私の中で、十年間で映画を一本だけ撮ろうという意志が働いたことなどは一度もありません。私にはこれまでの間に、多大な努力を費やしたあとになって残念ながら実現されられなかった企画がいくつかありました。私は常々、この経験は痛ましい損失のようだと言っています。問題なのは、私にとって映画を撮っていない時間が通常よりもはるかに長いことにあります。私のケースは極端なものであって、どこまでが典型的なのかは分かりません。私にとって、自分が映画を撮っていない時間は、たとえ映画を撮っていなくてもシネアストの基準で自分の周りで推移する生活を観察し続けている時間なのです。私は映画を見に行く時だけでなく、常にシネアストであり続けているのです。街を散歩する時も、人と話しをする時も、映画を撮っていないにせよ。もし平静さを保って生活することが出来るならば、その待ち時間ですら非生産的ではありません。それゆえ、私はいつもこう言うようにしています。私が最終的に撮ることの出来た映画はまた、それまでに撮ることが出来なかった映画によってもたらされたものであると。 |