渡邊崋山小華親子 | |||||||
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渡邉崋山(1793〜1841) 江戸後期の画家・思想家・三河田原藩士。江戸生。名は定静、通称登、字は伯登・子安、のち崋山、号に寓画堂・全楽堂等。家老として藩務に精励する傍ら蘭学に親しみ、高野長英・小関三英らと尚歯会を結成。画は白川芝山・谷文晁に学び、種々の画法を研究しながら風俗写生に才をみせ、洋画描法をも摂取して特に肖像画に洞察の深さと筆鋒の鋭さを発揮した。蛮社の獄に連坐し蟄居中の天保12年、藩主に類の及ぶを恐れ自刃、49才。 |
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渡邊如山(1816〜1837) 江戸後期の南画家。渡辺崋山の実弟。名定保、字叔保、通称は五郎。号は如山・華亭など。 渡辺崋山の末弟として江戸田原藩藩邸に生まれる。学問・弁舌に優れた。14歳のとき、崋山の弟子であり親友の椿椿山の画塾・琢華堂に入門し、花鳥草木図の画を中心に教えを受けた。画業によって身を立るほどにであったが22歳で夭折し、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬られる。法名は「一如院定説季保信士」。 |
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渡邊小華(1835〜1887) 幕末・明治の武士、画家。天保6年1月生。渡辺崋山の次男。三河田原藩家老。7歳のとき父が自刃。はじめ父の弟子椿椿山に、のち福田半香に画を、大橋訥庵に経史を、関根痴堂に詩をまなぶ。花鳥画を得意とした。明治20年12月29日死去。53歳。名は諧(かのう)。 椿椿山の養女須磨と結婚して一女をもうける。 |
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