ビクトル・エリセ略歴

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 ビクトル・エリセ・アラスは1940年6月30日スペイン・バスク自治州ビスカヤ県カランサに生まれる。生後からマドリードでの大学入学、もしくは映画学校への入学以前のことはあまり明らかにされてはいないのだが、エリセの生後間もなく家族は隣接するギプスコア県の港町サン・セバスティアンに移り、彼はその町で大学に入るためマドリードに出るまでの少年・青春時代を過ごした、と言われている。このサン・セバスティアンでは毎年9月に国際映画祭が催されることから、年間を通じてもシネ・クラブの上映運動が活発であり地方都市とはいえ映画が特別扱いされる土地柄であった。 したがって、エリセが 映画的環境に恵まれた青春時代を過ごしたであろうことは想像に難くない(この頃に知り合ったシネフィルの何人かとはのちにマドリードで再び顔を合わせることになる)。そして1959年にこの映画祭で観たフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』に衝撃を受け、その晩トリュフォーのフィルムが呼び覚ました感動を文章に綴ることを決意する。この瞬間から彼の映画へ向ける視線は一変する。一映画狂として見るのではなく、映画を将来自分の進むべき道であるのだと自覚するようになったのだ。

 高校を卒業したエリセはマドリード行きを決心する。表向きはマドリード中央大学政治科学部に入学するためだが、腹の内では首都にあるこの国唯一の映画研究養成所にて映画を学ぶことを切望していて、大学進学はそのための口実であったようだ。こうして1960年秋に映画研究養成所に入学、1961年春まで続く一年次にエリセは16ミリの短編習作『テラスにて』を撮る。二年次(1961年〜1962年)には実習の短編作品『軌幅』を16ミリで、そして『失われた日記のページ』を初めて35ミリで撮り、最終年次(1962年〜1963年)には35ミリで卒業制作『失われた日々』を発表し監督号を取得、1963年国立映画学校を修了する。

 勉強のかたわら批評活動にも入学当初から積極的に取り組み、「芸術思想手帖」誌と「ヌエストロ・シネ(我らの映画)」誌の同人となる(日刊紙「ヌエボ・ディアリオ」でも映画評を書いていたという記録もある)。1961年に創刊され た後者では8月の第2号にサンティアゴ・サン・ミゲルともに「第二回国際映画学校特集」を執筆、以後数多くの論考を同誌で発表し1967年9月の第65号まで参加した。当時マドリードではパリの「ポジティフ」誌の影響濃い「ヌエストロ・シネ」に対し、もう一誌「フィルム・イデアル(理想の映画)」というこちらは「カイエ・デュ・シネマ」派の雑誌が存在していた。エリセ監督
フランコ支配により言論の自由が存在しなかったこの時代に双方は互いに独自のスタンスで評論を展開し、左派よりの「ヌエストロ・シネ」は「批評リアリズム」を基調に1960年代にわたり映画理論、内外の映画評、作家論を繰り広げて行くなか、エリセは内外の作品・作家を問わず意欲的に取り組んだ。外国作品評ではニコラス・レイ、ジリ・ワイス、ロバート・オルドリッチ、ジョン・フランケンハイマー、ジュールズ・ダッシン、ヘンリー・キング、ルキノ・ヴィスコンティ、吉村公三郎、ピエル・パオロ・パゾリーニなどの公開作品が、スペイン映画評ではホセ・マリア・フォルケー、フェルナンド・パラシオス、ミゲル・ピカソなどの映画が取り上げられ、またラファエル・アスコナ(スペインの脚本家)、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ、溝口健二、アルフレッド・ヒッチコック、オーソン・ウェルズ、チャールズ・チャップリン、ホセ・ルイス・ディビルドス(スペイン)などを取り上げた作家論を披露、はたまた「リアリズムと共生」「シネマ・ヴェリテの明白な真実」「意識下での消失」という考察を次々と発表。映画について「書く」ことで自分の道を見出した彼のこれらの論考からは(のちに独自の創作で表現してゆくことになる)、映画の本質についての理論的熟慮への関心を窺い知ることが出来る。

 こうして批評家として映画人第一歩を印す一方、国立映画学校卒業の1963年に助監督・脚本としてプロの映画製作に参加、創作活動も開始する。「ヌエトロ・シネ」誌の同人でもあったアンチョン・エセイサ監督の『秋になれば』(63)のシナリオをホセ・ルイス・エヘア、サンティアゴ・サン・ミゲル(2人も同誌の仲間)と共同で執筆し、エリセは助監督も務めた(彼ら4人は「ヌエストロ・シネ」誌のなかで<サン・セバスティアン・グループ>と呼ばれていた)。前述のように評論活動を続けていた間も彼は創作方法を模索し、1967年マヌエル・ロペス・ユベロと共同でミゲル・ピカソ監督の『八月の暗い夢』の脚本を執筆する機会を得る。

 初監督の機会はもう一人のバスク人から与えられた。1968年、サン・セバスティアンでのシネ・クラブ時代から既知の間柄にあったエリアス・ケレヘタはアメリカ人俳優から映画を作らないかと持ちかけられ、国立映画学校で優秀な成績を修めた3人の若者によるオムニバス映画を製作するアイディアを提案する。カルロス・サウラ監督の『狩り』(65)を世に送ったのち、サウラの次の世代を発掘し「ニュー・スパニッシュ・シネマ」を確固たるものにする意図がこのプロデューサーにあったのだ。白羽の矢が立ったのはクラウディオ・ゲリン、ホセ・ルイス・エヘア、そしてビクトル・エリセであった。3人のほか脚本にラファエル・アスコナも加わったこの『対決』(69)でエリセは最終章を担当、スペインの「プログレッシブ・カルチャー」の若者たちと「アメリカン・ライフ」との対峙、または自由な愛を描いたこの映画は故郷のサン・セバスティアン映画祭に出品され、フランシス・フォード・コッポラの『雨のなかの女』(69)などと争った結果、銀の貝殻賞(第二位にあたる)を受賞する。

 オムニバスとはいえ初監督作を発表した後からエリセは広告、コマーシャル・フィルムの制作に携わり始めたらしい。1971年頃、彼は日常の仕事の合間を縫って一本の映画のシノプシスを書き、ケレヘタにそれを渡した。するとその企画に映画化の承認が下された。そこで「ヌエストロ・シネ」誌時代の旧友、アンヘル・フェルナンデス=サントスとともにスペイン内戦終戦後のカスティーリャ地方を舞台にした『ミツバチのささやき』のシナリオを執筆する。基調となるストーリーは、巡回映画の上映で見たフランケンシュタインが実は村の外れに住んでいる精霊であると姉から教えられた6歳の少女アナが、その嘘を信じて精霊との出会いを願う。というもの。エリセは少女の通過儀礼と生と死を巡る物語を、限りなく静寂に包まれた家族や社会に深く刻まれた戦争の傷痕を背景に、多くのエッセンスを内包する美しい作品に結実させた。こうして初めて一人で監督した映画は1973年に完成し、再びサン・セバスティアン映画祭に出品されグランプリ<黄金の貝殻賞>をスペイン映画として初めて受賞。映画界はビクトル・エリセの偉大な感受性とそれを現わす詩的才能を知り驚嘆する。その後世界の映画祭でも好評を博し、前途洋々であるかにみえたエリセだが、再び広告の世界に戻らねばならなかった。

 結果として次の作品を撮るまでに十年を要するのだが、その間に実現には至らなかったものの幾つかの企画を練っていたようで、その一つに『室内夜』というタイトルのシナリオも含まれる。あるインタビューでの受け答えで次の『エル・スール』を撮るまでの間、「スペインの南部で暮らしていた」とか、または「何度も南へ旅した」とあることから、彼がこの間マドリードを離れていた可能性も高い。仕事の事情によるものか、具体的な時期や滞在地、またその理由は不明だが、彼にとって生活環境にも変化があった時期だったのだろう。

 映画学校の同級生だった、夫人のアデライダ・ガルシア・モラレス作の物語の映画化でエリセが再びメガホンを取るのは1983年のこと。この第二作『エル・スール』において彼は父と娘を中心とした家族の関係と父を巡る謎を、再度少女の眼を通して語っている。主人公エストレリャが父の故郷である「南」へ旅立つ姿で幕を閉じるこの映画は、当初スペイン国営テレビ(TVE)で3話に分けて放映される予定だったが、プロデューサーのケレヘタ(前作と同じ)によって撮影は中断され現在我々が知る形で完成した(これをきっかけにエリセはケレヘタと決別する)。映画はカンヌ映画祭に出品されるも賞は逃した。だが『ミツバチのささやき』の監督の次回作を待ち望んでいた世界のファンには熱狂的に迎えられ、ビクトル・エリセの名声は不動のものになった。日本では1983年にフィルム・センターで開催された「スペイン映画の史的展望1951-1977」で初めて『ミツバチのささやき』が紹介され、翌1984年には『エル・スール−南−』も「第一回スペイン映画祭」で上映される。1985年には2作とも公開され、『ミツバチのささやき』の公開前には監督もプロモーションのため初来日を果たした。エリセ監督「マルメロの陽光」より
 三度広告の仕事に舞い戻り、単発的にこの仕事をこなしながら映画を撮る機会が巡って来るのを待つ生活が再び彼を襲う。第三作『マルメロの陽光』を世に送るまで再び十年間近くが経過するが、その間のエリセの活動については記録がいくらかある。A・ガルシア・モラレス原作の『ベネ』の映画化に着手するも頓挫し、ボルヘスの2本の小説『死とコンパス』と『南部』の映画化を企図し脚色する(奇しくもエリセ作品と同じ『エル・スール』という原題の後者は1991年、カルロス・サウラがシナリオに手を加えTV用に監督した)。またベルナルド・ベルトリッチの『ラストエンペラー』のスペイン語吹き替え版の監修を務める。評論活動も再開し1986年にジョス・オリベルと共同でアメリカの映画監督ニコラス・レイについての研究書「ニコラス・レイとその時代」を執筆し、フィルモテカ・エスパニョーラ(国立フィルムアーカイブ)より刊行される。そしてこの時期の最も野心的企画はベラスケスの名画「侍女たち」を題材にした『ベラスケスの鏡』で、シナリオもかなりな部分まで書き進めされたようだが、またしても実を結ぶことはなかった。

 1990年夏の間、エリセはテレビ用短編ドキュメンタリーを撮るため画家アントニオ・ロペスの創作活動の様子をビデオカメラで追う。絵画「ルシオのテラス」など複数の風景画を同時に進行させる画家の作業は番組として完成しなかったが、この出会いがきっかけとなり、1990年9月下旬、充分な準備もされないままマルメロの樹を題材に描く画家の姿をキャメラで追う『マルメロの陽光』の撮影がスタートした。2人のアーティストのひらめきで製作が始められたドキュメンタリーのような美しいフィルムは、プロデューサー不在ゆえ引き起こる幾度の困難を経て、撮影に八週間強と編集には一年近くを費やした後やっと完成し、1992年のカンヌ映画祭では審査員賞と国際批評家連盟賞を受賞する。映画界の常識を無視するような形で製作が進められたこの作品について、彼は配給その他の面でも直接的関与を果たさねばならなかった。大手の配給会社の手を借りなかった『マルメロの陽光』は、一月に公開されたものの、小サーキットのみでの興行に終わった。そしてほとぼりが冷めると久しぶりに筆を取りセルジュ・ダネーの追悼文を寄稿したり(「Archipielago」誌1995年秋号)、1997年7月に開かれたタオルミナ映画祭のアンケートで、ルノワールの『』を選出し紹介文を寄せるなど、特に講演会やセミナーへ意欲的に参加し独自の映画論などを披露するようになる。1998年1月にはエリセが全面的に協力し映画雑誌「banda aparte」エリセ特集号が刊行される。また有料テレビのカナル・プルス(スペイン)は映画評論家のカルロス・F・エレデロの脚本に基づき『精霊の足跡』と題した『ミツバチのささやき』についてのドキュメンタリーを制作、エリセも番組のなかで自作について語っている。

 一方で1996年スペイン人プロデューサー、アンドレス・ビセンテ・ゴメスからフワン・マルセーの小説『上海の呪文』(1994年の国家文芸批評家賞受賞作)の映画化を持ちかけられ、エリセは快諾し脚色に取り掛かる。当初、1998年6月から撮影がスタートする予定であったが、2ヶ月前になって突然プロデューサーが無期延期を決定する。1999年11月雑誌「Ajoblanco」に掲載されたインタビューのなかで、エリセは『上海の呪文』の監督を下りたことを打ち明け、3年間にわたってシナリオを計十編まで執筆したが、企画を諦めたと無念の想いを語った。このことは映画界のみならずスペイン文化人の間で波紋を呼び、日刊紙「EL Mundo」はプロデューサーや原作者のコメントを掲載した。同月、騒動の覚めやらぬなかTVE-2チャンネルの映画番組「Version Espanola」が『マルメロの陽光』をプログラムし、ビクトル・エリセは放映後の討論会にアントニオ・ロペスとともに参加し自作について語った。

 1999年12月、カナダのシネマテーク・オンタリオの企画したアンケート投票「90年代の十本」(世界の主要フィルムアーカイヴのキュレーター・アーキヴィストが投票に参加)において『マルメロの陽光』が第一位に選出される。

 2000年1月現在、ビクトル・エリセは今年中に刊行する予定で1960年から1999年までの評論・エッセーを集めたアンソロジー『映画を書く』の準備に取り掛かっており、また創作面では『影の狩猟者たち』と題した脚本を執筆中であることが確認されている。一方、アメリカでは日本映画にも詳しい映画研究者リンダ・エーリックがまとめた大がかりな作家論「AN OPEN WINDOW:THE CINEMA OF VICTOR ERICE(Scarecrow Press,Filmmaker's Series#72)」が近々刊行予定である。

e/mブックス[vol.8]ビクトル・エリセより

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