山本梅逸(1783〜1856) 江戸後期の文人画家。名古屋生、尾張南画の代表的画家。本名亮、諱親亮、字明卿。卯年生まれで通称卯年吉。画号は春園・竹厳・梅佚、のちに梅逸とした。別号に梅華道人・玉禅・天道外史・葵園・友竹艸居・白梅居など。
名古屋天道町(大須)欄間彫刻山本有右衛門の子、13歳のとき父を亡くすが母は子供の教育に心がけたという。画ははじめ山本蘭亭に入門したが、師に画才を認められ張月樵を照会された。王冕の墨梅図に感銘したことにより梅逸の濠を授かったという。天保3年二度目の京都で次第に名が上がり、今日の文人社会に認められる。頼山陽らと交友、煎茶のほか笛や陶芸も巧。
のち各地を遊歴、江戸で大窪詩佛と交流。谷文晁との合作もある。晩年の安政元年には尾張藩御用絵師格として取り立てられた。
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