乾清花苑  太白廡  略伝引得

益田家
 〇益田勤齋────遇所━━━━香遠
益田勤齋(1764〜1833)
 江戸中〜後期の篆刻家。明和元年生。名濤、字万頃、号は勤斎の他に雲遠・浄碧がある。通称重蔵。江戸の人。経学に通じ、書をよくし、書画骨董を愛玩し鑑識にも通じた。とりわけ篆刻に優れ、江戸中の名士・文人が勤斎の印を求めて列を成したという。高芙蓉の遺風を継いで秦漢の古印の法を守りながらも新味を交え独自の印風を確立した。二世浜村蔵六とともに「江戸の二名家」と称された。勤斎の清新で精緻な印風は子の益田遇所、門弟の曽根寸斎などに継承され、浄碧居派と呼ばれた。江戸下谷泉橋通に住んだ。天保4年 5月23日没。享年70。印譜に『浄碧居印譜』・『勤斎印存』がある。
益田遇所(1797〜1860)
 本姓は山口氏。益田家養子。寛政9年生、名粛、字士敬、遇所は号で別号に浄碧居がある。江戸の人。幼少から長橋東原について書を学び、また経学を好んだ。この頃、東嶺と号している。次に益田勤斎に入門し篆刻を学ぶ。勤斎門下で抜きんでて技量が優れていた。天保4年に勤斎が没するが、継嗣がなく親戚らが協議して遇所を養子とし跡を継がせた。盛名が高まり名士がこぞってその印を求めた。安政4年と安政6年には幕府の命を受けて印を刻し賞賜を授かる。門弟には中井敬所、子の香遠が家業を引き継いでいる。作風は高芙蓉の古体派であったが、独自の作風を加えて新味を出し、号に因んで浄碧居派と称している。常日ごろから『蘇氏印略』や『秦漢印存』などの印譜を範としていた。 安政7年3月16日没。


収古堂印譜書畫記
益田香遠(1836〜1921)
 江戸末〜大正の篆刻家。名前は重太郎、また厚。字士章。香遠のほか宜軒の号がある。遇所の子。天保7年生。幼い頃より父遇所の手ほどきを受け頭角を現した。開国により外国との条約締結を行う際に「国印」が必要になったことから、安政4年に香遠らに製作が命じられた。この国印は明治維新まで様々な外交文書に使用された。明治になると太政官の官印師に指定され、様々な公印を作成した。特に日本銀行券の「総裁之印」「発券局長」の印章は平成期の紙幣にも使用されており、最も知られたものである。大正10年歿。
 歴代の墓所は向丘淨心寺。