乾清花苑  太白廡  略伝引得

篠崎家
三島 篠崎応道(1736〜1813) 

 江戸後期の儒者、私塾「梅花社」の 創設者。元文元年大坂生まれ。名は応道、字安道、号三島・郁洲。通称伊予屋長兵衛。父長兵衛が伊予から大坂に出、紙屋を営んでいた。 長男の主馬は文人気質で諸芸に秀で家業を離れたため、父の隠居後次男三島が2代目長兵衛を名乗った。
 初め菅甘谷の門人兄楽郊に学びのち甘谷についた。詩文、易学、天文にも通じ、天文は麻田剛立に学んだ。家業にも精励し繁盛したが、安永5年家業をたたみ、土佐堀の隠居所に私塾「梅花社」を開いた。講義の傍ら、月に3回詩会を開き、名ある文人達が参加した。 また、片山北海らの「混沌詩社」にも参加、音曲もよくした。文化10年76歳で没した。 
 篠崎家墓所は大阪天徳寺(北区与力町)にある
         ┏主馬          竹陰
伊予屋      ┃長兵衛          │
篠崎長兵衛━┻三島──小竹━┳━女
                     ┃
                     ┃ 後藤松陰
                     ┃ │
                     ┗━町子
小竹 篠崎弼(1781〜1851)

 儒者。本姓は加藤。名は弼。字は承弼。通称は長左衛門。号は小竹、畏堂、南豊、退庵、摂江、南豊、梅花書屋など
天明元年大坂の生まれ。小竹の実父は豊後の出身で 京町堀で医者を開業していた加藤周貞。小竹は幼い頃から、聡明で、学問を好み、9歳で「梅花社」に学び、4年後三島の養子となる。のち尾藤二洲・古賀精里に学んだ。頼山陽とは生涯の親友となり、田能村竹田ら多くの文人と交渉があった。
 「梅花社」は小竹の代に至り大いに繁盛し、幕末の大坂で最も広壮な塾となり、門下生1500人を数えている。
 著書に『小竹斎文稿』『小竹斎詩鈔』などがある。 嘉永4年70歳で没。大阪北区天徳寺の墓碑は斉藤拙堂撰、呉北渚書。



嘯咏



弼印

承弼


香魚七絶小品(旧蔵)   鶴洲長田翁七十賀




弼印

承弼


題桃園結義圖 有馬十竹 詠佛五絶 七絶



篠崎竹陰(〜1858)
 江戸後期の儒者。江戸の人。江戸で古賀侗庵,大坂で篠崎小竹にまなぶ。小竹の次女と結婚し,家学をついだ。安政5年8月28日五十余歳で死去。本姓は加藤。名槩。字公槩。通称は長平。別号に訥堂、武江。著作に「竹陰文稿」など

竹陰

槩印・公槩
五絶

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