広瀬家 | ||||||||||||||||
広瀬家は日田の豪商で初代五左衛門が博多から移住したため後に「博多屋」という。四代の「平八」は竹田、府内、杵築藩の御用達を勤めるようになった。 廣瀬平八は俳句をたしなみ「秋風庵」と号した。家督も弟の三郎右衛門に譲り、風雅の道に入る。咸宜園址に残る茅葺の家屋は平八の建てたもの。甥の淡窓を養育した。 |
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廣瀬淡窓(1782〜1856) 天明二年生まれ。江戸時代の儒者、詩人。名は簡・建、通称寅之助、求馬、字は廉卿、子基、号は淡窓・青溪、苓陽、遠思楼主人など。博多屋の長男。 身弱で家業は弟に譲り、専ら学問の道を目指す。16歳で筑前の亀井塾に入門。その後、健康にすぐれず日田に帰る。文化二年、長n寢w寮に私塾を開く。後、桂林園(荘)へ移る。文化十四年堀田村に咸宜園を開いて移る。塾生は全国各地から集まり、多い年には200人近くいた。安政二年塾を養子の「村」(邨)に任せた。翌三年没 |
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青邨 広瀬範(1819〜1884) 儒者。淡窓の養子。豊前国下毛郡土田村の矢野徳四郎の二男。名は範、字は世叔、号を青邨と称し、十五歳で広瀬淡窓の咸宜園に入塾。二十歳で園の都講となり、淡窓の養子となって第三代塾主を務め、明治十年に東京に東宜園を開塾した。 |
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廣瀬旭荘(1807〜1863) 江戸後期の儒者。文化4年5月17日生。広瀬淡窓の弟。亀井昭陽、菅茶山らにまなぶ。兄の私塾咸宜園を運営したのち各地を歴遊。文久元年帰郷して雪来館を創立するが、翌年摂津池田に移住した。漢詩人としても著名。文久3年8月17日死去。57歳。豊後日田出身。名譲。字吉甫。通称は謙吉。初号秋村。別号に梅墩。著作に「梅墩詩鈔」「追思録」など。 (名譲初号秋村は森琴石.comによる。各伝に名謙とあるのは改名か錯誤かは不明。) |
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