乾清花苑  太白廡  略伝引得

宮崎青谷(1811〜1866)
 文化8年生れ。名定憲、字士達、通称彌三郎。津藩士。幼い頃から学問を好み、斎藤拙堂に従って学び養正寮句読師となるが、その翌年に暇をもらい京都に遊び、猪飼敬所に従って経学を学び、頼山陽に文章を学んだ。その後江戸に出て昌平黌で一年間学び帰郷した。画は米村醉翁に学び、「出藍の誉れあり」と賞賛された。のちに藩主・藤堂家が所蔵していた王建章の画法を学んで一家をなし、名は一時にして高まった。斎藤拙堂が大和の月ケ瀬に遊んだ際には青谷らも従って行き、帰ってから著した拙堂の代表作である『月瀬記勝』には、青谷が描いた梅渓の図が掲載されている。慶應2年、56歳で死去した(UGA)。