頼家 |
頼家先祖は代々小早川家に仕えて三原に住んでいた。慶長2年(1603)小早川隆景が没する時、正茂は三原付近の頼兼(よりかね)に退き、その後竹原に移住、屋号を頼兼屋と称し海運業を営んだ。竹原頼家第一世である。
○頼正茂━━道喜━━良皓善祐━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━┛ 淳子
┃ 広島藩儒 ┝━━━━C聿庵元協━━━D誠軒━┓
┃ ┏@春水惟寛━━┳A山陽襄 ┏━辰蔵(夭) ┏━━━┛
┃ ┃ ┃ ┝━━━╋━支峯復
┗・・・・惟勤
┃ ┃ ┃ 梨影 ┃
┃ ┃
┣━三穂於計 ┗━鴨崖三樹三郎醇
┃ ┃ ┠─B元鼎
┃竹原頼家四世 ┃ ┗━大二郎
┣━亨翁惟清━━╋━春風惟彊━━┯━元鼎↑
┃ ┃ └─小園━━━━━來州・・・・・・・・・・・・・・桃三郎
┣━惟忠 ┗━杏坪惟柔━━━━采眞舜壽
┗━融厳惟宣━━━━養堂公遷━━┳━立斎綱
┣━信子
┗━霞亭立石 |
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頼春水(1746〜1816)
江戸中・後期の儒者。延享3年6月30日生。妻は頼静子。頼山陽の父。片山北海の漢詩結社混沌社で名をあげ、大坂に私塾青山社をひらく。天明元年安芸広島藩の儒官となり、学問所の教育を朱子学に統一。江戸勤務中に昌平黌の講師をつとめる。弟の頼杏坪と「芸備孝義伝」を編集。文化13年2月19日死去。71歳。安芸出身。名は惟寛、惟完。字千秋、伯栗。通称は弥太郎。別号に霞崖、拙巣、和亭。
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頼山陽(1781〜1832)
江戸後期の儒者。安永9年12月27日生。頼春水の長男。母は頼静子。江戸で尾藤二洲らにまなぶ。21歳で安芸広島を出奔、脱藩の罪で自宅幽閉となる。赦免ののち、京都で開塾。詩、書に才能を発揮。幽閉中に起稿した「日本外史」は、幕末の尊攘派につよい影響をあたえた。天保3年9月23日死去。53歳。大坂出身。名は襄(のぼる)。字子成。通称は久太郎。別号に三十六峰外史。著作はほかに「日本楽府」など。 |
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頼支峯(1823〜1889) 頼山陽の第二子。後妻梨影の初生子として京で生まれた。名は復、字士剛、又二郎と称し、支峯はその号である。
山陽死没のときは10歳。その後、一時広島の長兄聿庵に育てられたが、やがて江戸へ遊学し、門田朴斎・関藤藤陰の庇護を受けた。
帰洛後、父の後を継いで家塾を開いた。明治維新の際、車駕東幸にあたってこれに扈従、上京して大学二等教授に任ぜられ、明治2年(1869年・47歳)には大学少博士、間もなく辞職して京都に帰り、悠々自適の老後を送り、明治22年(1889年)、67歳で没した
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頼三樹三郎(1825〜1859)
幕末の儒者。文政8年5月26日生まれ。頼山陽の3男。大坂、江戸に遊学し、嘉永2年郷里の京都にもどり家塾をつぐ。梁川星巌、梅田雲浜らと尊攘(運動にはしり、将軍継嗣問題では一橋慶喜の擁立をはかる。安政の大獄で捕らえられ、安政6年10月7日処刑された。35歳。名醇。字子(士)春。号鴨香B |
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頼小園
竹原頼家春風の養子。広島の頼家では山陽を廃嫡したため春水の嗣子がいなくなったことから、春風の長子頼元鼎(景譲)を春水の養嗣とした。春風の相続者は、長女・唯子に婿養子として花山文台の子を迎え養嗣とした。これが頼小園である。名彝、字秉束。 |
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頼立齋(1803〜1863)
江戸後期の儒者。享和3年生。頼養堂の子。安芸の人。京都で細川林谷に篆刻をまなび一家をなす。のち又従兄の頼山陽に詩文をまなんだ。文久3年7月13日死去。61歳。名綱。字士常。通称は常太郎。 |
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頼綱 |
春雨訪友 |
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