古義堂 | |||||||||
江戸前期に伊藤仁斎が京都に開いた私塾。1662年、仁斎が京都の東堀川通りの私邸で私塾を開き、古義学派の中核的教育機関とした。理念的に、幕府御用の朱子学派を批判。その子東涯のとき最盛期を迎え、古義堂の名はいっそう広まった。明治初年まで存続した。
火災のため、明治27年再建。名称は仁斎の号に由来。堀川塾。堀川学校(wiki)。 |
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〇道慶━━━了雪───了慶━━━了室━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃古義堂 ┣@仁齋━━┳A東涯━━B東所━┳C東里 ┏蘭溪 ┃ ┃ ┗D東峰━┻E輶軒───琢彌 ┃ ┃福山藩儒┏A霞臺 ┃ ┣@梅宇━┻B蘭畹━━C竹坡━┰D蘆汀━━━E青藍 ┃ ┣━介亭↓ ┗F蘆岸━━━G竹塘━━┳顧也 ┃ ┣━竹里━━━惟城 ┗琢彌↑ ┃ ┗━蘭嵎───海嶠 ┗━進齋━━━━介亭 「堺市史」「鴎外文庫」伊藤系図などより作成 |
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伊藤仁齋(1627〜1705) 江戸中期の儒者。古義学派の創始者。京都生。名は維驕A字は源佐、初号は敬斎。初め朱子学に心酔したが、やがて疑義を抱いて孔孟の古義に溯る、いわゆる古義学に到達した。宝永2年歿、79才。 |
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伊藤東涯(1670〜1736) 江戸中期の儒者。京都生。伊藤仁斎の長男。名は長胤・源蔵、別号を慥々斎。父に儒学を学び、その学を継承して堀川学風を大成する。新井白石・荻生徂徠らと親交が篤く、また奥田士享・篠崎東海ら多くの子弟を育成する。著書は『古学指要』『弁疑録』『古今学変』等がある。元文元年歿、67才。 |
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伊藤梅宇(1683〜1745) 江戸中期の儒学者。名は長英。字は重蔵。伊藤仁斎の次子。東涯の異母弟にあたる。歴史や有職故実に精通した。享保三年より福山藩に儒臣として仕え祭祀と共に移住。隣著「見聞談叢」「講学日記」など |
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伊藤介亭(1686〜1772) 江戸中期の儒者。貞享2年12月10日生。伊藤仁斎の3男。父や異母兄の伊藤東涯にまなぶ。叔父伊藤進斎の家をつぐ。享保11年摂津高槻藩主永井直期にまねかれ儒官となる。書にもすぐれた。明和9年10月24日死去。88歳。京都出身。名長衡。字正蔵。別号謙々斎。著「介亭詩稿」など。 |
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伊藤竹里(1692〜1756) 江戸中期の儒者。元禄5年生。伊藤仁斎の4男。異母兄の伊藤東涯にまなぶ。享保8年筑後)久留米藩主有馬則維につかえる。のち世子頼徸の侍読をつとめ、江戸の藩邸でおしえた。宝暦6年9月11日死去。65歳。京都出身。名長準。字平蔵。著「赤羽漫筆」など。 |
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伊藤蘭嵎(1694〜1778) 江戸中期の儒者。元禄7年5月1日生。伊藤仁斎の5男。長兄の東涯にまなび、享保16年紀伊和歌山藩の儒官となる。東涯の遺児東所を養育し、家塾古義堂をささえる。父とことなり五経を重視して新解釈をうちだした。安永7年3月27日死去。85歳。京都出身。名は長堅。字才蔵。著作に「書反正」「詩経古言」など。 |
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伊藤蘭溪(1845〜1872)早世 名重遠、字亀之助、別号清嘯軒。東峯男、東所の孫、父に就き科学を学ぶ、著に「隋得雑録」「清嘯軒詩抄」など |
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伊藤顧也(1856〜1934) 仁斎から数えて7世、福山伊藤家。字良正、号梅塘。弟の琢弥は京都の宗家を継いで明治33年歿し、その兄の顧也は幼姪の後見をしていた。妻磯氏は大正3年没。昭和9年一月24没、79歳。 |
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