佐羽淡齋(1772〜1825) | |||||
○【一】佐羽吉右衛門・・・・・【三】孫兵衛━━━【四】市郎兵衛━━━【五】清右衛門道覺 ━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┣【六】清右衛門道純━━┳【七】清右衛門竹翁 ┃ ┣━━岡島清三郎 ┃ ┣━━清五郎 ┃ ┣━━安之助 淡齋↓ ┃ ┗━━清助 蘭齋 ┗『一』吉右衛門道西───『二』吉右衛門芳 淡齋━━┳『三』吉右衛門 元澄竹香━┓ ┗━━(三女子) ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┏━順太郎 信齋 ┃ ┌──喜六 秋江 ┣━爲三郎━━━━━━━秀夫 ┣━慶次郎(夭) │ ┝━━━━━╋━武四郎 ┃ ┣━━女 ┣━福五郎 ┃ ┃ ┗━喜久 ┣『四』吉右衛門 秀━━┻『五』吉右衛門━━┳『六』興(東京麹町) ┃ 充 ┠─總太郎 未央庵(鎌倉) ┃ │ ┃ │ ┣━益 ┗━女 ┗━福(岡田邦救室) 佐羽淡齋(一七七二〜一八二五)、江戸時代後期の商人、漢詩人。 明和九年三月一〇日生まれ。上野(群馬県)の人。初代吉右衛門の養子となり、文化七年二代をつぎ絹仲買商を発展させ、上州三富豪の一つにそだてる。学をこのみ、漢詩をよくした。政八年七月四日死去。五十四歳。名は芳。幼名は安之助。字は蘭卿。号は淡斎。著作に「淡斎詩集」(kotobank )。 江戸三座を仕切るなど文化に財を注いだ。詩文は山本北山に学び、大窪詩佛とは同門。百詩碑樹立を志としたが十指に満たず早世。 佐羽家はもとは伊勢から来た家系で江戸以前文録四年(一五九五)には桐生に佐羽吉右衛門という絹仲買業者があり、佐羽家の遠祖らしい。佐羽家系図では初代孫兵衛、次が市郎兵衛、次が清右衛門道覚でこの人が元禄頃伊勢から来て初代清右衛門となり桐生に居を置いた。名主として新町を開発、坂井藩の代官となったため、二子の道西を分家してこちらに商売をまかせた吉右衛門家が成立した。 佐羽吉右衛門(初代、一七三七〜一八一六) 元文二年十一月二日生まれ。家は代々上野で絹仲買をいとなむ。明和二年独立、八同年吉右衛門を名のる。家業を拡大し桐生の富豪となり佐羽商店の基礎をきづいた。文化一三年六月二五日死去。八十歳。幼名は佐吉郎。号は道西。 吉右衛門家は二代目に本家道純の末子安之助を迎えて養子とした。すなわち二代目吉右衛門(淡齋)である。 淡齋が五十四歳で死去したのでその子三代目吉右衛門元澄(一八〇八〜一八六八)は一七歳で余儀なく家業を継いだ。幼名は慶次郎。父のために朝川善庵の元に赴き墓碑建立の相談をして『詩人淡齋』の題を得た。桐生機業界刷新のため織機を改良し、名手を募り、精巧かつ新奇な織物を織らせ、数年にして桐生を西陣に対抗しうるまでの大絹織物産地にした。天保年間(一八三〇〜四四)には足利、伊勢崎、江戸に出張店を設け、開港後は輸入綿糸を使って唐桟縞を織らせた。勤倹力行の人で、「常に赤色方嚢を腰にし、藁草履をはいて徒歩」し「赤どうがん」とあだ名されたが、困窮者への施しは惜しまなかった。両毛随一の買継商にしたのは、この三代吉右衛門であった。十山亭を廃止したのはこの人である。渡邊崋山との交流があった。明治元年死去。 明治に入ると四代目は選ばれて淨運寺にできた小学校の初代校長となった。佐羽商店は明治時代とともに海外との通商にも成功、四代目・五代目とその財力を伸ばした。また明治四年その財力をあてに岩倉使節団の随行員を拝し欧米に渡航。最新の機織りや状況を崋山譲りのスケッチで日本へ送っている。この時に伊藤博文や大久保利通ら親交を結び、のちには麹町の本宅から二頭立ての馬車で鹿鳴館通いもしたとのこと。 明治二十年、佐羽商店は他国の製品、特に南京繻子の輸入を防ぐ目的で日本織物株式会社を設立し、工場用水路などの建設を進めた。明治初めに国が建設した富岡製糸場の二倍強ととてつもない大工場で、明治二十三年事業を開始一時は南京繻子をしのぐなどの勢いがあった。また佐羽家は明治二十四年横浜に輸出店を出店したが、その後羽二重の海外価格の下落で通商先が代金不払いした影響と放漫経営のため、明治二十九年に倒産、両毛機業に深刻な打撃を与えた。日本織物株式会社も陣頭指揮をしていた佐羽喜六が明治三十三年中国出張中に不慮の事故死を遂げて、会社はわずか十二年で解散となった。 佐羽喜六(一八五八〜一九〇〇) 明治時代の実業家。 安政五年生まれ。吉右衛門(四代)の娘婿。桐生織物の改良につとめ、明治二〇年日本織物を創設、織姫繻子を生産した。明治三十三年四月一日出張の際に船が沈没し死去。四三歳。下野(栃木県)出身。旧姓は青木。名は喜禄。号は季卿、松斎。書家高橋二峰の門。また明治二十七年には佐羽淡齋の遺芳『淡齋百律』を出版している。喜六には順太郎・仲次郎・爲三郎・武四郎・福五郎・喜久の六子があったが、既に妻歌子とは離縁、東京向島の順太郎は三菱の岩崎弥太郎、爲三郎は国鉄総裁井上勝など各地に離散とのこと。桐生に戻った秀夫氏は爲三郎の子である。 麹町本家は興が六代目となるが、既に昔の佐羽吉商店の面影はない。妹婿の總太郎とともに『江之島詩碑(佐羽淡齋詩碑其一)』を再建した。再建碑の書丹は東京の書家加藤玉淵とて、興の従兄にあたる順太郎(号信齋)とは高橋五峰の同門である。 昭和十四年(一九三九)一月二十八・三十日に桐生市図書館楼上特別室において「佐羽淡齋翁遺績彰展覧會」が催され淡齋にかかわる九十二点の展覧があった。淡齋の末孫による主な出品は 佐羽順太郎(喜六の後) 拓本(墨多三絶、伊香保旧拓、日光、十山亭、竹香墓碑)など。詩書多数 佐羽爲三郎 本家古文書類 佐羽興 詩碑写真帖 であり、一部がそのまま図書館の収蔵となったようである。 |
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