エリセの言葉

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映画監督が自分でなしうるこの上なく完璧な表現方法というのは、自分がつくることのできた映画作品だと思います。

若い頃、私は映像(イメージ)の美しさを信じていましたが、今日では特にショットの正当性、適合性を信頼するようになりました。なぜなら映画は映像(イメージ)の問題ではなく、ショットのそれであるからです。一つのショットの美しさ、その正当性、それを選択する際の適切な判断とは、映像(イメージ)の美しさとはかけ離れたものなのです。

私の中で、十年間で映画を一本だけ撮ろうという意志が働いたことなどは一度もありません。私にはこれまでの間に、多大な努力を費やしたあとになって残念ながら実現されられなかった企画がいくつかありました。私は常々、この経験は痛ましい損失のようだと言っています。問題なのは、私にとって映画を撮っていない時間が通常よりもはるかに長いことにあります。私のケースは極端なものであって、どこまでが典型的なのかは分かりません。私にとって、自分が映画を撮っていない時間は、たとえ映画を撮っていなくてもシネアストの基準で自分の周りで推移する生活を観察し続けている時間なのです。私は映画を見に行く時だけでなく、常にシネアストであり続けているのです。街を散歩する時も、人と話しをする時も、映画を撮っていないにせよ。もし平静さを保って生活することが出来るならば、その待ち時間ですら非生産的ではありません。それゆえ、私はいつもこう言うようにしています。私が最終的に撮ることの出来た映画はまた、それまでに撮ることが出来なかった映画によってもたらされたものであると。

DVDによって作家たちはエッセイ、あるいは赤裸々な日記といった、大映画産業では受け容れられない表現方法で取り組むことが可能になるかもしれない。事実、私は今後のプロジェクトでこの新しい側面を取り入れようとしているのです。

現代の観客はあまたの安易な方法によって操作されていることも事実です。メディアは作品を見るかもしれない観客に対して非常に強い圧力をかけている。二十年前(84年当時)であれば、映画に対してもっとずっと自由な接近の仕方があったのです。現在ではほとんど義務というか、社会的な儀礼を果たすために見に行く映画というものがあります。現在社会においては、文化はそうしたもの、つまり表象機能のひとつになってしまい、生命を失ってしまった。物事を探究し、自発的に知識を得ようとか、個人的に創造をしようという意味での生命を失ってしまいました。もっと否定的な社会状況、あるいは抑圧的ですらある社会状況の中でさえ、この生命に触れようとして払わねばならなかった努力は、すでにどこか創造的であったのです。

初めてキャメラの前に立つ人たちと仕事をするのが好きですね。初めてキャメラと向き合うことには感動的なものがあります。ある人に初めて物事が起こるとき、そこにはとてつもない力や躍動感が宿ります。

ある意味でフィクションというのは破産してしまったか、破産したかに見える。ヴェンダースが『ことの次第』の中で「ありとあらゆる物語は語り尽くされてしまった」と言っているのは、もっともなことだと思います。

現代の映画は、息の詰まるような小さな世界に閉じこもってしまっているので、もう少し風通しをよくするためにはひとつだけでなく、いくつも窓を開けなくてはならないのです。

時にラテン・アメリカやアフリカやアジアに現れるいつくかの作品にわたしは興味を抱いています。産業という面から見たときそれらの映画は非常に脆い。たしかにそうなのですが、しかし何かを持っています。ある感情とか力とか偽りのなさとかいったものですね。こういったものは豊かな社会でつくられた映画の多くには欠けているものなのです。これを忘れてはなりません。

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上記の言葉は全て『e/mブックスG ビクトル・エリセ』の中より引用したものです

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