■ 「新聞」に想うこと                     平成23年8月3日

 以下の短文は、ある先輩ボランティアから勧められ、某所のボランティア募集に応募した際に求められた 課題「新聞についてのエッセー(400字以内)」である。

 この歳になってボランティアをするのに、このような形式ばった面接を受けるなどとは思いもしなかった。どうやら、世の中の状況はボランティアをするのではなく、させて頂くということが正しい認識らしい。 浮世の新たな常識を一つ学ばさせて頂くこととなったのだが、それはものの見事に落っことされて初めて気がついたことである。

 あぁー悔しいやら、情けないやらで・・・・・。
 「だから云ったじゃないか、新聞を批判するんじゃないと・・・・・」

 先輩の言葉が虚しく響く。自分としては、当初想定した文案を相当骨抜きにし穏やかにした積りであったのに。だから、却って意味不明になってしまったのだと悔やまれるのだが、面接を振り返れば、提出した文脈ではなく当初思っていたことが思わず口に出てしまい、勢いでチクリと遣ってしまったようにも思う。

 勿論、これだけが原因でないことは良く分かっている積りであるが、自己の能力の低さや人格不良を冷静にあげつらうより、言い訳を繕い原因の本質をすり替えてしまおうとする根性に今更ながら愛想が尽きてしまうのである。

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  ○「新聞」に想う
 チュニジアで起こったジャスミン革命に端を発した民主化運動が、中東・アフリカ諸国へ飛び火していったことが連日のように報道された。そしてこの一連の政変が、インターネットが起こした革命ともいわれている。

 我が国でも、若者の新聞離れや販売部数減少の加速化に歯止めが掛からないなど、今新聞はITや通信技術の革命的な進展に大きな影響を受けている。

 しかし私の新聞に対する思い入れは、真に社会が必要とする記事を、じっくり丁寧に読めることにある。即ちあの新聞社、あの記者の考えが好きだからとか、あの意見に賛成だからといった、読者を魅了する記事に出会えることである。

 新聞が私の生活の中に定着し、有用性を感じるのは正にその点にあり、多様なメディアが発達した今、速報性だけを求めてはいない。

 だから先端技術と共存し、新聞独自の有用性を発展・継承していくことを願ってやまない。それは新聞に熱烈なファンがつくことかもしれない。

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 ●当初思っていたストーリー
 チュニジアで起こった・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・、インターネットが起こした革命ともいわれている。

 なぜ新聞が受け皿に成り得なかったのか、新聞の大きな存在意義は「権力の監視」であったはずなのに、易々とネット情報にその座を奪われてしまった印象を与えている。そこに新聞のこれからのあり方が示唆されていると思う。

 我が国でもITや通信技術が驚異的に進展し、若者の新聞離れや販売部数減少の加速化に歯止めを掛けられない現状に、その示唆が象徴されていると思う。

 私のこれからの新聞への期待は、多様なメディアが発達した今、速報性への期待より真に社会が必要とする情報の発信にある。

 それはネット媒体が太刀打ちできない優秀で豊富な取材力で独自性を高めていくことであり、あてがいぶちの金太郎飴情報垂れ流しからの脱却ではないだろうか。

 ※面接ではこれに輪をかけて、宣まったのかもしれない。

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