第5章 Blanc de Blancs
十
明くる朝早く、ルネはベルシー駅の傍のカフェで、1人、ぼんやりとコーヒーを飲みながら時間を潰していた。
彼の指先は、テーブルの上で、先程購入したクレルモン・フェラン行きの始発列車のチケットを無意識に擦っている。
時折落ちつかなげに組み直される、その足元には、旅行用のバッグが一つ。昨夜遅く、アバルトメントに帰るなり、取りあえず必要になりそうな身の回り品を詰め込んだものだ。
何しろ急な決定だったので、アバルトメントの契約解除の話を大屋にするためや引越しの手配のためにもう一度くらいパリに戻らなくてはならないが、昨夜のルネはこれ以上一日たりともパリにはいられないと思いつめていた。
(別に、僕が自分でわざわざ来なくても…諸々の手続きはいっそ兄さんに頼めばいい)
ルネは、朝とはいってもまだ暗い窓の外に目をやり、溜息をついた。
(自分の部屋に留まっているのが怖くて、始発のメトロに乗ってここまで来ちゃったけれど…まだ1時間近くも待たないといけないなんて憂鬱だな)
昨夜は、ルレ・ロスコーの関係者から連絡が入ることを恐れて部屋の電話の受話器はあげたままにし、携帯の電源も切ってしまっていた。
(ローランは、あれからどうなったんだろう…アシルさん達が病院に連れて行ってくれたから、たぶん大丈夫だとは思うけれど…)
微かに早まった心臓の鼓動を鎮めるべく、ルネは肩で大きくした。ポケットに手を突っ込み、そこにあった携帯を恐る恐る引っ張り出した。
(ローランがどうなろうと僕の知ったことじゃない。もう僕には関係のない人なんだから…)
そう自分に言い聞かせるも、昨夜の取り乱した精神状態を脱した今、後に残してきた諸々の出来事の結果が気になって仕方がない。ルネはついに携帯の電源を入れた。
着信記録には、アシルの名前が何件も残っていた。それから、オフィスで割と親しかった人達の名前…しかし、ルネが予想した、ある名前だけはそこになかった。
(当然ガブリエルにも、僕がローランを病院送りにしたという知らせは行ってそうだけれど…だからと言って、あの人が僕に自ら連絡を入れようとするなんて見当違いだったかな。せっかく応援してやったのに何もかも台無しにして逃亡した秘書なんか放っておいて、今頃病院でローランに付添っているかもしれない)
一瞬胸に湧き上がりかけたもやもやとした嫉妬心を、ルネはふっと笑い飛ばした。
(ローランの傍には二度と戻らないと決めたのは、僕じゃないか。今更気にかけるなんて、未練がましいぞ。そうだ、もうあんな酷い男のことなんてきれいさっぱり忘れよう。パリでの暮らしも洗練された都会の男も僕にはあわなかったんだ。田舎に戻って一からやり直そう。そのうち、僕にふさわしい新しい恋だってきっと見つかるよ)
そう必死になって自分に言い聞かせるルネの脳裏に、昨夜のローランの声がまざまざと蘇った。
(そうすりゃ俺は、おまえの人生からきれいさっぱり消えてやれる…厄介な亡霊となって、おまえの新しい恋の邪魔をすることもないだろう)
ローランとのやり取りにすっかり心乱され、混乱のあまり逃げ出そうとするルネをあの場に釘づけにしたのは、彼が投げつけてきた言葉の数々があまりに核心を突いていたからだ。
今思い出しても腹の立つ、人を散々侮辱し、傷つける酷い言葉だったが、ルネには何かしら引っかかるものがあった。
(どうしてローランはあんなことを言ったんだろう。僕の腕がどれほどのものか分かっているくせに、余計に激昂させたりして…そう、あの時の彼はまるでわざと僕を挑発して怒らせようとしているみたいだった。それともどうせ自分には手出しはできないと舐めてかかっていたんだろうか。確かに、いつもの僕ならできそうもない…あの時だって、ローランの裏切りを知って傷つき、許せないとも思ったけれど、彼が火に油を注ぐような真似をしなければ、とてもじゃないけれど、僕には好きな人を投げ飛ばすなんて無理だった。そう、先輩の時と同じ…最後までローランによく思われたくて、自分を押さえて我慢して、あの場を泣きながら逃げ出すくらいしかできなかった)
忘れようと言い聞かせた矢先にまたローランのことばかり考えている自分に気付き、ルネは柳眉を潜めた。
店の壁にかかった時計の時間を確認し、どうにもおさまりが悪いかのように椅子に座り直す。
(ローランの言動に今更理由を見つけ出したって、どうなるものでもない。僕がローランを投げ飛ばした瞬間に、彼との短い恋は終わったんだ。ローランだって、そう言ってたし…ああ、まただ…!)
意識を他に向けようとしても、ルネの頭はどうしても昨夜のローランとのやり取りに戻っていく。あれには、どういう意味があったのかと考えてしまう。
(俺との短い、恋とも言えんような恋の始末をどうつければ一番すっきりするのか、おまえにだって本当はよく分かっているはずだ)
ルネは首を傾げてちょっと考え込むと、確認するかのように自分の胸に手を置いてみた。
(すっきり、かぁ…うーん、どうかな)
すると意外にも、失恋した直後だというのにじくじくと後を引きそうなダメージは受けていないことに、ルネは気付いた。恋のことなどしばらく考えたくもないくらいに落ち込んでもおかしくないはずが、むしろ何か吹っ切れたような清々しささえある。
(驚いたな、あの一撃で僕は本当にすっきりしたみたいだ…先輩に振られた時ほどの後味の悪さはない。ローランに煽られたからではあるけれど、逃げ出さずに自分の手でけりをつけられたからかな…今はまだ胸は痛いけれど、時間が経てば、何とか克服できそうな気はするよ)
そう言えば、いつだってローランは無関心そうでいて、その実ルネの心の裏側までよく見通していた。
(ローランは、初恋の苦い思い出が僕のトラウマになっていることを知っていたから…自分のせいで、僕がまた自信をなくして自分の殻に引きこもってしまうことは避けさせたかったんだろうか…?)
はたと思い至った可能性に、ルネは思わず息を飲んだ。慌てて否定するよう、頭を振った。
(まさか、ね…僕をわざと怒らせて、あの人に特になることは何もない。でも、それならどうして、病院送りにされる危険をわざわざ冒して、僕をあんなに激怒させたんだろう…?)
あの時のルネは、荒れ狂う自分の感情に押し流されて、ローランの心を推し量る余裕などなかったが、今ならそれができる。本音をそのまま語ることはないローランの傍にいて、その意をくみ取ろうとしてきたせいだろうが、ルネには何となく、人を人とも思わぬ傲慢な態度を取る時のローラン独特の理屈が分かるようになっていた。
(ガブリエルのためにルレ・ロスコーに乗り込んできたローランは、何かあれば自分が憎まれ役を引き受けるのだと当たり前のように言っていた。その通り、批判の矛先はガブリエルではなく自分に向かうよう、新経営陣に否定的な者達に対してはわざと偽悪的に振舞まうのがあの人の常だった。人に誤解をされて、余計な敵まで作って、それでいいのかと思ったものだけれど、愛するガブリエルのためなら、それくらい、ローランにはどうってことなかったんだ)
自己中心的で冷酷そうに捉えられがちなローランだが、そんな信じられないくらいに愛情深くて優しい一面も持っている。
(でも、それはきっとガブリエルが相手の時だけの話だ。僕のためにローランがそこまでするとは思えない。やっぱり僕の勘違いだよ。僕はまだローランに夢を見たがっているだけなのかもしれない。大体、ローランみたいなひねくれた考えをする人の心なんか、所詮僕みたいな単純な人間には読み切れない)
ルネの脳裏に、またしてもガブリエルの美しい面影が浮かび上がった。少しくらい姿かたちが似ていてもルネには及びもつかない、何かしら超越したような美貌。人の心を見透かしているかのような不思議な微笑み―。
(ガブリエルなら、ローランの謎な行動の裏に隠された本心を読み解くことができるだろうか。子供の頃から一緒に育って、自身の影だと評されるほどに近しいローランだもの…そう、あの人ならきっと僕の疑問に答えてくれる)
幸い、ガブリエルの連絡先ならば、何かあれば助けになるとの心強い言葉と共に、休暇中に彼のシャトーに滞在した際に教えてもらっている。
(でも、こんな大事を引き起こしてしまった後で、自分ではどうにもならないからガブリエルに泣きつくなんて虫がよすぎる。あの人の大切な片腕を僕は傷つけてしまった…それなのに何の考えもなくただ頼っていくことはできない。少なくとも、これから僕はどうするつもりか、どうしたいのか、ちゃんと話せるようにしておこう。よくよく考えて僕の出した結論がもし間違っているなら、正して欲しい…そんな形でなら、ガブリエルに助けを求めても許してもらえるかもしれない)
ルネはふうっと溜息をついた。それから、カフェの店員にコーヒーのお代わりを頼んだ。
(僕の勘違いなら、それまでだ…予定通り、僕はパリを離れて二度と戻ってはこない。けれど、その前にどうしても、ローランが僕にあんな態度を取った理由を確かめたい)
温かいコーヒーを飲み終えると、ルネは改めてポケットから携帯電話を取り出し、どうか通じますようにと祈るような気持ちで、登録してあるものの一度もかけたことのない番号にかけてみた。
(ルネ…?)
まるで待ち構えていたかのように、僅か数回のコール音ですぐに相手が出たことに、ルネはつい動揺してしまった。
「あ…す、すみません、ムッシュ・ロスコー、こんな朝早くに電話をかけて…あの…今話したりしたら、め、迷惑ですか…?」
とんちんかんなルネの言葉を気にとめた素振りもなく、ガブリエルはいつもと少しも変わらぬしっとりと耳に心地いい声音で語りかけてきた。
(いいえ、むしろあなたが私の存在を思い出し電話をかけてきてくれて、とても嬉しく思っていますよ、ルネ)
「今になってあなたからそんな優しい言葉をもらうなんて…僕は夢にも思っていませんでした」
ルネははからずも感激してしまった。目を潤ませ、思わず携帯電話を両手で持ち直し、頬をすりよせた。
(昨夜あなたが色々と大変な目に合ったということは、アシル・クロードからの報告で私も承知しています。全く、私の替え玉だなんて、酷い経験をさせてしまいましたね…怪我がなくてよかったなんて軽い言葉ですませるつもりはありません。これについては、私から改めて誠心誠意謝罪をさせてもらうつもりです)
「そ、そんな、ムッシュ・ロスコーに謝ってもらうなんて…僕はそんなつもりで電話をかけた訳じゃありません!」
焦ったルネが声を張り上げると、ガブリエルは小さな含み笑いを漏らした。
(まあ、それについては、また日を改めて話しましょうか、ルネ…今は時間が惜しい。ええ、無論、あなたがこの時点で私を頼る気持ちになった、その理由ならば察することが出来ますよ。できれば、もう少し早くに気付いて欲しかったものですがね。さて、一夜明ければ、さすがにあなたも頭が冷えて理性的に考えられるようになってきましたか?)
「はい…確かに、夕べの僕は混乱して自分を見失っていました。何しろ、ローランとの言い争いの末に、かっとなってあの人を柔道技で投げ飛ばしてしまったんです。今までひた隠しにしてきた自分の技をローランにかけてしまうなんて、今でも信じられない気持ちです」
そう言えば、ガブリエルは初めからローランとルネの間に生じた行き違い知っていて憂えていたはずだが、それについて今は言及しようとはしなかった。
(あなたがそんな大胆な行動に出るまでに、一体ローランとの間に何があったのか、どんな言い争いをしたのか、私に詳しく話してくれますか、ルネ?)
ガブリエルのことだから、昨夜の経緯ならば、怪我をしたローランの口からある程度耳にしていたのかもしれない。しかし、どんな優秀なカウンセラーも舌を巻くような、慈愛に満ちた温かい声に促され、他人には聞かせづらいような生々しい経験を、ルネは躊躇うこともなく、包み隠さず打ち明けていた。
そうしながら、ルネは夕べの出来事を鮮明に思い出していき、一体あの時何が自分の周囲で起こっていたのか、ローランや他の人間達はどう動いていたのか、その時自分はどうしたのか、改めて確認することができた。
(ああ、そうか…昨夜の僕は、オペラ座での夢のような一時から、真実を知った悪夢の瞬間まで、ローランの思惑通りただ動かされただけだった。最後の最後で僕が一矢報いるようにローランに喰らわした一撃も、そのまま逃げるように立ち去ったのも、きっと彼の読み通りの展開だったんだろう。僕の意志で決めたことなんか、どこにもなかった)
今更のように自分の姿の滑稽さに腹立ちを覚えながらルネが黙りこんでいる間、ガブリエルも電話の向こうで同じように黙り込み、思案に浸っているようだった。
(もしも、昨夜の一連の出来事のどこかでローランの思惑に気づいていたら…僕はどうしただろう…? ローランが言い張ったように動揺のあまり替え玉としては役に立たなくなるか、彼のやり方に激怒してさっさと帰ってしまうかして計画そのものを駄目していただろうか、それとも…?)
ローランは、初めからルネに選択権を与えようとしなかった。2人にとっての一大事を自分一人で勝手に決めて、ルネに一方的に押し付けた。そのことが、ルネの胸に大きなわだかまりとなって残っている。
(どうせ僕には、あなたの言う『汚れ仕事』なんかできやしないなんて、一体何を根拠に決めつけて…見くびらないでほしい。何が『プラン・ド・プラン』だ…勘違いするにもほどがある)
ルネも胸中にふつふつと湧きあがってきた穏やかでない感情を察したかのように、ガブリエルの声が再び語りかけてきた。
(ルネ)
「は、はい」
(事情は全て把握しました。ローランのやり方や言葉が許せず拳を振るってしまった、あなたの気持ちも分かるつもりです。ですが…)
ガブリエルは、持ってまわった言い方はせず、ストレートに切り込むような問いを発した。
(そんな決定的な形で、ローランと袂を分かったあなたが、今更この私に一体何をして欲しいというんですか?)
ルネは、思わず取り落としそうになった携帯を握る手に力を込め、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「あの…ローランの怪我の具合をまず教えてもらえますか…?」
恐る恐る切りだすと、ガブリエルは意外なくらい平静にローランの今の状態を教えてくれた。
(別に命に別状もなければ、後遺症が残るような怪我でもありませんから、安心なさい。せいぜい鎖骨を折ったのと右腕の骨にひびが入った程度ですよ。医者は全治三カ月と言っていましたが、手術はしなくてすみそうです。あなたに投げ飛ばされた際に頭を打っていたようなので、2、3日経過を見るために入院して、異常がなければすぐに出てこられますよ)
「そうですか…大事になっていなくてよかったです…」
ルネは胸に手をつき、ほっと安堵の吐息を漏らした。
(おやおや、それだけですか、ルネ…? まさか、そんなことを聞いて安心したいがためだけに、私に電話をかけてきた訳ではないですよね? ローランが負傷したという知らせを最初に受け取った時は、さすがの私も心臓に悪い思いをしたんですよ。私の右腕、なくてはならない大切な人間をあわや再起不能にしておいて、『よかった』だけじゃすまされませんよね?)
柔らかく鼓膜をくすぐっていた声が一変、鋭い鞭となって打ちかかってきたのに、ルネは心底震えあがった。
「!…あわわ…も、もちろんです。一般人相手に拳を振るったこと自体、武道家としてはまずかったと思いますし…ギリギリの所で手加減はしたつもりなんですが、何しろ頭に血が上っていて確信が持てなかったので、つい…」
ガブリエルのくすくす笑いが聞こえてきた。
(からかっただけですよ、ルネ…あなたが本当に本気を出せば、いくらローランが丈夫でも、手足や肋骨の数本はへし折られていても不思議ではなかったでしょうからね。ローランも、そのくらいやられても仕方がないと覚悟していたはずです)
ルネははっと吸い込んだ息を、そのまま止めた。やっぱり―。
(どうしました?)
「…僕からの殴打をローランは甘んじて受けるつもりだったと…あなたは本人からそう聞いたんですか?」
ルネが用心深く確かめるように尋ねると、ガブリエルは物分かりの悪い子供に言い聞かせるような口調で言った。
(言葉として聞き出した訳ではないですが、生まれた時からの付き合いですからね…ローランの考えそうなことなら分かりますよ。どうして、突然あなたを切り捨てるような形で強引な別れ話に持っていったのか。あなたを挑発して激怒させたのか…ですが、これらは、あなたにとってそれほど難しい謎とは思えませんよ、ルネ。ローランの心情を察することなら、あなたは私に負けず劣らず得意のはずじゃないですか…? 少なくとも秘書としてのあなたなら完璧にできるでしょうに、自分のこととなると私情が邪魔して心の目が曇ってしまうのでしょうかね?)
ルネは自信なさげに肩を落として、ぽつりと漏らした。
「僕は、あなたのようにローランにとっての自分の立ち位置について確信を持っている訳ではありませんから…彼の口から真実を引き出さないことには納得できないんです」
(…似た者同士だから分かり合えるかというとそうでもないんですね。つまりあなたは、別れ際のローランの言動がどうしても腑に落ちなくて、それを確かめないことには進むことも引くこともできない…そう言うことですね?)
ルネはガブリエルの反応を窺いながら、慎重に言葉を継いでいった。
「あの…それについて、僕は1つ疑っていることがあるんです。実は、ローランは僕という人間を誤解している節があって…そのせいで彼は、僕に対してあんな理不尽な態度を取る気になったんじゃないかと思うんです」
(ローランがあなたを誤解しているというのは、どういう意味です?)
「何というか…僕のことを雪のように真っ白な、穢れのない純真無垢な魂の持主だと思っているような気がするんです。確かに僕は馬鹿正直かもしれませんが、別に天使でも聖人でもない、ごく普通の人なんですよ。そりゃ、裏切られた騙されたと思えば腹も立ちますけれど、嘘も方便って言葉くらい僕の辞書にもちゃんと載ってます。なのに、はなから僕には無理だ、耐えられないなんて勝手に決めかかって、今回の計画には絡ませず、騙すように利用だけするなんて一体どういう理屈ですか、おかしいです!」
ルネは思わず頬を膨らませ、不満たらたらな口調で携帯に向かって思っていることをぶちまけていた。
(ふうん…それは確かにおかしいですし、少なくとも独善的ではありますねぇ。成程、ローランがあなたを誤解しているのなら、それを修正した上で改めて腹を割って彼と話し合いたいと…あなたの望みはそういうことですか?)
「ええ…まあ、ざっくり言うとそういうことです。ついさっきまでは、もう二度とローランには会わないでこのまま田舎に帰るつもりだったんですが…どうせ、もうなくすものは何もないんです。最後に、僕の気のすむよう確かめたい。そのために、ムッシュ・ロスコー、僕はこれからあなたに対して厚かましいお願いをしますが、もしもあなたが僕を少しでも気にかけてくれるなら、どうか叶えてください」
(随分大仰な前置きですねぇ。あなたのたっての願いを私がむげにすることはありえませんが―それで、ルネ、私は一体どうしてあげればいいのでしょうね?)
ルネはありったけの勇気をかき集め、耳打ちするように手で覆った携帯に向かって囁いた。
「ローランの本心を聞き出すために、あなたに協力してもらいたいんです。つまり、僕とあなたで彼に対してちょっとした罠をしかけるんです…聞こえは悪いですが、僕が正攻法で問いただしても、素直に口を割る人とは思えませんから」
ガブリエルは堪え切れずに吹きだした。
(罠ですか…ルネ、あなたがあのローランを罠にかける? それはなかなか楽しそうな話ですね)
「いえ、別に楽しんでいるわけではないんですが…」
(いいでしょう、その計画、詳しく聞かせてもらいますよ。すぐに駅に迎えをやりますから、そこで待ってなさい、ルネ)
「え、僕がベルシー駅にいるって、どうして分かったんですか?」
戸惑い尋ねるルネに対して、ガブリエルの答えは明解だった。
「そんなことくらい、お見通しですよ、ルネ、私を一体誰だと思っているんですか? あなたが荷物をまとめてアパルトメントを飛び出し目指す場所と言えばそこくらいだろうと、駅の近くにシュアンを予め送っておいたんです。そして、あなたが切符を購入後近くのカフェに入った所までは、彼から確認の報告を受けていました」
ルネは背筋にひんやりしたものが流れるのを覚えながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。
どうしよう、この人、恐い。自分の行動をすっかり読まれてショックのあまり声も出せないでいる、ルネを懐柔するかのように、ガブリエルは言った。
(心配しないで、ルネ、私はあなたの味方です。なぜなら、あなたはローランにとって必要な人だと思うからです)
厳かな声が告げるのと同時にカフェのドアが開き、奥のカウンターにいた店員が頭を傾けた。その目が、おやというようにまん丸く見開かれる。
(それでは、ルネ、後ほど会いましょう)
ルネはゆっくりと深呼吸をしながら、通話の切れた携帯を下ろした。
そうしながら、軽い足音がドアからこちらに向かってくるのに耳を傾けていた。
「ボン・ジュール、ルネ・トリュフォー。僕の主人があなたをお待ちです。どうか一緒にいらしてください」
訛りのあるフランス語が語りかけるのに振りかえると、案の定、以前一度会った、絵のように綺麗な中国人の男の子が立っていた。さらさらの長い黒髪と切れ長の涼しげな目が相変わらず印象的だ。
「ボン・ジュール…ええと、シュアン君だったね。今、ムッシュと話していた所だよ…こんな朝早くから迎えに来てもらってごめんね」
すまなげに頭をかくルネに、シュアンは白い花のような顔で微笑んだ。
「どうぞ遠慮なさらずに、ルネさん。ムッシュ・ロスコーは今、ムッシュ・ヴェルヌの入院された病院にいらっしゃいますから、まっすぐそこにご案内しますね」
深く頷き返したルネは、心を鎮めるために深呼吸をし、テーブルから立ち上がった。
「うん…行こう」
こうして、ルネはベルシー駅を後にした。
行く先には、ローラン相手の最後の駆け引きが待っているはずだった。