芳野 | |||||
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金陵 芳野世育(1802〜1878) 字叔果、通称愿三郎、金陵はその号。下総の人。亀田鵬斎に学び昌平黌教授となる。亀田鵬斎の子綾瀬に師事。浅草に塾を開いたが、のち駿河田中藩主本多侯に仕えて、藩政改革に携わり、多くの功績があった。米艦が来航したときには、海防を論じて幕府の違勅をただそうとしたり、公武合体の議が成って将軍が上洛するに際しては、山陵の修復や皇族の薙髪禁止を建議したりして、憂国の士として尊王の志を明らかにした。 文久2年(1862年)に昌平黌教授に迎えられ、ついで博士となる。安井息軒、塩谷宕陰とともに文久三博士と称される。 維新後は明治政府に仕えて昌平学校(東京大学の前身)の教授となったが、明治3年の廃校とともに免官、晩年は後進の指導に専念した。明治11年、77歳で没。子に芳野桜陰(新一郎)がいる。金陵文抄2巻、金陵遺稿10巻あり。 墓は、天王寺墓地 |
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