旧呉鎮守府地下作戦室(司令部地下壕)

2018.03.04


       呉江田島ツアー二日目。早朝から安浦漁港のコンクリート船武智丸、呉の大和ミュージアムを見て回り、最
      後は呉地方総監部敷地内にある旧呉鎮守府地下作戦室の一般公開に参加です。入船山記念館の隣にあるコイン
      パーキングに車を預け、少し歩いて1235に呉地方総監部前に到着しました。
       先客は2名だけでしたが、すぐに後から後から人が集まり始め、開始時刻の1300には7~80名近い規
      模
に。地味目の一般公開なのに、結構見に来る人がいるんだなあ。正門前にて見学手続きを済ませ、広報の隊
      員さんの案内で本日の公開の始まりです。

       まず正面に見えるのが、呉地方総監部の第一庁舎。江田島海軍兵学校と並んで紹介される事の多い見事な赤
      レンガ建築物
ですが、こちらは観光コースにも組み込まれている兵学校とは違って滅多に中に入る事は出来な
      いので、こういう機会は貴重です。
       この第一庁舎、太平洋戦争中に8回にわたって行われた米軍による呉空襲で内部は焼け落ちたものの、外観
      は当時からそのまんま
。正面前には大きな松が植えられていますが、これはよく見ると錨の形を模して剪定さ
      れていて、植木屋さんってすごいなあ・・・と感嘆させられます。

       ちなみにここ呉地方総監部(戦前は呉鎮守府)、今でこそ敷地面積は小さくなってしまいましたが、昔は呉
      駅の手前までずーっと海軍の敷地
だったそうです。同様に海側は現在の潜水艦桟橋のあたりまで全て海軍の敷
      地
でしたが、戦後呉鎮守府を接収した進駐軍が海軍工廠の部分をJMU(ジャパンマリンユナイテッド)に払
      い下げてしまったため、総監部と桟橋が切り離される形になったとの事。
       「国内に海上自衛隊の大きな基地は5つありますが、こんな不便な事になってしまっているのはここ呉だけ
      なんですよ」

       と、案内係の隊員さん。舞鶴も戦後海軍工廠がJMUに払い下げられましたが、湾の対岸だったので大して
      不便はなさそう
ですからねえ。ここで見学者があまりに多いという事で、グループをを2つに分けて見学する
      事になりました。
       この赤れんが庁舎ですが、使用されているレンガは実に4万個。これまで海軍兵学校同様に英国から輸入し
      た赤レンガを使っていると思われていましたが、最近行われた調査で実は国内産のレンガだった事が判明した
      そうです。

       続いては車通しのある正面入口へ。屋根の柱が前が3本あるのに対し、後は1本という不思議なデザインに
      なっています。四つ角に1本ずつの計4本でも十分な強度があるそうですが、隊員さん曰く
       「これは恐らく、毛利元就の3本の矢の故事にならった設計ではないか・・・と言われています」
       との事。今ならさしずめ陸海空の3本の矢と言えますが、当時は空軍はありませんでしたし、陸とも仲が悪
      かったそうですからねえ。
       また、後ろ側の柱の基部に取り付けられた湾曲した鉄棒は、馬車の車輪がぶつかって柱が傷まない為のスト
      ーンガードだそうです。全体の設計が非常に優美なのに、ここだけプラモデルのランナーみたいな不愛想とい
      うか質実剛健なデザインなのが、やっぱり軍人さんの建物ですね(笑)。

       ちなみにこの第一庁舎、地上2階&半地下1階という不思議な設計。なるほど、確かに足元の窓が半分埋ま
      った様な形
になっています。これは昔は電気がなく、少しでも自然光を取り入れようとしてこんな形になった
      とか。
       また赤レンガの外観ですが、よく見ると1階と2階でデザインを変えてあります。1階部分は城郭の石垣
      イメージしていかつく雄々しく、2階部分は曲線を多用して優美なデザインにしたそうです。

       その後は庁舎の脇を通って海側へ。ちなみにこの第一庁舎、室外機が建物の美観を損ねるため内部にクーラ
      ーは一台もない
との事。その為夏場は大変な暑さになるそうです。うーん、昔は扇風機があれば事足りたんで
      しょうけど、今は暑さのレベルが全然違いますよねえ・・・。建物があまりに貴重過ぎて、壁に穴とか空ける
      事が許されないのかなあ。
       庁舎の裏手から海側に向かって伸びているのは、大階段。ここ呉鎮守府に明治天皇が訪問された際、職人さ
      んを動員して突貫工事で作り上げたという逸話を持つ明治天皇専用の階段です。

       「でも、当日海側から船で上陸された明治天皇は、脇の坂道を馬車でぐるっと回って庁舎に入られたらしく、
      この階段は使用されませんでした。まあ、考えてみればそうなりますよねえ(笑)」

       と隊員さん。明治天皇が登られるという事で、一世一代の誉れとばかりに精魂込めてこの階段を作り上げた
      職人さん達は、さぞかしずっこけた事でしょう。
       「普段この階段を儀礼的に使用することはありませんが、唯一例外がありまして、この地方総監部で一番偉
      い人、総監が離任される時だけはこの階段を降りまして、隊員たちが並ぶ花道を通って船に乗り込まれます」

       ここから振り返ると、松の木に囲まれた第一庁舎の裏側が見えますが、実はこの庁舎、先ほど見た正面より
      も海から見た裏側の方が立派な造りになっているとの事。
       「昔はこの鎮守府を訪れた海外の偉いさんは、沖合に停泊した船から小さな連絡船に乗り換えてここまでや
      ってきたので、海に面した裏口の方を立派に作る事で『日本海軍はあなどれないぞ』と思わせるためにこうい
      う造りになったそうです」

       また建物左右から突き出した両袖の部分ですが、これはこの建物が作られた当時は存在せず、あとから建て
      増したとの事。
       「今こうして見ても、後から増築した風には見えないでしょ?大工さん達は相当頑張ったみたいです(笑)」

       庁舎裏口の手前には大きな池のある日本庭園が広がっていますが、この池は本来防火用水として作られたも
      ので、いつ誰がこんな立派な鯉を入れたのか不明だそうです。池の右手には、皇太子時代にここを訪れた昭和
      天皇が植樹した松の木
があり、記念碑も建てられてありました。

       そして庁舎由来の銘板の上に取り付けられていたのは、掃海艇ははじまから移設された時鐘。昔は時計がな
      かったので、これをかんかん鳴らして時刻を知らせていたそうです。それにしても、時鐘って『ときしょう』
      って読むんですね。『じしょう』かと思っていました・・・(笑)。

       その時鐘の脇にあったのが、地面にぽっかり開いた地下作戦室への入り口です。防空壕としての役割もあっ
      ただけに、建物近くの目立たない場所にあるのは当然でしょう。 
       中には入れないので入口から覗いてみましたが、階段状に降りて行く内部通路は思ったよりも広く、トンネ
      ル壁面もきれいな状態でした。

       その後は庁舎裏の坂道を降りて、海側へ移動します。途中右側に4本突き出た煙突の様なものがありました
      が、これは地下作戦室と通路網の換気を行う通風孔だそうです。

       その坂道を下りきったところにあったのが、地下作戦室。入口を覆う屋根の部分がゲレンデ状の山肌になっ
      ているのは、上空から発見されにくい様にという設計でしょうか。なんだか昔の古い映画館の様な佇まいだな
      あ。今は外壁がむき出しですが、以前は一面のツタに覆われていたそうです。

       「恐らくカモフラージュのためにツタを植えたと思われます。これでも一般公開のために、かなり掃除した
      方なんですよ(笑)」

       と隊員さん。という訳で、隊員さんを先頭に作戦室内に入ってみます。まず驚かされたのが、入り口周りの
      異様に分厚いコンクリート壁。


       「だいたいどこも、1.5m位の厚みのコンクリートで覆われています。爆撃に耐える為ですね」
       そして内部の広さと天井の高さにも驚かされました。奥行15m×幅14mのほぼ正方形の室内で、天井の
      高さは6m。当時はここに通信機器西日本全域の巨大な地図が張り巡らされ、爆撃機の接近をランプで表示
      していたそうです。
       また、この奥の方にも地下通路が何本も掘り込まれ、恐らく呉駅の方まで到達させる計画だったのではと言
      われているそうです。終戦でその計画も終了し、現在は途中で行き止まりになっている坑道や、地面が崩落し
      たままになっている箇所もあるとの事。

       「この作戦室と地下通路に関しては、当時の資料がほぼ何も残っておらず、建設に関わった人達もその殆ど
      が高齢の為亡くなられています。10年前に発見されていればまだ何らかの証言が得られたかもしれませんが、
      今となっては謎だらけなんですよね」

       と隊員さん。調査に当たっては建築の専門家にも見てもらったそうですが、その人も大変驚いていたそうで
      す。
       またこの地下作戦室、これまで開かずの間としてずっと放置されていましたが、今の総監の一声で調査を開
      始。開けてみたらとんでもないものが出てきたと、詳細な調査を行ったうえで昨年7月から一般公開を始めた
      との事。
       「開けたばかりの時は、室内にコウモリがいっぱいいたそうですよ(笑)。御覧の通り天井部は結構傷んで
      いますので、足元の柵から中へは入らない様にお願いします」

       それにしても、こんなあからさまに怪しい扉をずっと放置していたというのも、呑気と言うかすごい話です
      が、あらゆる職域に秘密がつきまとう仕事だけに、自分の仕事に関係ない事には興味を持たない癖が自然につ
      くのかも。
       ただでさえ色々と忙しい中意欲的に調査に着手し、その上一般公開までしてしまえ!という今の呉総監の英
      断
には、心の底から賛辞を贈りたい気分です。
       ちなみにこの地下作戦室の隣やその2階部分にもたくさんの部屋があり、会議室発電機室換気室排水
      通信室事務室映写室休憩室として使われていたと思われるそうです。

       そしてこの地下室全体ですが、山の斜面をアリの巣の様に掘り込んだのではなく、まずコンクリート製の巨
      大な建物を作ってから、その上に膨大な量の盛り土と植樹を施して、建物全体を埋め隠してしまったとの事。
      呉駅まで伸ばそうとした地下通路といい、とんでもないスケールの話だなあ。

       その後は庁舎前まで戻り、以上で見学は終了。いやあ、予想以上の内容でした。てっきり地下室の入り口か
      らちょっと見せる程度かと思っていましたが、庁舎の説明もありましたパンフレットも立派だし、こんな事
      ならもっと早く見に来ればよかったなあ。
       もしかしたら横須賀や舞鶴、佐世保にも、同様に開かずの間と化したまま放置されているこういう物件があ
      るかもしれません。あ、そういえば呉の潜水艦教育訓練隊の敷地の山側にも、なんか怪しい地下壕への入り口
      っぽいもの
があったなあ・・・。
       さて、その後は大阪に戻ります。イベントシーズン開幕直前のわずかなオフを利用しての遠征でしたが、い
      やはや見どころだらけでしたね。今回は桟橋の艦艇一般公開には行けませんでしたし、江田島には他にも沢山
      の戦争遺跡が残っています。喫茶伴天連にもハートを鷲掴みにされてしまいましたし(笑)、また時間を作っ
      て広島に来たいなあ・・・
と思いつつ、大阪に向けて車を走らせました。




呉江田島ツアー2018二日目、コンクリート船武智丸に戻る
トップページに戻る
自衛隊イベント以外のおでかけ目次に戻る