ある双子兄弟の異常な日常 第一部
第1章 ちっぽけな楽園
SCENE 3
12分間の差。
クリスターは、オレよりも12分早くこの世に生まれた。
逆に言えば、オレは12分あいつに遅れたわけだ。
その差を意識し始めたのは、いつの頃からだったろう。たぶん、小学校に上がった辺りだと思う。
気づいたのは、親以外の大人の評価というものがオレ達の生活に入りこんできたからだ。
クリスターは早熟だとよく言われ、オレよりもずっと早く読み書きも覚えて、いつも本ばかり読んでいたけれど、それを差として考えることは、それまでなかった。けれど、学校という小さな競争社会に入ると、どうしても自分達が比べられているとことを意識しないわけにはいかなくなった。
クリスターは、成績では同じ学年の子供達の中で群をぬいていた。教師の質問にはいつもすらすらと答えたし、逆に鋭い質問をして彼等を戸惑わせることもあった。
実際、クリスターにとって、それらのクラスは物足りなかったのではないだろうか。3年になる頃には、クリスターにはデルタプログラム(天才児特別教育プログラム)を受けさせた方がいいのではないかと学校から勧められた。近隣の幾つかの学区の子供達の中から僅か20人だけが受けられる特別クラスなのだが、迷った挙げ句、クリスターは辞退した。オレと離れて、別の学区にある学校に通うのが嫌だったからだ。
一方、オレは別に成績は悪くなどなかったが、それでも、兄と比べると明らかに劣っていた。
時々、「双子なら、同じ能力を持っているはずなのにねぇ」というようなうかつな教師の言葉に傷つき、かつては意識したこともない、その差に焦り、どうにかして埋めようとあがいた。
何もかも同じはずの相棒に見出した違いに、オレはどうしても我慢ならなかった。だが、如何せん、どんなに努力しても、追いつくことのできるものではなかった。
同じ遺伝子を持ってはいても、発現するかしないかで、個性という名の違いは出てくるものらしい。唯一の慰めは、身体能力では2人の差はほとんどなく、ひょっとしたらオレの方が少し上かもしれないことだった。
オレは同じ年の誰よりも速く走ったし、高く跳ぶこともでき、反応も速かった。昔NFLの選手として短い期間ながら活躍した父親の影響で始めたフットボールでも誰よりも優れていたし、中学校のチームから誘われることもしばしばあった。
だが、オレは別に、それによってさえもクリスターを追い越したいわけではなかった。
ただ、あいつと同じでいたかっただけなのだ。
そう考える時点で、オレは、初めからあいつに負けていたのかもしれない。
「お母さん、お母さん、クリスターが風邪をひいたみたいなんだ、声が変なんだ」
明日からキャンプ旅行に出かけるという日の夕方、キッチンで夕食の準備をしていたヘレナの所に、不安げな面持ちのレイフがクリスターを引っ張ってやってきた。
「風邪をひいたの、クリスター?」
大げさに、まあ、大丈夫なの、早く病院に行かなきゃというような感情的な反応をすることは、この母に限ってなかった。彼女は洗った手をタオルで拭いた後、キッチンの隅っこで弟に伴われてじっと黙りこくっているクリスターのもとにやってきた。
「口を開けて、喉の奥を見せてちょうだい」
素直に従うクリスターの喉を調べ、喉もとのリンパ腺の辺りも触れてみながら、ヘレナは首を傾げた。
「別に喉に炎症はないし、リンパ腺も腫れていないし…」
白い手を息子の額に乗せて、彼女はクリスターの顔を覗き込んだ。
「熱もない。別に風邪という訳ではなさそうだけれど」
クリスターは一瞬ためらった後、口を開いた
「風邪じゃないと思うよ…たぶん…」
しかし、そう囁くクリスターの声の異常にヘレナも気がついたようだ。
確かに、ここ数日クリスターは声が出にくそうにしていた。
「本当に大丈夫なの? 明日からキャンプなんかに行っても平気? 悪くなったりしない?」
自分のことのように兄の体を案じているレイフに、ヘレナは顔を向けて、穏かな声で促すように言った。
「平気よ。おにいちゃんは病気じゃないと思うわ。試しに、ちょっとテストをしてみましょうね。クリスターをくすぐって、笑わせてみて」
くすぐって、笑わせろ?
レイフは目をぱちくりさせたが、こういう悪戯は大好きだった。ひるんだ顔でじりっと後じさる兄を見ると、とたんにその気になって飛びかかり、むしゃぶりついて脇腹の弱い部分をくすぐってやった。
「や、やめろよっ、レイフ…ひゃっ…はははっ…!」
たまらず笑い出したクリスターの喉から迸った声は、しかし、レイフの高く澄んだものとは異なって、不安定ながら大人の男の声のようだった。
「やっぱり変だよ、その声!」
レイフはくすぐる手を止めて、顔色を変え、そう叫んだ。
「病院に行かないと」
懇願するような目を上げるレイフの頭を撫でながら、ヘレナは微笑んだ。
「心配しないで、レイフ。クリスターは声がわりが始まったのよ。学校でも習ったことがあるでしょう? あなた達くらいの年から、男の子は皆、大人の声に変わっていくのよ」
「こえがわり…」
レイフは目を大きく見開き、呆然となって、呟いた。彼の注視を向けられて、クリスターは何やら気恥ずかしげに顔を背けた。
「大人の声…」
そう囁いた自分の声、相変わらず甲高くて弱々しい子供の声に驚いたように、レイフは口をつぐんだ。喉をそっと押さえた。
12分の差。
「でも、オレは、まだ…だよ…」
レイフは、クリスターが自分より先に変声期を迎えたことに激しく動揺していた。
「あなたも、もうすぐだと思うわ、レイフ。それ程差はないはずよ」
慰めるような母の声も、レイフの沈んでしまった気持ちを引き上げることはできなかった。
クリスターに置いて行かれてしまうと、レイフはいつも不安だったのだ。
クリスターにもレイフの不安が分かるのだろう、後ろめたそうな顔をして喉を押さえている。
突然、レイフはかっとなった。
「変な声! オレ、その声、大っ嫌いだ!」
そう叫ぶなり、ヘレナが止める間もなく、レイフはキッチンを飛び出し、家の外に駆け出していた。
なぜか裏切られたような気がして、しばらくクリスターの顔など見たくないレイフは思った。
(にいちゃんの馬鹿! また自分1人だけ先に行っちゃうなんて、ひどいよ。少しくらい待っててくれたって、いいのに)
無茶な要求だとは分かっていたが、それはレイフの正直な気持ちだった。
そのまま近くの公園に行って、ベンチに坐り、レイフはしばらの間1人でしくしく泣いていた。しかし、散歩やジョギングにやってくる人々の注視を向けられ、そのうちの何人かにどうしたの坊やと声をかけられて、さすがに恥ずかしくなった彼は家に引き返した。
(絶対、口なんかきいてやるものか)
夕食の時も、その後子供部屋で2人きりになっても、レイフは強情に口を開かなかったが、彼の我慢がもったのはそれまでで、一晩寝て目が覚めると、いつものように真っ先に上のベッドによじ登って、クリスターに向かって「おはようっ」と叫んでしまった。
そうすると、別にもういいやという気持ちになった。
クリスターを無視することなど不可能だし、そうすることで寂しくて仕方がなくなるのは、結局レイフなのだ。
またしても先を越されてしまったというこだわりはあるけれど、きっとすぐに追いつくから。
そう思って、レイフは自分を慰めることにした