第5章 Blanc de Blancs
九
「パロン、もう逃げられないぞ、おとなしくするんだ!」
そう叫んだのはアシルだ。
見ると、こっそり車から降りてきて逃げようとするパロンを、アシルや黒服達が取り囲んでいた。
「く、来るな!」
万事休すのパロンは橋の欄干に背中を押しつけ、左右を睨みつけながら威嚇した。
「アシル・クロード…あなたは、あくまで父親の敵につくつもりか! ソロモン様は、ああ見えて、あなたのことをとても愛してらっしゃる。その父親を追いつめて、あなたの良心は痛まないのか、この薄情者!」
いきなり非難の矛先を向けられたアシルは、困ったように頭をかいた。
「別に、あの人のことが憎いからこうする訳じゃないよ。それに、彼を追いつめているのは、僕よりもむしろお前の方だよ、パロン…頭に血の上った子飼いの部下が暴走したために、ソロモン・ドゥ・ロスコーは大変困った立場に立たされている。ロスコー家の人間が警察沙汰だなんて、あってはならないことなんだ」
「う…私はただ、あの方のためによかれと思って…」
ルネが2人のやり取りについ気を取られていると、ふいに、傍らのローランがパロンに向かって厳しい問いを投げつけた。
「よかれと思って、一体何をやったんだ、バロン?」
パロンは、動揺のあまり揺れ動く目を、アシルからローランの上に移した。
「ガブリエルを脅す目的で、あの爆弾騒ぎを引き起こした。おまえは、ちょっとした花火程度のものを想定していたのかもしれないが、結構な火花が飛び散って、マスコミや警察を巻き込む大騒ぎとなってしまった」
ルネの体を抱いていた腕をほどき、ローランは動揺するパロンに諄々と言い聞かせた。
「おまえがやらかしたのはそういうことだ、パロン。確かにソロモンは与り知らぬことだったのかもしれないが、部下の不始末の責任は主にもある。おまえ程度の部下しか持てないという点で、ソロモンの器もたかが知れているのさ」
ローランは皮肉たっぷりに吐き捨てて、躊躇ない足取りで、まっすぐパロンに向かって歩いて行った。
「く、来るな! 爆弾など、私は知らん…それは、おまえらの思いこみだ、どうせ証拠などないのだろう!」
「この期に及んで往生際が悪いんだな、パロン。証拠なら、お前の口から色々聞き出せば、すぐに揃うと思うがな」
ローランは目をすっと細め、酷薄な顔で笑う。
「く…う…」
何を思ったか、パロンは橋の欄干によじ登った。
「おいおい、どこに逃げようっていうんだ、パロン? まだ川で泳ぐ季節じゃないぜ?」
ローランは呆れたように目を丸くした。そして、自らもひらりと欄干を乗り越え、バロンが身を固くして取りついている微妙な部分に立った。足を滑らせたら、そのまま冷たいセーヌの水の中だ
「ロ、ローラン、何をするつもりですか?! 危ないから、早く戻ってください」
慌てて欄干に駆け寄るルネをそっと手で制し、ローランは恐れ気もなく、バロンの方へと歩ずつ近づいて行った。
「あれはいつのことだったかな…ガブリエルを追いまわす性質の悪いストーカー野郎を、今と同じようにセーヌ川の上で追いつめたことがあったなぁ」
その噂は、ルネも入社したばかりの頃にミラから聞いたことがあったので、嫌な予感と共にすぐにピンときた。
「その時は、二度とふざけた真似ができないよう、どつき回して、川の中に叩きこんでやった」
ローランは余裕たっぷり、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「あれは、まだ暖かい季節だったが…さて、寒中水泳は好きか、パロン?」
パロンの顔がさっと青ざめた。冗談だと思いたいが、この男なら本当にやりかねないと疑ったのだろう。
「やめ…ろ、う、うわっ…!」
また一歩近づくローランから逃れようとしたパロンは、うっかり足を滑らせてしまった。そのまま川に落ちると誰もが息を飲んだが、彼は何とか橋の縁に取りついていて、危うい状態でぶら下がってる。
「ひいっ…お、落ちる…助けて…」
泣きそうな声で訴えるパロンの頭上に、ローランの長身が聳え立った。
「なあ、パロン、もう一度聞くが…ガブリエルの車を狙わせた黒幕はおまえか…?」
ローランを見上げるパロンの顔が、怒りのあまり、赤黒く染まる。
「ロ、ローラン…その辺りにして、助けてあげてくださいっ」
見かねたルネが後ろから口をはさむが、ローランは注意を払いもしない。
「うう…そう…だ…確かに…わ…たしが…」
ぼそぼそと聞き取りにくい声で呟くパロンを、ローランは一喝した。
「ああっ?! 聞こえんなぁ!!」
狂犬と化したローランが、このままでは本当にパロンを川に叩き落としかねないと焦ったルネは、パロンを挟んでローランとは反対側の位置に回り、欄干を飛び越えた。
「そうだ、私がやったんだ! ガブリエルに怪我をさせるつもりはもともとなった…もう少しおとなしくしてもらいたかっただけだったんだ…うわぁっ…」
大声で叫んだ途端、手を滑らせたパロンの体が橋の上から落ちる―ルネは、声にならない声を上げて、その場に屈みこむローランに駆け寄った。
「ローラン、あなたは一体なんてことを…!」
「ル、ルネ…いい所に来たな、ちょっと手を貸せ…」
てっきりパロンが川に転落するに任せたと思ったが、ローランは、かろうじて橋にぶらさがっているパロンの手首を捕まえて、引きずり上げようとしていた。
ルネは慌てて、バロンの腕の下に手を入れ、ローランと一緒になって彼を助け上げた。
黒服達もそれを見るなり駆けよってきて、ぐったりしているパロンの体を受け取り、橋の上に戻した。
「はぁ…てっきりあなたは本気でパロンを川に叩きこむ気だと思って、ひやひやしましたよ」
「いくら俺でも、この寒空の下、あの年寄りにセーヌ川泳ぎをさせるほど非道じゃないさ」
再び橋の上に戻ったルネは、スーツについた埃を手で払っているローランに向かって、安堵の声をかけた。
「でも、これもまた、大げさな尾ひれがついて、あなたにまつわる伝説の一つになりそうですね。大天使に逆らった敵はことごどく川に叩きこむって、あまりいい評判とは思えませんが…どうなんでしょうかね…?」
「まあ、何をしでかすか分からない猛犬だと思われていた方が、あいつのお守り役としては好都合だがな」
ローランは、どこか悪戯っぽい表情でルネに片眼を瞑って見せながら、ポケットから携帯を取り出した。そのまま、誰かに電話をするため、背中を向けた。
「…俺だ。こっちは今、片がついたぞ。お前の方はどうだ?」
その親しみのこもった口ぶりから、ガブリエルが相手だとすぐに分かる。
「そうか…話し合いはうまくいったという訳か…それは重畳、ソロモンは、こちらの提示した条件を全て飲んだということだな…?」
息を潜めてローランの言葉に耳を傾けているルネの傍らに、いつの間にかアシルが立っていた。
「実は今夜ね、僕の父とガブリエルとの間で秘密の会談が持たれていたんだよ」
「えっ…そうなんですか? 」
「僕とジル会長がなだめても、なかなか首を縦に振らなかった父だけれど、例の爆弾騒ぎがあって、さすがに焦ったんだろうね。このままガブリエルと反目を続けると、バロンのようなできの悪い部下が、自分を担いだまま、暴走を繰り返しかねない…他の取り巻きの説得もあって、やっと自ら引くことを決心したんだ」
ローランはしばらくガブリエルとの話に熱中していたが、ふいにバロンの方に向き直った。
「おい、パロン、ソロモンがお前と話したいそうだぞ」
無造作に突き出された携帯をパロンは躊躇いながら受け取り、恐る恐る通話に出た。
「は、はい、ムッシュ…ええ、まことに面目ない…全く、おっしゃる通りです…こたびのことは、もちろん私1人の責任で…」
主であるソロモンにかなり厳しく叱責されたのだろう、ハンカチで額の汗をぬぐいながら謝っているパロンに、ルネは気の毒さを禁じ得なかった。
「今夜僕達が動いたのは、ガブリエルと父の会談を邪魔されないよう、反対派の注意を引き付けておくためもあった…もちろん、爆弾事件の犯人が尻尾を現してくれれば、ひっ捕まえるつもりで張り込んでいたんだけれどね。君には大変な迷惑をかけてしまったけれど、おかげで、どちらの目的も果たすことができた。恩にきるよ、ルネ君」
ルネは、バロンの傍らに立って部下に何か指示を与えているローランを見つめながら、苦笑混じりの溜息をついた。
「目的、ですか…ああ、うっかり忘れていたけれど、目的のためなら手段を選ばすが、確かにあの人の信条でしたよね」
そうだ。分かっていたつもりが、うっかり信じて、甘い幻想を抱いた自分が馬鹿だったのだ。ルネは唇を噛みしめた。
「ルネ」
意気消沈のパロンを部下に任せたローランが、暗い目をして俯いているルネのもとに大股で戻ってきた。
「おい…大丈夫か…?」
ルネが顔を上げて自分を見ようともしないことに眉を潜めつつ、ローランは気遣わしげに手を伸ばし、その肩に触れようとした。
しかし、彼の手が触れる前に、ルネはすっと身を引いた。
「ローラン、あなた…一体いつから知っていたんですか…?」
ルネはローランの足元の石畳をじっと見据えながら、抑えた声で問いかけた。
「……」
ローランは一瞬怪訝な顔になったが、すぐに思い至ったようだ。
固い殻に全身を覆ったようなルネの心を読み取ろうとするかの如く、つくづくと彼を見つめた後、言った。
「そうか…おまえはずっと、そのことに拘っていたんだったな」
ルネは体の脇に垂らした手をぎゅっと握りしめて、奥底から込み上げてくる震えをとめた。
「ルネ・トリュフォーが武道の天才だという話なら、数々の武勇伝もろとも、お前に出会ったその日に、あのオーベルジュのオーナーが教えてくれたさ」
ローランは、いっそ憎らしいほどの迷いのなさで、神経質に震えているルネに向かって、はっきりと告げた。
「そしてパリに戻ってすぐ、俺は改めて部下に命じ、おまえについてもっと詳しく、その能力から人柄、交友関係まで一通り調べさせた。初対面の俺にいきなりパリに出てこいなどと誘われたおまえは、その場の酔狂だと思ったかもしれないが…俺は本気だったんだからな」
ルネは思わず、顔を上げた。動揺のあまり、唇から洩れた声は上ずっていた。
「そ…それじゃあ、あなたは初めから、僕の正体を知っていたってことですか…?」
「あのな、ルネ…考えてもみろ。おまえは、初めて出会った日から、ガブリエルに似ているだけじゃなく、気立てもよくて賢くて、俺は気に入っていた。だからと言って、この俺が、おまえのことを何一つ知らないまま、秘書として雇おうとすると思うか?」
ローランはやれやれというように肩をすくめ、煙草を取り出そうとしたが、考え直したようにポケットに戻した。そのまま、どこか哀しげでもあり、どこか突き放したような冷めた目で、まだ状況が飲み込めないで呆然と立ち尽くしているルネの次の反応を静かに待ち受けている。
「僕は、あなたにだけは知られまいと必死になっていた。なのにあなたは、とっくに昔に知っていて、しかも、そのことを僕に隠していたんですか…?」
ルネは込み上げてくる羞恥心のあまり、この場から消えてなくなりたいと念じながら、胸の前で両手を捩じり合わせた。
「別に、隠すつもりはなかったさ」
ローランは露ほども動じず、冷静に、ただ事実を認めるように淡々と答えた。
「どうしておまえが、自分の最大の特技を俺や周囲の者達に自慢しないのか不思議だったが…単にひけらかすのが嫌いなのかとも思ったし、別に追求することでもなかったからな。まあ、そのうち尋ねてみる機会もあるだろうくらいにしか、最初は考えなかった」
ルネにとっての一大事を、ローランはまるで取るに足りないことのように言う。
「だが、まさか…昔の男がらみのトラウマに縛られて、俺に打ち明けられないでいるとは想像していなかった」
一瞬感情を制しかねたように、ローランの声がふいに低くなり、微かな苛立ちがこもった。
それに触発されたように、ルネの言葉にも棘がこもった。
「その話、ムッシュ・ロスコーから聞いたんですか…?」
「ああ。おまえがいつまでも俺に対して他人行儀で自分の殻から出てこないと、俺がぼやいたからだろうな。おまえが恋に臆病なのは、初めて惚れた男にひどく裏切られたせいだと聞かされた。ふん、俺には黙っているくせに、そんな個人的な打ち明け話ができるほどいつの間に仲良くなったのかと思ったが、ガブリエルの人たらしは今に始まったことじゃないからな」
ローランがあんまりあっさり認めたものだから、ルネは鼻白んで怒る気にもなれなかった。
「そう言えば、あなたとガブリエルは一心同体、だから2人の間に秘密は存在しないんでしたよね」
ガブリエルは、必死にすがりついてくるルネの頼みを聞いて、彼が武道の天才であることは、ローランには黙っていると約束してくれた。初めからローランが知っているものを口止めなどされたガブリエルは、内心では、さぞかし困っていたのだろう。
(ああ、だから、早くローランに打ち明けてしまえと何度もくり返しせっつかれたのか…時間が経てば経つほど話がこじれるのが、ガブリエルには分かっていたから―)
何だか頭が痛くなってきた。ルネは、ゆるゆると上げた手で額を押さえた。
(ガブリエルの忠告に素直に従い、勇気を振り絞って、さっさとローランに打ち明けていれば、こんな無様な結果にはならなかったろう。そんなつまらないことでくよくよ悩んでいたのかとローランに笑い飛ばされて、それで終わりになったはずだ。ガブリエルの言ったとおり、確かにローランは先輩と違って、僕の『才能』には何の引っかかりもなかった。全て、僕の失態…悪いのは、この僕だとは分かっている。ただ、もう、それだけでは僕の気持ちはおさまらなくなってしまった)
ガブリエルが案じたとおり、これ以上こじれようがないくらいルネの感情はこじれてしまった。
「僕を心配してくれたガブリエルを悪く言うつもりはありません。でも、それでも…僕にとっては、全く面白くないことです。あなたには嫌われたくない一心で自分を取り繕い続けてきた僕の姿は、あなたの目にはさぞかし滑稽なものに見えたんでしょうね、ローラン…?」
ローランは何も答えず、感情を欠いた仮面のような顔で、ルネが次第に怒り募らせていくのを見守っている。
「僕の強さを知っていたから、あなたは安心して、今夜パロンをおびき寄せるための囮として僕を使えた」
ルネは、今一番受け入れたくないことを、自分を罰するような自虐的な気分で、ついに口にした。
「こんな危険な役目、本物のガブリエルにはさせられないけれど、僕なら見事に果たせると踏んだから…そして僕は、あなたの期待通りの役を演じ切った…あなたの手の上で…」
ルネは食いしばった歯の間から押し出すように息をつき、我が身を両腕でかき抱いた。
「どうして…どうして、今夜の計画のことを僕に予め打ち明けてくれなかったんですか…? その機会ならいくらでもあったはずでしょう? 僕を騙すように利用するくらいなら、どうして全てを話した上で、ガブリエルの身代わりを演じろと命じてくれなかったんです…?! 僕が拒むと思ったんですか? 見損なわないでください、あなたのお役に立てるなら、僕はきっとどんなことでも…」
身の内からこみ上げてくる熱に任せて訴えるルネを、ローランはいきなり強い口調で遮った。
「いや、おまえの方こそ、自分を見誤っているぞ、ルネ。たとえ俺のためでも、おまえには誰かを騙して罠にかけるような汚れ仕事などできはしない。もしも今夜、おまえが俺達の計画に初めから加わって、ガブリエルを演じようとしても、意識するあまり不自然になって、パロンを引っ張り出す前に偽物だとばれてしまっただろうさ」
一瞬虚を突かれたルネだったが、まるで自分を見透かしているかのようなローランの態度に、むきになって言い返した。
「そんなこと、やってみないと分からないじゃないですか。勝手に決めつけないでくださいっ」
しかしローランは、まともに取り合う価値もないというように、ルネの訴えを皮肉っぽくせせら笑った。
「納得できないなら、別の言い方をしよう。俺は、目的のためなら手段を選ばない非道な男だが、今時珍しいくらいに純粋で初心なおまえに、俺の方棒を担がせるのは、どうにも気が進まなかった。何も知らせないまま迷惑をかけるのはまずいとアシルにも反対されたが、この際駒として利用し利用された方が、お前も俺も後々気が楽だろうと思ったのさ」
ルネの目尻に涙が浮かんだ。腹立たしくて、悔しくて、悲しくてならなかった。
「何も知らない僕を巻き込んでおいて…そんな無茶苦茶な言い分、僕が納得する訳がないでしょう! あなた、自分が僕に対してどんなにひどいことをしたか、分かってるんですか! 悪そうに見えても、芯は優しくて温かい人だって、僕はあなたを信じてたんですよ…!」
ローランはすっと視線を落とし、ルネの足元の地面を見るともなく見ながら、しばし沈黙した。
「ああ、分かっているつもりだ、ルネ。俺の傍にいておまえは嫌というほど傷ついたし、これからだってろくな目に合わないだろう。俺は、たとえ惚れた相手のためであれ、自分のやり方を変えるつもりはない身勝手な男だ。そんな俺に振り回されることに、おまえはきっと耐えられなくなる。だから、俺は―」
ローランは言いかけた言葉を途中で飲み込んだ。
「ローラン?」
ローランは口の中で小さく悪態をつきながら、額に落ちかるる髪を乱暴に手でかき上げた。そして、いきなりルネを憎々しげな目で睨みつけてきた。
「ルネ、おまえは馬鹿だ。救いようのない大馬鹿野郎だ」
「な、なんですって?」
さっと青ざめるルネに対して、ローランはまるで開き直ったかのような傲慢な態度で、腰に手をつき、挑発的に言い放った。
「俺のことなど何も知らないくせに、芯は優しいとか何とか勝手に信じるなんて、全くどうかしているぞ。そんな隙を見せるから、俺みたいな悪い男に付け込まれて、利用されるんだ。言わば、自業自得だな。だが、まあ、ここで真実が分かってよかったじゃないか。おまえだって、この数カ月、オーベルニュの田舎に引きこもっていては得られなかった楽しい夢を見られたんだ。惚れた男の正体を知って幻滅したなら、次は同じ失敗をしなければいいだけさ…おまえとっては高い授業料だったかもしれないが、そうと割り切って、早く忘れろ」
「よくも…そこまで酷いことを平気な顔して言えますね、この人でなし…!」
ルネは顔を真っ赤にしながら、震える両手を握り締め、胸の前で構えた。それを見たローランの目が、すっと細まる。
ルネの発した甲高い声を聞き咎めたのだろう、パロンをなだめながら車に乗せようとしていたアシルが、言い争っている2人を訝しげにを見やった。
「ローラン、ルネ、どうかしたのかい?」
ローランはアシルの方にちらりと目をやり、邪魔をするなと言いたげに手を振った。そして再び、ルネに注意を戻した。
「ふん、その人でなしに想いを寄せて裏切られた馬鹿が、今更一体何をしようっていうんだ?」
ローランのあからさまな嘲りに、ルネは歯を剥いて唸った。殺気を放って燃え上がる碧い瞳で、激しくローランを睨みつける。
「あなたなんて、あなたなんて、僕はもう―」
噴き上がる怒りに突き動かされ、じりじりとローランとの間合いを狭めていくルネだったが、ふいに我に返った。
(一体この人をどうしようというのだろう、僕は…?)
今にもローランに打ちかかろうとするかのごとく、拳を固め、必殺の構えを取っている我が手に気がつき、ルネは戦いた。
「駄目…できない…!」
ルネは嫌々をいうように首を振りながら手を下し、さっと身を引いた。それを見たローランがもどかしげに舌打ちをしたのにも、気がつかなかった。
(僕はまだローランを愛している…好きな人をこの手で傷つけることなんかできない)
混乱し、途方に暮れて、ルネはその場に立ちつくした。
(どうして、できないのか―?)
どうしてこんなにも、ローランを攻撃するという考えに激しい抵抗を覚えるのかと、ルネの中のもう1人のルネが問いかけてくる。
(そう言えば、前にもこんなことがあったな。大好きだった先輩に振られた時…僕は黙って、あの人が去っていくのを許した。先輩が優位に立てるような、ほどほどの腕しか持たない可愛い後輩だったらよかったのだろうけど、僕がたまたま天才だったのが悪いんだ…そう思うと、僕は、彼にどんな酷いことを言われても、力でやりかえすことはできなかった)
納得できないものを無理やり自分に納得させて飲み下すしかなかった、あの時の記憶が、今の苦しさと重なる。
(もしもあの時…僕が、自分の感情に蓋をせずに先輩にぶつけていたら…あの人が嫌った僕の強さを最後に思い知らせてやれば、今頃僕はこんな消極的な人間にはなっていなかった気がする)
胸の奥底から溢れ出しつつあった激情は次第に勢いをなくし、お馴染みの弱気がじわじわとはい上るようにして全身を覆っていく―何かが変わるような気がしたけれど、結局何も変わらない。
諦めたような気分でルネがそう思った瞬間、
「ルネ!」
ローランの厳しい呼びかけに、ルネは弾かれたようになって、そちらを振り返った。
燃え立つ翠眼でルネをひたと見据えながら、ローランは、何の迷いも恐れもない足取りで近づいてくる。その手が、自分を捕まえようとするかのごとく伸ばされるのに、ルネはパニックに陥りそうになった。
「来ないでください…僕に触らないで…!」
ローランに触れられたら最後、自分が内側から弾け飛んでしまいそうな気がして、ルネはとっさに彼に背を向けた。
「また逃げるのか、この臆病者め!」
怒気をはらんだローランの声が、今にも駆けだそうとしたルネの足をその場に縫いとめた。
「上げかけた拳をどうしてそこで下ろすんだ? おまえを裏切って傷つけた卑怯者相手に、今度も何もできず、そのまま逃げて泣き寝入りか?! おまえは、それで本当にいいのか?」
「ど…どうして、あなたにそんなことを言われなきゃいけないんです…?」
ルネは、ローランの言葉を聞くまいとするかのように両手で耳を塞いだ。しかし、彼のよく通る声はどうしても耳に入ってきて、過敏になっているルネの心を突き刺し続けた。
「俺との短い、恋とも言えんような恋の始末をどうつければ一番すっきりするのか、おまえにだって本当はよく分かっているはずだ」
ローランは一瞬言葉を切り、言いづらいことをあえて言おうとするかのように、深く息を吸った。
「俺のもとから去る前に…最後に一度くらい、おまえがこれまで腹の底で押さえ続けた感情をぶちまけて行け。そうすりゃ俺は、おまえの人生からきれいさっぱり消えてやれる…厄介な亡霊となって、おまえの新しい恋の邪魔をすることもないだろう」
「ローラン、黙って…お願いだから、これ以上僕を追い詰めないで…さもないと、僕は本当に…」
早くこの場から逃げようと思うのに、どうしてもルネの体は動いてくれない。ローランの躊躇いのない足音が、その気配が近づいてくるにつれ、全神経が今にも切れそうな程張りつめていく。
「俺はな、ルネ、お前の昔の男みたいにいつまでもぐすぐずと引きずられて、事あるごとにお前のつまらん自己憐憫の道具として使われるは、真っ平ごめんだからな!」
ローランの手が硬直しているルネの肩に無造作に触れ、揺さぶった。その魂を大きく揺さぶった。
「う…あ…っ…」
瞬間、ルネの中で何かが弾け飛んだ。
「黙れ…黙れ、黙れ…黙れぇ!!」
ルネは、まるで自分のものではないかのような凄まじい怒号が唇から迸るのを聞いた。
「僕を舐めるな!」
肩に置かれたローランの手を掴んで引き寄せるや、ルネは見事な背負い投げをしかけて彼の大きな体を投げ飛ばし、次の瞬間に石畳の上に叩きつけていた。
「ああっ」と後ろの方で上がった悲鳴にも似た嘆息はアシルのものだ。
「先…輩…?」
しばし、ここがどこで、自分が今何をしたのか分からなくなっていたルネは、ぼんやりと呟いた。
つい先ほど、白熱した頭の片隅に初恋の先輩のイメージが掠めていったような気がしたからだが、もちろん彼がここにいるはずはない。それに、今となっては彼の顔自体あまりよく覚えていないことに、ルネはこの時初めて気がついた。
「ロ、ローラン…」
やっと、自分の足元で仰向けにぐったりと横たわっている男の正体に気付いたルネは、愕然となった。
「ルネ、君は一体なんてことをしたんだっ」
血相を変えて駆けよってきたアシルは、ルネの顔を覗きこんで声をかけた後、気を失って倒れているローランの傍に跪いた。
「ローラン、しっかりしろ、ローラン…ああ、痴情絡みで身内から人死にが出るなんて…しゃれにならない。常々いつか君には相応の報いが来ると思ってはいたけれどね…おい、誰か手伝ってくれ、彼を病院に運ぶぞ」
命令に従って駆けよってきた2人の屈強な男達が、石となったように立ちつくすルネの脇をやや警戒気味に通り過ぎていく。
「ああ…やっちゃった」
ルネは大きく見開いた目で、死んだように身動きしないローランが、SP達によって抱え起こされるのを見ていた。
その左手がのろのろと上がり、悲鳴を封じ込めようとするかの如く口を塞ぐ。
一台の車がローランを病院へ搬送するために近づいてくるのを避けて、ルネはおもむろに身を引き、そのまま居たたまれなくなったかのように背中を向けて駆けだした。
ローランを懸命に介抱し車に乗せようとしているアシル達は、そんなルネの姿に気がつくことも、とめることもできなかった。
もう二度とローランには会えないし、会わないだろう―そんな思いに駆り立てられるがまま、ルネは1人、パリの街灯りの中に姿を消した。