戀(いとしい、いとしいという、こころ)


 あなたを、

 いとしい、いとしいというこころに、

 わたしは、しばられている。




 弟が生まれた日、私は、まだ八才で母親を突然失うことになった。

『お母さんは、おまえに弟を授ける為にがんばって、そうして、力尽きてしまったんだよ』と父が言ったのを、漠然と覚えている。

『この子をお母さんの形見と思って大事にしてあげなさい』

 私は、目の前に突き出された、白いおくるみに包まれた、ピンク色のふにゃふにゃした生き物を、その時、どうしても抱いてやることができなかった。それは、私にとって、母親を奪った憎い仇のようなものだったからだ。

 母親の名前の一文字をもらって綾人と名づけられた弟。

(綾人なんか、嫌いだ。あいつのせいで母さんは死んだのに、どうして、僕があいつのことを好きになって、可愛がってやらなければならないの?)

 子供の心に、母の死という事実はどうしても受け入れがたいもので、やり場のない哀しみと怒りを、私は罪のない弟に向けようとしたのだが、実際、その憎しみは長続きしなかった。

 私と綾人は共に母親を失った孤児であり、弟は、同じ哀しみを共有できる唯一の相手だったのだ。

 初めは弟を頑なに無視していた私も、いつしか彼のベビーベッドをちょくちょく覗き込むようになった。

 綾人は、恐れ気もなく、無心に私を見上げる。その瞳は、ほとんど虹彩が分からないくらい真っ黒で、いつも潤んだような光をたたえていた。母さんの目だ。

 綾人は言葉も何も分からない赤ん坊だったけれど、私は、次第に彼に話しかけるようになり、まるで自分のことを分かってもらいたいかのように熱心に話しかけ、そうして、失った母を恋しがる心を彼という存在につないだ。

 綾人も私によくなついた。

 父は、仕事で下手をすれば一年の半分くらいを東京や他の土地で暮らさなければならない忙しい人で、私と共に近くに住む父の妹の家に預けられた綾人にとって、私は唯一身近にいる家族、父や母の役割を兼ねたような存在だった。実際、私は、親がわりに世話をしてくれた叔母夫婦にも、綾人のことを任せるのが嫌だった。己もまた大人の庇護を必要とする子供だったくせに、それでも、弟を守るのは、自分の役目だと思っていた。

 当然ではないか、綾人は、母さんが私に残してくれた形見なのだから。

(綾人のことが好きだ。綾人は母さんにとてもよく似ているから。だから、好きになった)

 この想いの糸を辿り、手繰り寄せていくと、行きつくのは、あの幼かった日、まるでこの世に残されたのは二人だけなのだというかのように、ぴったりと、寄り添いあって生きていた私達がいる。




「正樹さん、正樹さん、ああ、こんな所にいたのね、綾人さんが帰ってきたわよ」

 妻が書斎のドアを開いて呼びかけるのに、今初めてそのことに気がついたという素振りで、私は、読んでいた本のページから顔を上げた。本当は、家の前にタクシーが止まる音を聞きつけた時からとっくにそのことは予期していたのだが。

 この7月も末の日曜、弟が帰ることになっていた、その日の朝からずっと、私は、普段の休日と同じように書斎で本を読んだり、思い出したように仕事関係の書類を広げてみたりしながらも、どこか落ち着かない気分で待ちつづけていた。しかし、そんな密かな昂ぶりを、どことなく探るような視線を向けている妻の前で、面に出す訳にはいかなかった。

「ただいま、兄さん」と、懐かしい声がした。成人した男のものにしてはか細いけれど、よく通る、優しい甘い響きの綾人の声。やはり、電話で聞くのとは、近しさが違う。

 私は、立ちあがって何かを言いかけたが、妻の後ろから姿を現した、1年半ぶりに見る弟の姿に、とっさに言葉が出てこなくなった。相変わらず色が白くて、細い。ほとんど痩せぎすなくらいだ。もしかして、以前よりも少し痩せたかもしれない。自炊などしたこともないくせに、東京で慣れない一人暮しなんて、ちゃんとできているのだろうか。そんなどうでもいいようなことが、真っ白になった頭の片隅をかすめた。

 私がじっと押し黙っているので、綾人は、幾分ぎこちない微笑みを、その口許にうかべた。

「久しぶりだね」

 東京の大学に行って以来、ほとんど音沙汰のなかった弟は、久しぶりの兄弟の再会というにはむしろ至極淡々とした口調で、言った。

「ああ」

 私も素っ気無く頷いた。弟を迎える為に椅子から立ち上がったものの、どうしたらいいのか分からないかのように、そのままただ立ちつくし、相手の顔をじっと見つめることしかできないのだ。

 綾人も、それ以上は何も言わず、私と同じように固くなって、部屋の入り口に佇んだまま、私の顔を瞬きも忘れたように見ていた。

 私達の奇妙な緊張ぶりに、一緒にいて何となく気詰まりなものを覚えたのだろう、初めは興味津々兄弟の対面の様子を観察していた妻も、お茶を入れてくるとの口実ですぐに姿を消した。いつだって、彼女は、ほとんど一緒に過ごしたことのない、この義弟をひどく意識していた。




 私が妻の晴美と結婚してすぐに、綾人はこの家を出た。

「別に晴美さんに気兼ねして出ていくわけじゃないよ。僕だって、大学生活くらい地方を出て都会で過ごしたいし、こっちじゃ、卒業してからの就職先だって限られるからね。兄さんは、父さんの会社を継いだからいいけれど、次男の僕はそうはいかないもの」

 そう口では言った綾人だが、大学に入った最初の夏休みも、冬も春も、一度も家に帰ってくることはなかった。アルバイトに忙しいとか、友達と旅行に行くとか、もっともらしい口実に、叔母などは、今時の若い人は薄情だねぇ、たまには帰ってこいときつく言ってやりなさいなどと言ったが、私は、綾人が帰ってこない本当の理由を慮って、深く追求する気持ちになれなかった。

 だが、決して、綾人に会いたくなかったわけではなく、こうして、弟がやっと戻ってきた今、胸の奥にずっとあったつかえが下りたような安堵感と、それと共に、奇妙に落ち着かないような緊張感を覚えていた。

「あ、晴美さん、僕も何か手伝いますよ」

 実家とはいえ、兄の結婚相手がいる所に帰ってくるのは、なかなか気を使うものらしい、隣のキッチンで夕食の準備をしている晴美に綾人が呼びかけると、妻のぴしゃんとはねつけるような声が返ってきた。

「いいのよ、綾人さんは、正樹さんのお酒の相手をしてあげてちょうだい。かわいい弟さんが帰ってきたものだから、すごくうれしいのよ、その人。本当に、そんな楽しそうな顔をしている正樹さんって、私、初めて見る気がするくらいよ」

 私はビールのグラスを置いて、思わず、自分の顔に、確かめるように触った。もともと感情はあまり面に出さないようにしている私なのだが、一体、どんな顔をしていたというのだろうか。気になった。

「そうですか?」と、チラリと私の方を見やり、またキッチンの方に顔を向け、綾人が何気なさそうに尋ねた。

「ええ」

 声だけでは晴美の本音はよく分からなかったが、もしかして、私が思っていたよりもずっと勘のいい女だったのだろうか。思ったことは割合何でもずけずけと言う性質だし、弟を前にして、一体何を言われることかと、私は内心冷や冷やだった。むっつりと黙りこんで、口許に運びかけたビールのグラスの中を睨みつけていた。

「本当に、あなたのことは、しょっちゅう聞かされていたんだから、私。おかげで、一緒に暮らしたことも、じっくり話しこんだこともほとんどないのに、まるでいつも身近な所にあなたがいるように感じられるくらいだったわ。新婚の時から、そうだったんだから。全く、マザコンの夫に泣かされるという話はよく聞くけれど、この人の弟思いは、その域にちょっと達しているのかもしれないわね。まあ、小さい時にお母さんを亡くしたこととか、その後も叔母さんの家や施設に預けられたりだった家庭環境を考えると、仕方ないかな、とも思うんだけれど。うん、やっぱり、可哀想な子供時代だったなって、思うし」

「言い過ぎだよ、晴美…」

 さすがに幾分閉口した私は、反論しようと顔を上げかけたが、その時、視界に飛びこんできた、綾人の横顔に、続く言葉を飲みこんだ。

 うっすらと、綾人は笑っていた。

「正樹さんって、あんまり話さない人でしょう? それがクールに見えていいなんて、この人のことをあまり知らない若い女の子なんかは外見だけできゃあきゃあ言うけれど、一緒に暮らすと、どうして、こんなにだんまりなのかってイライラすることもあるのよね。だって、言葉のコミュニケーションを放棄するのって、すごく怠惰なことでしょう。黙っていても分かってもらえるなんてのは、男の甘えよ。まあ、この人のは、少し違うのかなって気が最近しているんだけれど…ともかく、そんな無口な男が、あなたのことについては別なんだから、笑えるわ。もう弟馬鹿も、いいところ」

 私にとっては身も蓋もないような、晴美の言葉を僅かに首を傾げるようにして聞いている、綾人の唇にうかんでいた、微笑み。どことなくあまやかで、満足げな、それでいて冷ややかな、何というのだろう、一種の優越感に浸ってでもいるかのような、その表情に、私は、凍りついた。

 と、綾人の目がこちらに動いた。私の顔にうかぶ不安と緊張を見て取ったのか、その微笑みはかき消えた。

「晴美さん、ビール、まだ冷えたのありますか?」

 彼は、テーブルの上の空になったビールの瓶を取り上げると、立ちあがり、キッチンに入っていった。




「綾人さんって、一目見た時は、なんて似ていない兄弟だろうって、思ったけれど、やっぱりあなたの弟だわね」

「どうしてだい?」

「外見は、全然違うわよ、亡くなったお母さんにそっくりだというのも頷けるくらいに、線の細い、とても綺麗な子よね。あなたもハンサムだけれど、綾人さんと違って背も高くてがっしりと男っぽいし…」

「ハンサム? それは、どうも、いつもだんまりの怠惰な男でも、それで許してもらえるのかな」

「ああ、もう、あれは言葉のあやというものよ。いちいち、こだわらないで! ええと、つまりね、似ているのは、そこなのよ、つまり、どちらもだんまりなのね。それも、話すのが本当に苦手だからというより、話し出したら、いくらでも言葉は出てくるんだけれど、何かが、それを抑えてしまうという感じなのよ。どちらもね、こう、すごく自分を抑えて、感情を表すことを避けて、中で溜めこんでしまう、そんなタイプなんだわ」

「そう…」

「すごく損な性分だと思うわよ。私なんか、思ったことはすぐに外に出して、それで、すっきりしてしまうから」

「うらやましいな」

「ああ、でも、考えてみたら、あなたは、やっぱり無口な方がいいのかもね。だって、私がこんなにしゃべるのに、あなたまで同じようにしゃべり出したら、この家、きっと騒がしくて仕方がなくなるわ。ね、だから、正樹さんは、そのままでいていいのよ」

「勝手な言いようだなぁ。でも、そうだな…晴美、君みたいな人が、傍にいてくれてよかったなと、私は思うよ。この家に、私と綾人の二人きりなんて、確かに静か過ぎて陰気になってしまうだろうからね」

「そう思うんなら、弟さんだけじゃなくて、私のことも大事にしなさいよ、ね」





 綾人が、私に向かって手を差しだす。

 指の細い、まるで壊れ物のような、哀しくなるくらいに小さな手だ。私はその手を、大事に包み込むようにして握ってやり、そっと唇を押しつけて、囁く。

(おまじないをしよう)

 私は、糸を取り出す。

 叔母の裁縫箱からこっそり持ち出したものだ。綾人の手を広げると、その折れそうに細い小指に糸を巻きつけた。幾重にも幾重にも、私は、綾人の指に糸を巻いた。

 子供の頃の綾人は、病弱で、季節の変わり目には、よく喘息の発作を起こした。ひどい時には、近所の小児科のある病院に数日間入院することもあるほどだった。

 そんな時、入院などしたくない、私と一緒に帰りたいと泣く綾人をなだめるための、それは、私の思い付きだった。

(入院しないと早くよくなることはできないんだよ)と、母親のような言い方で、ぐずぐず言っている綾人をなだめ、

(男の子なんだから、おまえも、もっと、しっかりしないと駄目だよ)と、父親めかした調子で強く言い聞かせ、それから、

(おまえと一緒にいられなくて、寂しいのは、兄さんも同じなんだよ)と、心からの愛情をこめて、囁く。

 そうして、私は、綾人の指に糸を巻きつける。痛くならないように、優しく、慎重に、その糸の存在を絶えず意識できる程度に、きつく、巻きつける。

 それから、同じように、自分自身の指にも糸を巻き、綾人の縛められた指の傍に持っていった。

(その糸は、例え離れていても、僕達はいつも一緒にいるんだという印だからね。その糸を感じる度に、僕のことを思い出して。僕も、同じように、ずっとおまえのことを考えているから)

 綾人は、まだ少し喉をひくひくと鳴らせながら、私の言葉を一生懸命考えているようだった。己の小指に巻きつけられた糸をじっと眺め、それから、顔を上げて、私を見た。

(本当?)と、涙で潤んだ大きな黒い瞳で、問いかけた。

(お兄ちゃん、いつもいつも僕のことを考えていてくれる? 一緒にいられなくても、ずっと忘れないで、覚えていてくれる?)

 そうやって、常に誰かに気にかけていてもらわないと自分という存在がなくなってしまうのだとでも思っているのだろうか。その切迫した響きを帯びた声は、私の胸を突いた。

 傍にいて欲しい。

 自分を見ていて欲しい。

 愛して欲しい。

(本当だよ)

 このひたむきな問いかけに、そう答える以外に、一体何が言えただろう。

(何があっても、僕だけは、綾人のことを、ずっとずっと好きだからね)

 綾人の黒々と濡れた瞳は、闇色の鏡と化して、私の、やはり切迫した顔を映している。何だか、自分自身に向かって、語りかけているような気がした。

(好き)

 私が言った言葉を、大事な宝物を胸に抱きしめるように、綾人は繰り返した。

(僕も、お兄ちゃんのことが、大好き)

 綾人は、体ごとぶつかるように私に抱きつく。幼い、飢えた心ごと、私はそれを抱きしめる。

 まるで、私がいなくては生きていけないのだと訴えかけるような直接的で、息苦しいほどの重く深い愛情に、私は身震いした。こんなふうに必要とされ、依存されることに、痺れるほどの幸福感を覚え、同時に、これでいいのだろうか、このままでいていいのだろうかという、不安感に苛まれていた

 綾人を、そうなるよう仕向けたのは、他ならぬ私だった。

 そう、私自身もまた、誰かに愛され、必要とされ、縛りつけられることを望んでいたのだ。




 綾人が夏休みをこの家で過ごすようになって、しばらくして、晴美は実家に帰った。彼女の母が急に体調を崩して、入院することになり、その世話をするためだったのだが、はからずも綾人と二人きりで取り残された私は、兄弟水いらずという事態に、半ば戸惑い、半ば子供時代に戻ったような不思議とわくわくする気分を覚えていた。弟も、同じような気持ちになっていたのだろう、晴美がいた時よりもずっとリラックスして、無口な彼にしてはよくしゃべるようになった。何だか、あの再会の時からしばらくはりつめていた糸が次第に緩んで、お互い、やっと打ち解け始めたようだった。

 隣町の湖で催される花火大会を見に行こうと誘ったのは、綾人の方からだった。夏の観光シーズンの目玉のイベントで、およそ千発打ちあげられる花火は、観光客だけでなく、地元の住民も毎年心待ちにしていた。

「ねえ、兄さん、覚えてる?」

 私達は、見物人でいっぱいの湖畔に立ち、頭上で色とりどりの火の華が咲き開いては消えていく様に見惚れていた。続けざまに打ち上げられる花火と、その光を映して輝く湖は、とても美しい眺めだったが、一方で、音の方も凄かった。ずんずんと腹に響くような大音響で、驚いた小さな子供が泣き出すくらいだ。それを見た綾人が、こう言ったのだ。

「僕が小さかったころね、叔母さん達に、ここの花火大会に連れてきてもらったことがあったよね。兄さんは、すごく喜んでいたけれど、僕は、この音にびっくりして、泣き出してしまった。兄さんはね、そんな僕に、大丈夫だよ、恐くないよ、しっかり手をつないでいてあげるから、目を開けて空を見てごらんって言ってくれた。それで、僕は、顔を上げて、花火を見ることができたんだよ。そのうち音も気にならなくなった。だって、兄さんが、ちゃんと僕の手をつないでいてくれたから」

 隣にいた見物人に押されたのか、綾人は私の方に僅かによろけ、その細い体を私に押しつけてきた。私が動かずにじっとしていたら、彼は、ためらいがちに私の手に触れ、握った。

 綾人の手は、ひんやりと冷たく、あまり肉がついておらず骨ばっている。指も手もあまりに華奢にできていて、私が力を入れたら簡単にひしげそうなくらいだ。ふと、私は、弟の手に、こんなふうに触れたことなど、もう何年もなかったことに気がついた。

「こんなふうにね。覚えている?」

 綾人はそっと指を絡めてきたが、私は握り返さなかった。そして、努めて冷静さを装いながら、答えた。

「ああ、覚えているよ」

「よかった」

 綾人が溜め息混じりに呟いた。

「昔のこんなたわいのない思い出なんか、兄さんは、みんな忘れてしまったかと思ってた」

「綾人…」

 私は、思わず綾人の方を振りかえって、その顔を覗き込んだ。慄いたように僅かに目を見張る綾人の顔を見た瞬間、胸の奥から何かが突き上げてくるのを覚えたが、その言葉を、私はとっさに飲みこんだ。

 おまえとの思い出は、どんな小さなことでも全て、覚えているよ。

「おまえ、東京では、もう彼女くらいできたのか?」

 代わりに、別のことを私は言った。

「いないよ」

 綾人は幾分むっとしたように応えた。

「どうしてだ、おまえはもてるだろうに」

「もてるかどうかなんて、知らないよ。女の子みたいな綺麗な顔をしてるなんて言われることはあるけれど、それって、誉め言葉になんないし、それに、兄さんの方が、それを言うなら、ずっともてたじゃない。高校でも、大学でも…」

「そうだったかな」

 とぼけた調子で私は言った。先程覚えた緊張感が、このまま溶けて流れていくことを願いながら。

 その時、また頭上で大きな花火があがり、私を食いいるように見上げている綾人の顔を照らし出した。黒い瞳の中で赤や金の火花が散る。いつもひっそりとおとなしい綾人の顔に、突然激しいものが過った。

「ねえ、どうして、晴美さんと結婚なんかしたの?」

 綾人には珍しい、強い口調だった。胸の奥がひやりとしたが、内心の動揺を、この時も私は見事に隠しとおしていた。

「どうして、って?」

 綾人は口篭もった。私が動じていないのを見て、自分の昂ぶりを恥ずかしく思ったのか、急に勢いをなくして、たどたどしい口調で呟いた。

「だって…晴美さんは、いい人だけれど、何ていうのか、兄さんのイメージとは少し違うから…学生時代に兄さんが付き合ってた人と比べても…さ…」

「綾人、おまえが家に帰ってこなくなったのは晴美がいるからか?」

「違うよ、晴美さんのせいじゃないよ」

 綾人は、また急に気持ちが昂ぶりかけたかのように、言葉を詰まらせたが、それは、すぐに鎮火した。

 花火の炸裂する音が、空気を震わせた。

「兄さんのせいだよ」

 つないでいた手を唐突に離すと、綾人は、他の見物人達と同じように花火を熱心に眺める態を装って、私の何か問いたげな眼差しから、強情に顔を背け続けた。 




(ねえ、お兄ちゃん、一緒に寝てもいい?)




 花火を見た、その夜、私は何故か寝つけなかった。妻が実家に帰ってしまったので、一人寝するには広すぎる十畳の間に布団を敷いて横になっているのが落ちつかなかったのかもしれないが、それよりも、やはり湖畔で弟が見せた態度が気になっていたからだ。

 家に帰ってこなくなったのは、私のせいだと言った綾人。

 夜半もとうに過ぎて、そろそろ眠らなければ明日の仕事に差しつかえるとは分かっていたのだが、一端取りついた考えは、どうしても私の胸から去らず、思えば思うほどますます目は冴えていった。

(どうして、晴美さんと結婚なんかしたの?)

 晴美とは、父が亡くなってすぐ、世話好きの叔母の紹介でつきあうようになった。半分見合いのようなものだったから、熱烈な恋愛感情はなかったけれど、私とは全く違う朗らかな気性の彼女には、好感と親しみを覚え、こんな女性となら、一緒に暮らせそうだと思ったのだ。晴美は、私と違って裏がないし、楽観的で明るく、世俗的で、地に足がついている。気持ちいいくらいに、はっきりとものを言えるところも、うらやましかった。彼女と一緒なら、私も、案外まともな家庭が築けそうな気がしたのだ。例え私が、心の中に、どんなに重く暗い闇を抱えていても、ちょっとした拍子に道を踏み外して、そちら側に傾きかけても、彼女なら、きっとそんな私をどやしつけ、耳を掴んで引っ張るようにして、あるべき健全な場所に戻してくれる。そう期待した。

 結婚することを、身を固めるとか、落ちつくとか言うけれど、私が彼女との生活に求めたのは、まさに、そんな安定した日々だった。自分をぴたりと収めておける、枠組みのようなものだった。父親の死の後、私が、強く必要としていたものだ。

 私と綾人の父が急死したのは、綾人が高校2年の頃だった。父の会社を手伝っていた私は、そのまま、それを継ぐことになり、だから、経済的には、それほど困ることはなかった。少なくとも、綾人を大学に行かせることができるくらいの蓄えはあった。家庭をほとんど顧みることのなかった父ではあったが、その死が哀しくなかったわけではない、ただ、あまりにも突然で、実感が沸かなかった。父からほとんど見捨てられたようにして育った綾人に至っては、葬儀の間中、どこか他人事めいた目をして、心ここにあらずの放心状態に陥っていた。

 私にも、綾人がその時何を考えていたのか読めなかったが、葬式が終わり、親戚も皆帰って、この広い家に、二人で残された時、彼がもらした言葉に、慄然とした。

(これからは、本当に、兄さんと僕の2人きりだね)

 私は、父親を亡くして初めて、そのことに、はたと気がついた。例え、ほとんど家を空けていた、縁の薄い父親でも、それでも、父と呼べる存在がいたことで、私と綾人は、兄弟という役割を演じることができた。それなりに自然に、同じ屋根の下で、平和で穏かな日常を営むことができたのだ。だが、父の死と共に、そんな夢は覚めた。

 私達は、2人きりで、身をよろうものをすべて剥ぎ取られたような心もとなげな気分で、向かい合っているのだった。私達は、一体、何なのだろうか。

 兄弟? 本当にそれだけか?

 まっすぐに私を見る綾人の瞳には、不安だけでなく、熱っぽい期待感がこもっている。いや、そう見せているのは、私の心の中に潜んでいる、あさましい欲求だ。

 子供の頃、私が綾人にしてやった、あの糸を使った、まじないめいた約束が思い出された。

 私達の指に、もう、あの糸は巻かれてはいないけれど、それでも、見えない糸が、絡みついている。指だけでなく、体中に巻き付いて、私達をお互いに縛りつけている。苦しくて、息もできないほどだ。

 私は、綾人のすがるような眼差しから、逃げるように顔を背けた。己の秘められた想いから、逃げた。

 そして、私は、叔母を通じて、晴美に出会い、すぐに結婚を決めた。

 綾人と2人だけで、この家に暮らすわけにはいかなかったのだ。




 苦しい溜め息をついて、寝返りを打ち、ふと目を上げて、縁側に面した障子をぼんやりと眺めた。そこを開けて、庭に面したガラス戸も開いて部屋の空気を入れ替えたら、すっきりして眠れるようになるだろうか。この辺りは夏でも日が沈むとひんやりと涼しく、明け方には寒いくらいになる。そのまま眠ったら、夏風邪をひいてしまうかもしれない。

 と、風にそよぐ庭の木が作り出した影の悪戯か、一瞬、誰かがそこに立っているような錯覚を覚え、苦笑した。

(綾人)

 弟は、いつまでも一人寝をすることを嫌がった。10才になるころには、ちゃんと自分の部屋を与えられ、そこで寝るように父親から言われたのだが、寝つけないとか、恐い夢を見たという口実で、こっそり私の部屋まで忍んでくることがよくあった。

 そんな弟を拒否するという考えは、私の方にもなかった。ほとんど家にいない父親には、結局綾人はなつくことができず、叔母にもその頃子供が生まれたため、彼に充分構ってやり、愛情を注いでやれる身近な存在は、やはり、私だけだったのだ。綾人はともかく、高校生になっていた私が添い寝をしてやるというのは、ちょっと変かなという気もしないではなかったが、実際、嫌ではなかった。いつも、何かに飢えたような、思いつめた目をして、暖かい体を私に押しつけ、か細い腕で必死にすがりついてくる、弟が、可哀想でもあり、だからこそ、一層愛しかった。

 あえて文句を言うならば、おとなしくただ寝ていてくれればいいものを、私が傍にいることで安心すると、寝るのがもったいないとばかりに、おしゃべりをしたがったり、私がそれを無視すると、体をくすぐったりひっかいたりして、どうしても眠らせまいとすることだった。

 下手をすれば、パジャマの中にまで手を突っ込んで悪戯するものだから、さすがの私も、あれにはたまりかねた。綾人にとっては無邪気な遊びでも、こっちは、もう大人になりかかっていた時期なのだ。

 そこまで考えて、私は、慌てて、頭の中にうかびあがった記憶を追い払った。

 思い出しては、いけない。

 深い溜め息をついて、今度こそ眠ろうと目を閉じた。

 明日、晴美に電話をしようと思った。義母の様子も尋ねて、それから、できるだけ早く帰って来てくれないかと頼んでみよう。今、私は、この家で、あまりも圧倒的な思い出のいっぱい詰まったこの家で、綾人と2人きりでいるのだ。それこそは、私が、かつて、何としてでも避けよう、晴美と結婚してでも避けようとしていた状況なのだ。そう、このままでいては、いけない。

 その時、私の耳に、微かな物音が聞こえた。はっとして、目を開ける。息を飲んだ。

 障子の向こうに誰かが立っている。今度は、錯覚ではなかった。

「綾人…か…?」 

 障子の向こうの淡い人影は、どうやらうなずいたようだ。もう十年も前の記憶が一気によみがえって奔流のように頭に流れ込んでくる。違うのは、そこにある人影は、もう小さな子供のものではないということだ。

「兄さん、起きてたんだ」

 障子が遠慮がちに開いて、綾人の顔が覗いた。といっても、外からの僅かな光だけでは、その表情はほとんど見えない。

「どうしたんだ、こんな時間に?」

 自然なふりを装って尋ねる私の声、どうか、そこにこもる震えが、綾人に伝わりませんように。

「うん、何だか、目が冴えちゃって。昔のこととか色々考えてるとね」

 綾人は、一瞬躊躇った後、私の部屋に入ってきた。私は、息を詰めて、その様子を見守っていた。

「兄さんも、もしかして、同じじゃないかと思って」

 全く、その通りだった。私は、布団の中に横たわったまま、声もなく、枕もとに立つ弟を凝然と見上げていた。

「ねえ、兄さん、一緒に寝てもいいかな?」

 私の枕もとに立って、心細げにそう囁いた、小さな子供。押し寄せてくる鮮やかな記憶に、目眩がするほどだった。

 駄目だと言うことは、あの時と同じく、今もできた。何を言っているんだ、眠れないなら、一緒にリビングに行って、ブランデーでも飲もうと、誘うこともできた。そうすれば、綾人も断らなかったろう。そうして、ごく普通の兄弟のように、二人してたわいのない話をしながら飲みあかし、ちょっと酔っ払うんだ。酔いつぶれて、そのまま、ソファで眠りこんでしまうかもしれない。何か起こるとしても、たぶん、その程度のこと。寝不足と二日酔いで明日の仕事に差し支えるとか、その程度のことだ。

 だが、私は、実際には何も答えることはできなかった。私が黙っていたので、綾人は、畳の上にそっと膝をつき、私の布団を、本当にいいのと確認するかのようにゆっくりと捲り上げ、それから、一転、猫のように素早く中にもぐりこんできた。私は、彼のためのスペースを作るため、体を奥にずらしてやった。綾人の手が、そんな私のパジャマの襟を掴んで、自分の方に軽く引っ張った。私が逃げるとでも思ったのだろうか。

 私達は、共に横たわり、お互いの顔を間近で覗き込みながら、しばらく、じっと押し黙っていた。 

 実際、私は、しゃべることはおろか、息をすることもできないほど緊張していた。胸の中で戦慄く心臓の鼓動が綾人に聞かれてはいないだろうかと、気になって仕方がなかった。

「ねえ、兄さん、覚えてる?」

 ついに、綾人が、尋ねてきた。

 ごく柔らかな声音だったが、逃げることも、ごまかすことも許さない、強い響きがした。

 私は、心を静める為に大きく息をつき、表情を隠すこの暗闇に感謝しながら、告白した。

「ああ。おまえとの思い出は、どんな小さなことでも全て、私は覚えているよ」

 言った途端に、どうしたことだろう、胸をきりきりとしめつけ、苛む、苦しみが、ほんの少し楽になった。幾重にも幾重にも巻き付いて、私を縛り、しめつけていた糸が、少し緩んだような気がした。

(損な性分ね、思っていることをもっと外に出したら、すっきりできるのに)

 晴美の言うことは正しいのかもしれないが、そうすることには勇気がいる。特に、私のような忌まわしい秘密を抱えた人間にとって、沈黙は、話すことによって、胸の奥に秘められたものをうっかりもらさぬための、最良の自衛手段だったのだ。そう、少なくとも今までは、そうすることで、私は自分と愛する者を守りつづけてこられた。

「よかった。僕だけがずっと引きずってるわけじゃなかったんだ」

 綾人の腕が私の体に回された。振り払うんだと、私の中の声はそう命じたが、この暗がりの中でも、きらきらと輝いて見える弟の飢えた瞳を前に、どうしても逃げることはできなかった。

 そうだ、こんなふうなことなら、私達は、昔にも行なったことがあったのだ。けれど、無理矢理忘れた。忘れようとしたのだ。

 綾人には何の罪もない。彼は、実際それが何なのかも分かっていなかったはずだから。

 それは、赤ん坊が無心に母親の乳首に吸いつくようなもの、初めから彼には与えられることのなかった滋養と愛情に富んだものをねだるような行為だった。叔母が生まれたばかりの子供に授乳しているのを羨ましげに見、その傍に飛んでいって、僕も欲しいと言っては断られる弟の姿を見ると、私の布団の中にもぐりこんでの悪さも、あまり咎める気にはなれなかった。それが、私の犯した最初の過ちだったのかもしれない。綾人は、私の体をくすぐって笑わせる悪戯の中でも、ふいに捕まえた手の指を口に含んだり、パジャマの前をはだけ、顔を埋めて、探し出した乳首に吸いついたりするのが好きだったのだ。悪戯がそこまでエスカレートすると、私もさすがにやめさせざるをえなくなった。行きつく先が何となく見えて来て、怖気をふるったのだ。だが、綾人は、満足できなかった。

 私の部屋にやってくる度、やめろと叱られるか、布団の中から追い出されるまで、何度でも同じことをしたがった。

 だが、私の方も、何時の間にか、この遊びに慣れていった。体をさすったり触れたりする弟の手や唇の感触が好ましく思われるようになり、だから、もうこの辺りでやめさせなければと思いながらも、じっと横たわって、弟の愛撫によって生み出される不思議な愉悦に浸っていた。けれど、いつも、急に後ろめたく、恐ろしい気持ちになって、私は、弟の手を掴んで、止めるのだ。駄目だ、ここまでだよ、と。

 それでも、結局、私は負けてしまった。ある時、私は非常に興奮して、どうにもならない所まで昂ぶってしまった。苦鳴を漏らし、同じ布団の中にいて、私の体を撫でていた綾人を、抱きすくめてしまうくらいだった。綾人は、触れるなと言われていた私の下腹部に触っていて、私の体に生じた変化に気付いて不安がっていたが、逃げようとはしなかった。信じきった、澄んだ瞳を見開いて、どうしたらいいのかと問いかけるかのように軽く小首を傾げて、私の腕に抱かれている。そんな弟が、どうしようもなく可愛くて、欲しくてたまらなかった。そして、私は、突き上げくる飢渇に降伏し、躊躇い、罪悪感を覚えながらも、こう囁いたのだ。

(いいんだよ、綾人。そこに触って、それから、おまえのしたいことを続けてくれ)

 綾人は、私に言われたとおりにした。

 私達の触れ合いは、兄弟の罪のない戯れでは、もはやなくなってしまった。その日から、私は、綾人が、こっそりと私の部屋にやってくるのを心待ちにし、やってくるとすぐに布団の中に引きこんで、父にも他の誰にも決して打ち明けられないような行為にふけった。綾人も、何かが変だということは分かっていただろうが、嫌だとは言わなかった。それだけは誓ってもいいが、私は、もし彼が拒んだなら、すぐにやめていただろう。だが、綾人が何も言わないので、私の部屋に通うこともやめないので、私も、自分を抑えることが出来ないでいた。

 結局、2人の秘密の関係は、綾人が中学に入って、私の部屋にくることがぱったりなくなるまで、続いた。それが終わると、私達は、2人の間であったことには、決して触れなくなった。私は、綾人が忘れてくれることを祈り、彼の為に、早く忘れるよう自らに強いた。だが、忘れようとしても、忘れられない想いというものがあって、それが、今に至るまで、私をがんじがらめに縛り、締めつける。

 だが、綾人は、どうだったのだろうか。あの過去は、綾人にとって、罪悪感と後悔と恥ずかしさを覚えさせるものだったに違いない。だから、私は、あの時のことを仄めかす言葉や態度を一切見せまいとした。成長して、2人でしたことの意味を分かるようになっている綾人に、どうして自分を玩んだのかと責められ、なじられるのが恐かった。彼に思い出させまいとするあまり、もしかしたら、私は少し冷淡になっていたかもしれない。綾人が尋ねたくても、そうできないくらいに心を閉ざしていたかもしれない。

 だから、なのかもしれない。私が結婚したことがきっかけで一度離れていった綾人が、わざわざ戻ってきてまで、今、私に何かを訴えようとしているのは。

 私は、晴美と結婚した。綾人にしてみれば、自分を傷つけておきながら、私1人だけが、全てを忘れた顔をして、誰かと幸せになることなど許せないと怒っても、仕方がないことなのかもしれない。

 私は、綾人の口から出る言葉に心底怯えていた。恨まれていることを決定的に思い知らされる、その瞬間をじっと待ちうけた。しかし、実際には、綾人の唇から語られた言葉は、私が予期していたようなものではなかった。 

「あのね、兄さん」

 私の腕にゆるやかに手を滑らせながら、綾人は、ひっそりと囁いた。

「兄さんが、晴美さんと結婚してさ、僕も、誰か好きな人を見つけなきゃいけないって思ったよ。ここを離れて、東京で新しい生活を始めて、新しい友達もできたら、僕もそんな気分になれるかもしれないって、最初の頃は期待してた。実家に帰らなかったのは、戻ってきて、兄さんの顔を見たら、そんな決意もなにも消し飛んでしまうそうだったから。でもね、できなかった」

 私は瞬きすることも忘れ、綾人の黒い、大きな目に見入っていた。

 綾人は、しばらく押し黙った。せりあがってくる熱いものを飲みこもうとしているかのようだった。再び語り出した声は、やはり、震えていた。

「僕の周りはさ、皆、恋って、すごく幸せなことみたいに話すんだ。でも、僕には、そんなこと信じられない。幸せだなんて…こんな想いのどこが…そんなにいいものなんだろって、本当に不思議に思うよ。だって、苦しいばかりで、少しもいいことなんてないじゃないか、それとも、僕だけなのかなぁ…その人のことを思うと、心も何もぎゅうぎゅうに締めつけられるみたいで、息もできなくなる、逃げたってやっぱりその人に縛りつけられている…ねえ、どうして、僕だけこんなに苦しいのかな…? やっぱり、好きになっちゃいけない人を好きになったからなんだね…」

 頭を鈍器でがつんと殴られたような気がした。私は、大きく息を吸いこんだ。綾人の言葉の意味を咀嚼し、私が理解するのに、時間がかかった。私の沈黙を綾人が困惑と受けとっても仕方のないくらい長く、私は黙りこんでいた。

「ごめんね、兄さん、こんなこと言っても、兄さんを困らせるだけだと分かってるけど、もう、僕の中で溜め込んでいるのも限界なんだ。言ってしまって、それで、兄さんに嫌われて二度と顔も見たくないって言われても…ううん、いっそ、そう言ってもらったら、すっきりして、僕は自由になれるのかもしれない」

 自由? 私は、胸の中でその言葉を反芻した。

「僕は、兄さんのことがずっと好きだった」

 綾人は、大きく息を吸いこみ、それから、秘めていたものを一気に吐き出すように、言った。

「昔…兄さんとしたことも…あのね、僕はちっとも嫌じゃなかったよ。だって、兄さんはすごく優しかったから、あんなふうに優しく僕に触ってくれた人なんて他に誰もいなかったから、そう、兄さんだけが僕を大事にして、愛してくれた…。後になって、あれが何なのか分かるようになって、兄弟でしてはいけないことだと知って、僕は、兄さんの所に行くのをやめたけれど…恐くなったんだよ、やっぱり…でも、兄さんは、もっと恐かったんだろうね。だって、僕が兄さんの部屋に行かなくなったら、兄さん、急に余所余所しくなってしまったもの。前のように、僕に心を開いて話しかけてはくれなくなった。僕は、どんなに後悔したか、知れないよ。兄さんに謝って、お願いだから、もとのように僕に接して欲しい、僕を見て欲しい、僕に触って、抱きしめて欲しいと頼みたかった。けれど、何だか、兄さんは、もう僕達の間であったことには触れて欲しくないみたいだったから…同じクラスの女の子と付き合い始めたりしたよね。だから、僕は、兄さんに迷惑かけないように、黙っていることにしたんだよ。口を開いたら、兄さんが好きだと叫んでしまいそうで、手が触ったら離したくなくなる、我慢できなくなって思わず抱きついてしまいそうで、ずっと恐かった…」

 綾人の喉が小さく鳴った。彼は、言葉を詰まらせた。

「ごめんね、こんなこと言っても、どうしようもないけれど、兄さんは晴美さんのもので、僕のものにはなってくれないって分かってるけれど、それでもね……好き…」

 私は、手を伸ばして、綾人の頬に触れた。綾人は、怯えたように身を竦ませる。そこは、暖かいものに濡れていた。

「綾人…綾人…」

 私は、我ながら滑稽なくらいに動転していた。綾人が泣いている。どうにかして、泣きやませないと。まるで、小さな子をあやすように、綾人の頬を手のひらでこすったり、頭をくしゃくしゃとかき撫でたり、全く、他に何か、もっとましな手段を思いつけないものだろうか。

 綾人は、私の不器用な愛撫に戸惑い、それを振り払おうとした。私は、その手を捕まえ、握りこんだ。骨の細い、私にとっては、相変わらず壊れ物のように思われる、綾人の手。

(おまじないをしよう)

 私の頭の中で、何かが弾けた。

 幼い頃に交わした約束が鮮やかにうかびあがる。いつも一緒にいるのだと、まじないの糸を互いの手に巻いて、誓った。

「綾人」

 私は、捕らえこんだ綾人の手に唇を寄せた。そこには、もうあの糸は残っていないが、私達の間をつなぐ、見えない糸は、やはり残っていた。私はおまえを忘れないし、おまえは私を忘れない。

「兄弟って、やっぱり、どこか似てしまうのかな。一番大事なものを守りたくて、だから、自分を抑えて、我慢して…どうしようもない所まで追いこまれてしまう。もっと早くに気がつけば、自分の気持ちを素直に打ち明けられていたら、すぐに楽になれたのに。私もおまえも、何て馬鹿だったんだろうね」

 私は、綾人の手を広げ、己の手を重ねた。もう、決して解きはしないというように指を絡ませた。

「この10年、おまえのことを思わない日はなかったよ。おまえに触れることができなくなっても、誰か他の人と一緒にいても、どんなに遠くに離れていても、忘れることはなかった」

 いとしい、いとしいと言う心が、いつも、私達をしめつけていた。

 この苦しさから解放されるのなら、おまえを救ってやれるのなら、私はどんなことでもするだろう。

 張り詰めていた糸が、ぷつん、ぷつんと切れていくような気がした。ほどけていくような気がした。

 私は、綾人の体を抱きすくめ、己の下に巻きこんだ。綾人は、びっくりして小さな悲鳴をあげ、身を固くした。

「おまえに苦しい思いをさせたくなかった」

 私は、震える手で、綾人の小さな、この暗がりではうっすらと青みを帯びて見える顔を包みこんだ。

「おまえにだけは、こんな思いをさせたくないとずっと思っていた。罪の意識に苛まれるのも、こんなやり場のない想いに胸を焼かれるのも、私一人で充分だから…おまえが、私と一緒に犯した、あのことを忘れられるように、おまえの負担にならないよう、私も忘れたふりをすることが、おまえの為だと思っていたんだ」

 綾人の頬に触れた手から、彼の震えが私に伝わった。私は、身を屈めて、その微かに開いた唇に口付けした。

 綾人は、呆然と魂を飛ばしたようになって、何も答えられないでいた。私は、もう一度、今度は深く唇を重ね、強く吸った。苦しげに喘ぐ、その息のすべてを吸いつくそうとするかのごとく、貪欲にむさぼった。

「本当だな」

 私は、頭をずらして、綾人の肩に顔を埋めるようにしながら、その耳元に低い声で囁いた。

「胸の中に溜めこんでいたものを、全部吐き出してしまったら、確かに少しは楽になれるようだ」

「兄さん…」

 綾人の手が、宙を泳ぐようにして私の背中に辿りつき、強く、私を抱きしめる。

「愛している…」

 私は呟き、すがりつく弟の体を乱暴にならないようそっと押さえつけると、パジャマのボタンに手をかけた。私の手は震えながら、それが自分達を解き放つ為の手がかりであるかのように、引き千切ることがないよう慎重に、一つずつ、外していった。

 何時の間にか、綾人の手も私の体に伸ばされて、もどかしげにパジャマのボタンを引っ張りながら外し、かと思うと、中に滑りこんで、昔のように、愛撫し始めていた。私の唇に、自然と微笑みがうかんだ。

 私達は、一体何なのだろう。

 兄弟で、愛し合っている。

 もちろん、罪だろうさ、分かっている。

 私は、心の中で、妻に向かって言い訳をする。ごめんよ、晴美、君といて私は本当にほっとできたんだ。けれど、それだけでは充分じゃなかった。ごめんよ、こんなこと、たぶん二度としないだろうけれど、でも、私は、こんなにも完璧に心と魂を解放してくれる体験を他には知らない。何もかもがほどかれて無防備な裸になったようで、心もとないけれど、叫び出したいほどの幸福感を、私は覚えている。ああ、自由だ。

 私は、綾人の薄い裸の胸に突っ伏して、何時の間にか、低い声で呟いていたようだ。気がつくと、綾人の腕が、私の頭を不安そうに抱きしめていた。

 私は顔を上げて、綾人のきらきらと輝く黒い瞳を見下ろした。どうしたらいいのかと問いかけるかのごとく、私を一心に見つめている。私は、弟の唇にキスをした。その手を捕まえて、私の胸に押し当て、腹に向かってゆっくりと滑り下ろし、既に待ちうけるかのように持ち上がっていたセックスに触れさせる。

 弟のひんやりと骨ばった手に包みこまれて、私は思わず熱い溜め息をもらした。 

 ああ、そうだよ、綾人、どうかそのまま続けてくれ。もう、やめろなんて言わないよ。ここに辿りつくまで随分長い時間がかかってしまったけれど、私達が、ずっとしたくてできなかった、あのことの続きをしよう。




 綾人は、8月の末に東京に戻った。試験の勉強をしなくてはならないし、それに、アルバイトもあるからとのことだった。

「よかった、綾人さん、初めは私に打ち解けてくれないんじゃないかと心配してたけれど、私、正樹さんを取った嫌な奴だと思われているような気がしていたけれど、どうやら、取り越し苦労だったみたい。それに、初めはどうしようと思うくらいおとなしくて無口な子だったけれど、ここにいる間に、何だか少し明るくなった気がするわ。それを言うなら、あなたも少し表情が柔らかくなったわね。よかったわね、かわいい弟さんとうまく仲直りできて」

 晴美の他意のない言葉に、私は内心ぎくりとしたが、幸い彼女は気がつかなかった。私達兄弟の当初のぎこちない接し方を見ていた彼女は、私達が何かが原因でずっと仲たがいをしていたと、何かしこりがあってそれで綾人は実家に帰って来なかったのだと解していたらしい。

 私は、肯定も否定もせずに、ただ自分の顔に、確かめるように触れてみた。表情が柔らかくなった、らしい。

「ねえ、来年の夏には、今度は三人で花火を見に行きましょうよ」と、誘う晴美に、私は、微笑みながら頷いた。そんなことも、きっとできるだろうと思っていた。

 私は、晴美と一緒に綾人を家から送り出したが、その時も、不思議なくらい私の胸は穏やかだった。

 東京に戻ったら友達に誰か女の子を紹介してもらおうかなと、悪戯っぽく笑って言った弟に、ああ、そうするといい、と私は澄ました顔で答えた。私達の間で、秘密めいた眼差しが、一瞬絡み合って、すぐにほどけた。他には、何も起こらなかった。二度と起こりはしないだろう。たぶん。

 果たして、私達は、互いを縛りつけるあの想いから解放されたのだろうか、それとも、今でもやはり縛られているのだろうか。

 妻の言った一言が、ふと心にかかった。

「綾人さんったら、どういう心境の変化なのかしらね。今まで私のことは、他人行儀に、晴美さんって呼んでたのに、ここを出ていく時ね、いきなり、ねえさんって呼んだのよ」

 私は己の胸にそっと手を置いた。錯覚だろうか。

 きりきりとしめつける、あの痛みの名残のようなものを、その瞬間、そこに感じたように思ったのだ。


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