巌谷家 | ||||||||
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巌谷一六(1834〜1905) 明治の政治家・書家。名は修。一六は号、天保5生。近江水口藩士。家は代々水口藩の待治。16歳の時、京都へ至り、医術を学び、帰藩後藩儒の中村栗園に儒学を学ぶ。明治維新後は、召されて総裁局主管試補に任じられ、間もなく本官となり、更にその後は、内閣書記官・元老院議官。帝国制度取調委員に任じ、終に明治24年、貴族院議員に勅選される。書は初め巻菱湖に書風を学び、明治13年、楊守敬の来朝時に教えを受けて後、一六流をなした。同38年7月11日病没。享年71歳。 明治七年、日下部鳴鶴37歳のとき巌谷一六の第二子辨二郎を養子とした。 書丹碑多し。 |
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巌谷小波(1870〜1933) 明治〜昭和前期の児童文学作家、小説家。明治3年6月6日生まれ。巌谷一六の3男。硯友社にはいり、小説「妹背貝などをかく。明治24年おとぎ話「こがね丸」が好評を得、以後童話に専念。「少年世界」編集長をつとめ、「日本昔噺」「世界お伽噺」などをまとめる。口演童話もはじめた。昭和8年9月5日死去。64歳。東京出身。本名は季雄。筆名は別に大江小波。 |
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