乾清花苑  太白廡   略伝引得

 
〇大田自得━━━南畝━━(五代)━━南岳

 南畝 大田  蜀山人(1749〜1823)
 南畝は本姓を大田直次郎、名を覃、後七左衛門といい、寛延二年三月三日、江戸牛込御徒町(新宿区中野)に生まれた。曾祖父の代から御徒、七十俵五人扶持。南畝は八歳にして多賀谷常安について漢字の手ほどきを受け、十五歳の宝暦十三年(1763)に、江戸六歌仙の一人内山賀邸についた。この賀邸の門には岡田寒泉、小島源之助こと唐衣橘洲、山崎影基こと朱楽菅江といった御家人、漢学者立花東蒙、稲毛屋金右衛門こと平秩東作等々集まってきた。
 明和二年(1765)七月六日、十七歳になった南畝は父正智の跡を継いで御徒となる。一方 明和三年『明詩擢材』、明和四年『寝惚先生文集』を刊行。世にでて次々と洒落本を刊行した。
 天明の大飢饉より以降田沼政権も崩壊し、南畝や東作たちの後援者で、田沼一派の旗本であった土山宗次郎は、死刑に処せらる。これより、南畝は文芸界と絶縁して、ひたすら幕臣として恭順な日々を過ごした。寛政六年(1794)四十六歳のとき幕府の人材登用試験に白髪頭で受験。合格をきっかけに、昼は幕府の能吏、夜は悠々の世界に遊ぶ酒徒の、大いに令名を馳せたのである。天明の南畝、新たに享和の蜀山人として時代を代表する超一流の人物として、
亀田鵬斎、酒井抱一、谷文晁、大窪詩仏らとともに、この現世を大いに楽しんだ。
 「詩は詩仏、書は鵬斎に狂歌おれ、芸者小勝に料理八百善」と大言壮語し、意気軒昂だった蜀山人も年には勝てず、文政六年(1823)の歳旦の試筆に、「生きすぎて七十五年食い潰し 限り知られぬ天地の恩」と詠み、その年の四月六日に身罷る。
 
墓は白山の本念寺「南畝太田先生之墓」題字のみ(区史跡)。
 蜀山人には生前から公認の代筆者亀屋文宝・自称二代目蜀山人がいた。



南畝

歳寒詠 1792

詩箋(旧蔵) 花酒四古 「ツみ拭ふ」歌
なみのはつはな 臨風五絶
参考:
太田南畝              依田 學海
 太田覃、號南畝。幕府士人。好學善文章、旁作遊戲國歌。滑稽詼謔、雖村老野嫗、莫不絶倒。世所謂蜀山先生者也。
 家有老僕、曰逸助。質愨朴魯、南畝愛之。後授以本錢、營商自給。然逸助爲人迂鈍、動輙折閲。乃來乞哀、以爲常。
 一日、復欲有所言。南畝笑曰、汝得非循例請資乎。逸助曰、非也。奴家壁剥落。欲請敗紙糊補之。南畝、笑曰、甚易。手攫几上所在書幅付之。逸助拜謝而出、遇門人於途。門人見問之。逸助答曰、主人所賜敗紙耳。門人取視之、則文章詩歌、奇思横逸、皆平日所未見也。乃走告之、南畝曰、渠自有福。子等欲之、求於僕可也。門人爭就買之。後至者、或并壁上故紙取去。逸助因獲十餘金。
 未幾、資又盡。會盂蘭盆節、逸助傾嚢、造罩紙燈、往賣於市。不售。抵南畝求買。南畝曰、他物尚可矣、若紙燈何所用。逸助跪乞不已。南畝曰、且取紙燈來。逸助盡致之。凡百餘。南畝命磨墨、揮腕疾書、毎一燈題一詞。隨吐隨寫、如出宿構、頃刻而成。更作報單一通。文辭洒落、戲謔百出。命逸助致之諸友、副以紙燈。諸友傳觀、爭買之。尋常紙燈、直不過七八錢。以其出於南畝、昂五六十錢。遠近傳聞、至倍直購之。逸助亦獲利十餘金。
 時有善戲文字一九者、號十返舎。素不識南畝。聞其爲人、欲見之。抵其門、門者通謁。久而不出。一九罵曰、南畝不過一賤士、亦驕人耶。不見而去。後遇之外、謂南畝曰、先生何爲困我。答曰、吾子何爲弄我。一九恠問其故。曰、某聞子名久矣。幸而見訪。欲一快飲、而適乏酒資。園有一桐材、鬻之造屐匠、得數百錢。反求子則無矣。豈非弄我乎。一九不能詰。(譚海)

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