。たのしみ。

2004/01/19(Mon) スウ
読みました。ああー面白かった!こんなに良いとは思いませんでした。(失礼)
最近の心の砂漠化が一気にうるおいました。児童書ですが、親にも考えさせるものがあります。
図書館のリクエストで池田香代子さんの訳で借りたのですが 同時に高橋健二氏のも入手できました。ほんと、比べて読むのも面白いです。
児童書のところを覗いたら『山本有三選 世界名作選』というのがあって、山本有三というのが興味をひいて手にとってみたら点子ちゃんも入っていたのです。 これは、作品に呼ばれたのですね^^
高橋訳は確かに迷訳ですがやはり味があってこれはこれで面白いです。
たとえば
・・それでは、そうした子供の小さい可愛らしい脳髄に皺が出来はしないか、とみんな心配します。

「可愛らしい脳髄」という表現がすごいですね(笑)。
この文章は池田訳には無く原文であったものか判りませんが、
勝手につけたしたとしたらなんかかっこいいす。
脳に皺が出来るのが悪いことのように書いてあるのは時代なんでしょうか。

2004/01/21(Wed) きな
『点子ちゃんとアントン』おおお!
いいでしょ いいでしょ。うるおうでしょ(笑)
私は高橋訳に あまりにもなじんでしまっていたせいか、池田訳はイマイチ・・・でした。
(こっそり打ち明けると ほとんど「まえがき」で挫折^^;)
高橋訳の あののんびりタラタラ感に比べて、池田訳はハキハキ・タカタッタと進んでいくのに どうしても違和感がありました。「です・ます」調と「〜た」調の違いは大きい・・・。
ちなみに、
>それでは、そうした子供の小さい可愛らしい脳髄に皺が出来はしないか、とみんな心配します。
これは原文通りです(笑)。池田さんは なぜこのフレーズを省いたのでしょう・・・??
もうひとつオソロシイことに、「点子ちゃん」は直球ストレート!な訳だったりします。
高橋氏の意訳じゃなくて、ケストナーの(たぶん)造語そのままのニュアンスなんですよ(笑)

2004/01/21(Wed) スウ
よかったです。高橋訳とくらべるのが面白くって最初は話がなかなか進まなかったので とりあえず先に池田訳を一気に読みました。もちろんお話としても面白かったです。
たしかに「ですます調」と「〜だ」では違いますね。高橋訳のほうが何が起きているかわかり易いな、とは思いました。アンダハトさんの紹介で「嬢」とつけているので若い女性なのだな、とすぐに判りますし。
ちなみに
・池田訳 「アンダハトさんは、住み込みの養育係だ。のっぽでやせっぽちの女の人で、みょうちきりんな考えの持ち主だ」
・高橋訳 「アンダハト嬢は家庭教師でした。彼女はすこぶる背が高く、すこぶるやせていて、すこぶる頭が変でした」
「みょうな考え方」をする人と、「すこぶる頭が変」な人ではだいぶ意味合いが違います(笑)
高橋氏は結論が乱暴ですが「すこぶる すこぶる」と名調子で読んでいて気持ちがいいですね。
脳髄云々はやっぱり原文であるんですね。池田訳では無いのは何故でしょうね。

逆にケストナーの語り部分が池田訳では「立ち止まって考えたこと」、
高橋訳では「反省」となっていて、文脈からしても池田訳のほうがしっくりくるかな、とは思いました。

「点子」は、ほんと名訳ですねえ。
造語やもともとの意味を生かした名前の訳っていいですよね。でも今後はけっこうカタカナになって行くのかな、とちょっと寂しい気もします。

2004/01/22(Thu) バーバまま
訳の話が続いていますが、ほんとに、訳者によってガラッと雰囲気が変わりますよね。
それと、同じ訳者でも、最近は出版社が差別用語に神経質で、自主規制するのか、版によって部分的に表現が変わっていたりします。
びっこをひきながら → 足を引きずりながら とかね。これは「トムは真夜中の庭で」で見つけたのですが。
うちにある少年文庫はほとんど古い版なのですが、高橋健二とか、石井桃子、瀬田貞二なんて情緒があっていいのになあ。

2004/01/22(Thu) きな
日本語って変わっていくんだなぁとつくづく思いました<高橋訳と池田訳。
言い回しもそうですが、外来語の理解度みたいなものも。
高橋訳ではピーフケは注釈で「ダックス・・・カモあし犬」なんて書いてあるんですものね(笑)
>高橋健二とか、石井桃子、瀬田貞二なんて情緒があっていいのになあ。
そうそう!(激しく同意)山室静、大塚勇三、下村隆一、小野寺百合子なんかも。
ああいうゆったりとした言い回しって、今の子どもには もう受け入れられないのかしらん。
だとしたら ちょっとさびしいですね。
「すこぶる」なんて現実には使わなくても、物語の中にあったら
今の子どもにとっても 面白い語感の言葉だと思うんですけど・・・。

そういえば映画「ラストサムライ」で、小雪が自分の子どもに言うセリフで「もう 足を洗いましたか?」と尋ねる場面があって。その言葉使いが懐かしかったです。
子ども以前に 私達親世代の言葉が激変しているのですね。

2004/01/23(Fri) バーバまま
Title: いまごろ

>「すこぶる」なんて現実には使わなくても、物語の中にあったら 
>今の子どもにとっても 面白い語感の言葉だと思うんですけど・・・。
で、思い出しました。
ファージョンやリンドグレーン大好きッ子の二女が、小3くらいのとき、 日記に「○○(場所)を出たら、なんと、雪がふっているではありませんか」 と書いたのです。 学校での評価は知らないけど、家族の中では大受けでした。
「○○をでたら、雪がふっていました。びっくりしました」 と書くのが普通でしょう(苦笑)
この数年、小学生の作文を山のように読む機会があるのだけど、 たまに、豊かでユニークな表現の作文に出会うと、一人でニヤリとしてしまいます。

2004/01/23(Fri) スウ
>差別用語に神経質で、
私もそれは感じました。出版者が、とは気づきませんでしたが。
差別用語か解りませんが、「殺す」が「命取り」、「キ印」が「気まぐれ」等など 強烈な表現をくずしてやわらかくしてるなあと思いました。
まあ「キ印」って今の子供には却って解らないと思うんですが(^^;

>日本語って変わっていくんだなぁとつくづく思いました
そうなんですね。高橋訳の入っている「世界名作選」は昭和11年に刊行されたものの復刻版です。
戦前ですね。でもそれくらいでもう変わってしまうのかあと。
「すこぶる」は確かに普段使わなくても面白い語感ですね。
私は高校生の頃ヘルマン・ヘッセを高橋訳で読んで独特の翻訳口調というものの面白さを知りました。「ついぞ・・しなかった」とか^
だからヘッセの詩集で別の方が訳して角川が出した廉価な文庫を読んだ時はがっかりで、きなさんの「まえがきでもうダメだった」お気持ちはよーく解ります。買ったんですがほとんど読まずにポイでした。
でも今回はまあ池田訳を先に読んだということもありそれほど違和感はなかったです。
点子ちゃんがしゃべりながら怒りだす所は池田訳のほうが感じがでているなあと思ったり
ハイヒール→半靴、ジンジャーブレッド→胡椒菓子、シュークリーム→軽焼(かるやき)
など重箱のスミつつきも面白く(笑)。
ただ、高橋訳のそれはそれは上品な口調の点子ちゃんは捨て難いし、ベルリンの描写も高橋訳のほうがすばらしく詩のように美しいです。

>高橋健二とか、石井桃子、瀬田貞二なんて情緒があっていいのになあ。
同感です。石井桃子は先日ファージョンを読んだとき、原文解らないくせに「うまく訳してるなあ」なんて思ったり(^^、瀬田貞二訳は「ホビットの冒険」で以前ここで話題になりました。
今の子にわかり易い単語に直すとしても、単なる訳しただけとは違う味わいのある本をいつまでも残して欲しいものですね。

>「ラストサムライ」
家族同士が丁寧な口調、というのはもうほとんど失われていますね。
特別丁寧と思わなくてもそれが自然だったころは、 もっと家族同士が(心の中で)尊重しあっていたのかなあなんて今考えました。


日本小国民文庫 世界名作選(一)〜山本有三編」新潮社

スウ(2004.2.6)
高橋健二訳の「点子ちゃんとアントン」が入っていたので借りた。

でもそのほかの話も面白くて読み応えがあってよかった。
特に印象深かったのはソログーブの『身体検査』。10ページ足らずの短編なのだけど、こういうものを子供に読ませるのか・・と驚いたと同時に、それを子供のころから分からせる事も必要なのかなと感じた。
学校で盗みの疑いをかけられて身体検査をされる少年の話というとよくある感じだけれど、その最中の少年の気持ちが屈辱感や憤りだけでなく、新しいシャツを着て来た安堵感、嬉しさやシャツの音を同時に感じる複雑な感情の描き方がすごい。
そして最後の、文句を言いに行けずに泣きながら言ったママのことば。

「何にもいえないんだからね―大きくなったら、こんな事どこじゃない、まだまだひどい目にあうかも知れないんだよ。この世にはいろんな事があるからね。」

『点子ちゃんとアントン』の中でもケストナーがこれと似たような事を語っている。
――ほかの人に罪があるのに、皆さんが罰せられるようなことがあっても、余り意外に思ってはなりません。――
でも、ソログーブが「覚悟しとけよ」とつき離している感じとは違って、
――皆さんが大きくなったら、その時こそ世の中がもっと善くなるように、心がけて下さい。
と希望をこめて語りかけている所が素敵。

そのほか、トルストイの『人は何で生きるか』ジャン・クリストフ、ベンジャミン・フランクリンの『私の少年時代』、アインシュタインの日本の小学児童たちへの寄稿文、などのほか「山のあなた」等詩が数編。
昭和11年に刊行されたものが、美智子皇后陛下の言葉がきっかけで平成10年に復刊された本。


『夜の鳥』『少年ヨアキム』 トールモー・ハウゲン/山口卓文 訳/旺文社

スウ(2004.4.13)

●少年は一秒ごとに成長してる

ヨアキムは8歳、お父さんは”神経の病気”で働けなくなり、ふっと家からいなくなってしまうことがある。お父さんとお母さんのことで神経をすり減らし怯える夜、ヨアキムのベッドの下では鳥が騒ぎだす・・。
この鳥はもちろん幻覚・幻聴だけれど、出てくる時はヨアキムの心を反映していて辛い。
『夜の鳥』は詩的な感じのする文章で内容の暗さほど嫌な感じを受けなかった。
脆くなった家族の標本を見るようで非常に危うい感じがするけれど、まだ家族崩壊とまではいかず、愛し合っていてなんとか修復したいという希望が残される。まあ客観的にはもうダメかなと思うのだけど。お母さんの気持ちが痛いほどわかってこれがまた辛かった。
そういうなかで、極貧というほどでは無いが裕福とは言えない近所の子供たちの描写は生々しい。
私も小さい頃を思い出して「ああこういう大嘘つく子っていたなあ」とか「男の子としょっちゅういがみあってたなあ」とか「嫌われてるのになついて来る子っていたなあ」とか、いじめもしないけど庇いもしない感情とか、懐かしい感じさえした。でも、これを子供の時に読んだらけっこう辛いかもしれない。

素直で明るい子供は出てこないし、品行方性とは言えずしょっちゅう問題を起こしている。
それは大抵親に問題があってそれが子供に反映している、という事は具体的には続編の『少年ヨアキム』に描かれている。
ヨアキムは辛い環境下でもちょっとづつ成長していって、もう廊下のしみに怯えたり地下室に人殺しがいるなんて信じない。夜の鳥もいつしか出てこなくなる。
そういえば、『夜の鳥』で出てきた「もうひとりのヨアキム」(これちょっと「死にぞこないの青」を思い出した)はいつのまにか出てこなくなった。それがもっと軸になって話が展開するかと思っていたけれど忘れられたみたいに出てこなくなったのでちょっと残念。だまって佇む描写が印象的だったマイブリットも、普通の生意気な女の子になってしまったし。

『少年ヨアキム』は少年が少し大人になったせいか、「子供から大人に対する批判」という主張がはっきりしていて、前作よりも具体的だけどふつうの雰囲気の話になった気がした。それはそれで悪くはないし、少年が成長して少し周りが解るようになってくれば、こうなるのは自然な流れだったのだろう。話の内容も前作より動きがあって読みやすかった。
ただ『夜の鳥』のほうが、ほんの子供時代だけに見える世界で、言葉に出来ない気持ちが独特の雰囲気で表現されていたので、それが名作と言われる所以ではないかと思った。


『砦』モリー・ハンター/田中明子訳/評論社

スウ(2004.8.16)

この「砦」、ローマ人の奴隷狩りに対抗するために作られたものらしく、男のロマンね!みたいな話だけど書いた人は女性というので驚いた。
スコットランド北東のオークニー諸島に現存する、二千年前の砦の遺跡「ブロッホ」を見た著者が、建造された当時を想像して作り上げた物語。

児童書扱いになっているけれど、なかなかどうして人々の心理や駆け引きなどの描写が緻密で読み応えがある。特に族長と僧侶の抗争はハラハラしてしまったし、男がいったん権力抗争しようと思ったら、どうにも収まりが着かないものなんだなあと改めて思った。

全編とおして重要なポイントが、一族の掟、慣習というもの。大地に生贄をささげ、神を信じることで安らかな御世行きが約束される。ために人心はその事を中心に動く。
そこで新鮮だったのが、女系が族長の血を受け継ぎ、実際に族長となるのはその夫、という慣習。つまり常に娘婿が族長になり、その婿は議会で認められた"民衆を守れる強い男"でなくてはならない。これはなんとなく理にかなった掟ではないかしらんと感じた。夫を選べないのは悲しいけれど、長男ばかりが後を継ぐのは途中でろくでなしが混じる事を防げない。この場合、血も守るし民衆も守る、というわけだ。

そんな事もあり、生贄を捧げる古代の慣習なんて、という感じはしなかった。

 ―ベルテーンの祭りの日に、清らかな若い血が注がれることを大地が要求しているのだ。そうしないでどうして、大地から生じる作物と、それで養われる家畜が豊饒でありえよう?―

生贄が良いか悪いかは別として、そこには自然に対する畏怖と「頂きものによって生かされている」という意識があり、そのような気持ちを持ち続けている限り、人間はなんとか地球の一生物として生かしてもらえるのだろうに、という気持ちが湧いてきた。

主人公はこの「砦」の建造を思いつく知性豊かな若者なのだけれど、話の中で女性の活躍が著しかったのが私は気に入った。族長の妻アヌ、その娘のクロダ、ファンド、誰もが慣習に従うだけの弱い存在ではなく、一族を守る義務と責任とを心に強く持ち、それに伴う悲しさや、深い愛を感じさせる激しさを備えている。見ていて痛々しいところもあったけれど、最後は胸のすくようなクロダの行動に喝采。


『マチルダはちいさな大天才』 ロアルド・ダール/宮下嶺夫 訳/評論社

スウ(2005/03/29)

出だしからブラックユーモアが楽しくて、読書好きには目を見張るエピソードが面白く一気に読んでしまった。
最初、マチルダの頭の良さが親への報復のために使われてしまうのがちょっと悲しかったけれど、マチルダが決してへこたれず、ユーモアたっぷりで意地悪くなり切らない所が楽しかった。
とはいえクエンティン・ブレイクの軽やかな挿し絵で随分救われていたような気がする。

それにしても、このお話はいろいろな形での児童虐待が扱われている。そのわりに暗く悲しくなり切らない所が稀有で面白いなあと思うけれど。
マチルダは4歳と3ヶ月でディケンズやヘミングウェイを読破したり、瞬時に暗算してしまう程頭の良い子。なのにその両親はテレビばかり見て子供が本を読むのは大反対。パパはインチキ中古車販売店を経営し、ママは平日の午後はマチルダをほったらかしでビンゴ大会に行ってしまう。食事はアルミトレイにセットされた出来合いのTVディナーばかり。
マチルダの才能にまったく気づかないどころか、もの知らずのうすバカ呼ばわりしてマチルダが図書館で借りてきた本も八つ当たりで破り捨ててしまったりする。子供に無関心、放置、言葉による虐待。

更にヒドイのがマチルダが通い始めた小学校の女性校長。気が狂っているとしか思えない理不尽さと暴力で子供たちを震え上がらせる。
こういう酷い人が出てくると、マチルダがどうやって校長を懲らしめたりするのかなあと楽しみになるのだけど、残念なことに、以前テレビで映画版のクライマックス部分だけを偶然、知らないで見てしまっていたのでオチが分かってしまった。でも映画よりもワケが分かって読んだ分納得したし本のほうが爽やかな後味だった。
ドタバタながら全部丸く収まってしまうところも、子供のための読み物なのでこれでいいのだなと思う。
それは、マチルダが担任のハニー先生に言う、この言葉が刷り込まれて納得させられた気がする。

「わたし、ミスターC・S・ルイスはとてもよい作家だと思います。でも欠点もあります。物語にこっけいみがないんです」
「ほんとにそうよね」
「ミスター・トールキンにも、あまりこっけいなところがありません」
「あなたは、子どもの本はみんな、こっけいなところがなければいけないと思うの?」
「そう思います。子どもって、おとなほど、まじめじゃないんです。だから、笑うのが好きなんです」

===以下ネタバレです===

マチルダが超能力を使えるようになったのが、あまり良い事とは思えなかった。でもミス・ハニーが慎重にならなくてはと諭したり、不安に思っていたような、トランチブル校長を超能力で投げ飛ばしたり暴力的に脅したりするのでは無く、一応頭を使ったアイディアで一矢報いたのでほっとした。後にその能力が無くなるところや、何故かと話し合う場面がある事も納得行くギリギリの線を保ってくれた。
映画で終わりだけ見たときは、若い身空で5歳児を引き取るなんて自分の人生はどうでもいいのかしらこの人、などと思ったものだけど。


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