天使の血

エピローグ


 オペラの幕が下りると、私は幕間にいささか飲みすぎた白ワインの勢いも借りてことさら陽気に先程見た舞台についてサンティーノと議論を交わしながら席を立った。

 劇場の一階ロビーは興奮した人々で溢れかえっている。シャンデリアの投げかける光のもと着飾った客達の体から立ちのぼる汗と血の匂いに私はまた少し酔いそうになったが、そんな私の手に傍らのサンティーノがそっと触れた。

「大丈夫かい?」

 心配そうなサンティーノに向けて、私は片目をつむって見せた。

「ああ。少し熱気にあてられただけさ」

 押し合いへしあいする人ごみに流されて、私達はゆっくりと扉へと向かった。開いた扉の向こうには次々に馬車が着き、出ていく人々を迎えている。

 サンティーノは馬車で海岸沿いの道を走ろう、おいしい料理とワインを出す気のきいた店に案内しようと提案したが、私は何だか気が乗らず、少し歩きたいと言った。 

「風が気持ちいいな」

 劇場から出た私は、海の方から吹いてくる潮の香りを含んだ風に目を細めた。客を並んで待つ馬車の横を素早く歩きすぎると、すぐ後ろをサンティーノがついてきた。

「この前ここに来たのはいつだったかな。1年前か…それとも5年、10年前だったろうか。ふふ、もう月日の数え方も忘れてしまったような気がするよ」

 私は後ろを振り返りもせずに呟いた。

 サンティーノはじっと黙って私の言葉に耳を傾けている。私が返事を必要としている時とそうではない時をちゃんと心得ているかのようだ。

 私は今後にした劇場を振り返りたい衝動に一瞬駆られたが、やめた。

 歌はもう充分だ。あの偉大なカストラートの歌ではない。遠い過去から甦って私の心を乱す、あの歌のことだ。

 自分の動揺ぶりに改めて気がつき、私は苦笑を禁じえなかった。

 参った。今頃になって思い出すなんて。そのことで、こんなにも気持ちをかき乱されるなんて―。

 劇場は次第に遠くなっているはずなのに、あの歌声はまだ私を追いかけてくるような気がした。

「ミハイ…」

 私がその名を呟くのは、もう何年ぶりだったろう。

 ミハイを失ってから、私は既に4つの世紀を渡って生きてきた。彼の面影は次第にあやふやなものになり、顔の細部まで思い出すことはできなくなった。思い出すことすら、最近ではほとんどなかったのだ。

 否応もなく、時間は私の魂から柔らかい部分を少しずつそぎ取っていった。ミハイと恋を語ったのは、今の私とは全くの別人であるはずだ。若く向こう見ずで純粋で、人間相手に本気の恋をした、あの若者は私自身にとっても既に遠い。

 実際、ミハイが私にとってただ1人の恋人であった訳ではない。彼を失ってしばらくの間こそ私は随分臆病になっていたが、やがて人間相手の恋の駆け引きを以前のように楽しめるようになった。時には相手に好意や尊敬の念を覚え、また恋も幾つかした。だが、私は二度とミハイ相手に犯した過ちは繰り返さなかった。

 恋の幕引きは必ず自分自身でやり遂げる。

 私が相手をどれ程愛しいと思っても、終わりは常に変わらない。私は殺し血を奪った。

 胸が痛むか痛まないかは問題ではない、私はただそうしなければならないからだ。寄り添いあって生きることの叶わない人間が相手であれば、血を取り込む瞬間に覚える魂の交歓こそが私達にとって唯一の恋の成就だ。

 つまり私は、私が殺してきた数多くの愛人達の血で生きている。彼らの命を生きている。

「あのころに比べると、随分私も怪物らしくなったものだな…」

 そう独りごちて、私は傍らのサンティーノを振り返った。すると彼は穏やかに問いかけるかのごとく首をかしげた。

「いや、ちょっと昔のことを思い出したんだよ。君と出会ったばかりの懐かしい時代をね」

 サンティーノの淡い色の瞳が微かに揺らいだ。私と同じほど時を経た、その気だるげな美しい顔に微かな憧憬が過ぎった。

「ローマの時代を?」

 サンティーノももしかしたら私と同じ感傷に捕らわれているのではないかという気がしてきた。

 過去から甦ったあの歌を彼もまた聞いていたのではないのだろうか。

 私は、海岸へと続く道の途中でふと立ち止まり、サンティーノをしげしげと見た。

「あの頃は」

 出し抜けに、私はこんなことを言っていた。

「2人で色んな悪戯や冒険をしたね」

 サンティーノは懐かしげに目を細めた。

「うん」

 だが、私はそれきり黙りこんでしまった。たぶん込み上げてくる思い出があまりに圧倒的だったからだろう。それはサンティーノも同じだった。

 なくしたものは、もう戻らない。私達の宮廷も地上から消え去って久しいのだ。

 ブリジットやハイペリオン、あの頃私の周りにいた同族達もほとんどどこかに去っていった。

 今でもずっと交友が続いているのは、この内気で優しいオルフェウス、私のサンティーノだけだ。全く、彼の誠実と忍耐強さには頭が下がる。よくも私の気まぐれと不実と残酷さにここまでつきあってこられたものだ。

 さすがに常に一緒にいることはできなかったが、あの夜明けの誓いどおり、永遠に私を見守ってくれているつもりなのだろうか。

「時々思うのだが、どうして私達は一度も恋人同士になろうとしなかったのかな」

 私が軽い口調で揶揄すると、サンティーノは困ったような微笑をうかべた。

 サンティーノが今でも私に恋をしているのか、それは分からない。思えば、彼は私にずっとそんな素振りは見せてはいない。

 ヴァンパイア宮廷時代、私が何度かの求愛の末ブリジットの愛人となった時も、私のためにむしろそうしろと勧めたのはサンティーノだった。

 私はといえば、彼を最愛の友と呼ぶことはできても、やはり恋人にはできないでいた。もしかしたら、『同族同士のカップルというものは意外と長続きしないことが多い』という一族の間で囁かれていたもっともらしい話が引っかかっているのかもしれない。

 何故なら、私はサンティーノを失いたくないからだ。

 これは私の身勝手だが、生きているのが辛くなった時に逃げ込める、安心して傷を癒せる居場所が私も1つくらい欲しい。

 結局、永遠は1人で生きるには長すぎるのだ。

 私は再び歩き出した。

 道沿いに立ち並ぶ酒場の開いた扉の奥から陽気に騒ぐ人間達の喧騒が溢れ、また別の扉からマンドリンの切なげな演奏で辻楽師が歌う恋歌が流れてきた。

 ふと私は、ナポリではなく、別の街の通りを歩いている錯覚に捕らわれた。

 またしても、あの失われた美しい歌声が私に追いつき、絡み付いてきた。

 ミハイ。胸の奥底に刻まれた恋の跡が微かに疼いた。

 真に私の心を揺さぶった、あのような素晴らしい歌声を聞いたのは、あれが最後だ。

 例えこの時代にどれ程多くのカストラート達が現れ互いに磨き抜かれた技を競って聞かせようとも、私が本当に感動できたのは、ミハイの歌声、彼のあの魂の叫びだけだ。

 かつては思いもよらなかったことだが、教会の陰に隠れるようにひっそりと生きてきたカストラート達はいまや大手を振って街を歩き、オペラの舞台でなくてはならぬ存在になっている。才能ある者にはこの世の栄華を極めることも可能だろう。スペイン宮廷に召し抱えられ、ついには事実上の宰相の地位にまで登りつめたファリネッリの記憶は私にとってもまだ新しい。

 ミハイは生まれる時代を間違えたのだ。もしも、彼がせめて後百年、いや二百年遅く生まれていたら、彼はその足元に世界をひざまずかせていたかもしれない。ああ、この時代にミハイがいたら、その生涯はどんなにか輝かしいものになったに違いないのに―。

 我にもあらず怒りにも似た口惜しさに身を震わせたその時、私は懐かしい囁きが脳裏に甦るのを覚えた。

(いいんだよ、レギオン。幸せなら、僕は君からもうたくさんもらったんだから)

 紛れもない、ミハイの声だった。ああ、彼はこんな声をしていたのだとまざまざと私は思い出した。同時に、ずっとおぼろげだった彼の面差しも鮮やかに浮かび上がった。あの煙る熾のような青い瞳、口元にうかぶ強情そうな表情、私の指に絡みついた琥珀色の髪の感触、肌に寄り添う彼の温もり―。

 私は思わず足を止め、胸をしめつける切なさを持て余しつつ天を振り仰いだ。

 今夜の私は、本当にどうかしている。

 熱を持って疼いている胸を押さえながら、その時、私ははたと気がついた。

 ミハイ、君の全てが消えた訳じゃない。私はまだ覚えていたのだ。

 君の命も君との恋も永遠に続くはずはなかったが、それでも私は君の中に永生にも等しい不滅の輝きを見た。

 あの遠い日々、私の傍で君は確かに生きていた。誰よりも強く激しくひたむきに短い命を燃やし尽くして逝った君の存在は、私の魂にかくも深く刻み込まれている。

 私が愛した人間の恋人よ。その意味では、君は私と共に今でも永遠の時を生きているのだ。

「レギオン?」

 サンティーノが心配そうに声をかけ、私の背中に手で触れた。

 私は、慄いたように振り向いた。

「サンティーノ…」

 私は今にも泣き出しそうな無防備な顔をしていたに違いない。 

 サンティーノは穏やかな眼差しを動揺する私に当てたまま近づくと、私の頬を両手で優しく包み込んだ。その手の上に私は己の手を重ね、目を閉じた。

「すまない、まるで子供みたいなことを―」

 サンティーノはうなだれた私の頭を抱いて、額に軽く唇を押し当てた。

「いいんだよ、レギオン、君が僕のもとにやってくるのは永遠の重みに押しつぶされそうな時、経てきた数多くの恋の痛みを思い出した時なんだから…それに―」

 サンティーノは私の顔を覗き込んで、共感のこもった声で囁いた。

「僕も今夜は随分と感傷的になっているんだ。あんなに昔のことなのに、レギオン、僕もまだ覚えていたんだよ、あの天使の歌声を―」

 私は瞠目した。微笑もうとしたが、実際には微かに唇が震えたくらいだった。一瞬サンティーノを抱きしめたい衝動に駆られたが、私は彼の抱擁からそっと脱け出した。

 私とサンティーノは海岸沿いの道をゆっくりと歩いていった。海から吹き寄せてくる温かい風が頬をなぶる。

 私は夜の中に静かに横たわるナポリの町の瞬く灯りの方に顔を向け、目を細めるようにして眺めた。もう随分多くの夜と朝を経てきたつもりだが、それはまだまだ続くのか。

 私はふと耳を済ませた。

 風の音に混じって、ミハイ、君の歌がまだ聞こえる…。

 君が放った一瞬の輝きの記憶を胸に抱いて、私は果てしない永遠をさ迷い続ける。

 サンティーノがじっと黙り込んでいる私に向かってごく低い柔らかな声で囁いた。私の手を彼はぎゅっと握りしめた。

「ああ」

 不覚にも、私は涙ぐみにそうになっていたのだ。涙など流さなくなって久しかったにもかかわらず。

 私は息をついた。

「大丈夫だよ、ただ―」

 目の前に広がる茫漠たる無限の時を見つめながら、私は隣を歩く最も親しい友に向かって心の底から懇願した。

「私の傍にいてくれないか、サンティーノ。今夜は1人でいたくないんだ」





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