椿 | ||||||||
旗本、槍組同心の家。
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椿椿山(1801〜1854) 江戸後期の画家。享和元年6月4日生。幕府の槍組同心。金子金陵、渡辺崋山にまなび、蛮社の獄で逮捕された崋山の救援につくす。花鳥画、肖像画を得意とした。嘉永7年9月10日死去。54歳。江戸出身。名は弼。字篤甫。通称は忠太。別号に琢華堂など。 |
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椿華谷(1825〜1850) 江戸後期の南画家。名恒吉。号は椿彰・華谷・尚古など。文政8年、椿椿山の長男として江戸小石川に生まれる。幼いときから渡辺崋山の画塾に入門し、15歳のときに華谷という画号を師崋山より贈られた。父・椿山の従兄弟で崋山の友人・椿蓼村の娘を娶り女児をもうけた。いよいよ椿山の後継と期待されたが、嘉永3年僅か26歳で夭折した。 |
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椿二山(1874〜1907?) 椿山の孫で、父は早世した華谷に代わり家督を相続した椿山の四男椿和吉である。椿山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷に学んだ。明治前半には、伝統美術が衰退したが、日本美術の復興をはかることを目的とした日本美術協会ができ、その展覧会でたびたびを受賞している。号「二山」は幽谷から明治30年6月に与えられた(田原市博物館) |
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椿蓼邨(1806〜1853) 通称亮左衛門、番町の学者で書家。椿山の従兄弟で友人。娘は椿山の子華谷へ嫁ぎ一女をもうけた。安井息軒撰、永井盤谷書・隷額の「蓼邨椿先生墓碑銘」([臥10024][帖038])が青山霊園にある。 |
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