<楽楽・神戸>練習風景
- 7月21日(金)百済王家そしてマンドリン
- 雅楽と言えば東儀秀樹さんが活躍されています。
雅楽の楽器で「ひちりき」という笛があるのですが、それを得意とされています。
但し、この人は宮内庁の中で鼓やチェロも担当されているようです。
東儀さんは、洋楽(クラシック)やロックなどにも通じているようです。
この人の「雅楽 天・地・空〜千年の悠雅」というCDを聞きました。
このアルバムの中に「越天楽」や「蘭陵王」が含まれて居ます。
CDの解説によれば、「蘭陵王」は唐楽で「林邑の僧の仏哲によって唐招提寺に伝えられたと書いてあります。
「越天楽」の方も唐楽です。
漢の文帝(前180〜前157)が作曲したという説もあり、日本人が作曲したという説もあるそうです。
「越天楽」の旋律はよく知られた旋律で、神前の結婚式の時に流れる曲です。
「蘭陵王」は舞があるので「舞曲」ですが、
「越天楽」は合奏だけの曲なので「管弦」と呼ばれています。
「越天楽」に歌詞をつけた「越天楽今様」は小学校の音楽の本に掲載されています。
民謡の黒田節のメロディが「越天楽」のメロディを元にしています。
この「越天楽」の場合は、漢の文帝が作曲したという説が正しければ中国の歌ですが、日本人が作曲したのであれば、日本の歌です。
もし漢の文帝が作曲したにせよ、黒田節の元になった曲なので「日本的な曲である」と言っても間違いでもないような気もします。
ちょっと難しいですね。
このCDに収録されている「陪ろ」(ろは、櫨の左側の木を月に置き換えた字)という曲があります。
天平八年(736年)にインドの僧菩提せん那(せんは、遷のシンニュウを取って代わりに左側に人偏を付けた字)と林邑の僧仏哲によって唐招提寺に伝えられたそうです。
唐招提寺では、4月8日の仏誕会(陪ろ会・・・ばいろかい、べろえ)には、必ずこの曲が演奏されるそうです。
さらに東大寺の大仏開眼の時に演奏されたのがこの曲だそうです。
続日本紀には曲目までは書いていませんでしたが、他の古い書物か、或いは宮中の言い伝えではそうなっているのでしょう。
「蘭陵王」では、日本に済みついた百済王家が百済楽を伝えていたという話をしましたが、その後、さらに続日本紀を読みますと次のような記事がありました。
桓武天皇の時の記事(延暦十年(791年)十月十二日条)に右大臣藤原継縄が百済王氏らを率いて天皇の為に百済の楽を縁会を演奏させた、とあります。
もう百済が滅びて131年にもなるのに、日本の中で未だ百済王家の人々は百済楽を伝えていたのです。
続日本紀の記事は延暦十年で終わりです。ですから、この後、何年ぐらいまで百済王家がそういうことをやっていたのかは私には分かりません。
桓武天皇のお母さんは高野新笠で光仁天皇の奥さんです。
この高野新笠は父方が百済王家で百済の武寧王の血筋だそうです。
高野新笠の母は土師宿禰真妹です。
桓武天皇は母方の土師宿禰に大枝(おおえ)朝臣という名前を与えます。
元は堺の百舌鳥に住んでいた土師一族が京都の大枝付近へ移住して大枝朝臣という名前になったのです。
又、奈良の西大寺の北の方の秋篠付近の土師氏は秋篠という姓に、菅原(西大寺と薬師寺の間)の土師氏は菅原という姓になります。
この菅原からまもなく菅原道真が颯爽とあらわれて悲劇の主人公になります。
<楽楽・神戸>のKさんの実家は大枝氏系なので昔は百済王家とも皇室とも親戚であり、菅原道真とも同じ一族だった大変な名家だったのです。
そう云われて見ればちょっと高貴な感じが・・・・。
百済王家は、そのように日本の豪族、皇室とも婚姻関係を結び、一族から何人もの国司を出して日本の中枢で大きな位置を占めていたのです。
そして百済楽を演奏しつづけたのです。
他の新羅や高句麗、渤海、林邑などは、どの程度、日本の国内でそれらの国の人々が演奏し続けたのかは不明です。
さて、我々が取り組んでいるマンドリンの場合は、日本に伝えたのが比留間賢八氏です。
イタリア王家からは誰も来ていません。
最初から日本人がマンドリンを弾き、作曲もしました。
それで100年あまり経ったしまったのです。
ひょっとすると雅楽よりも日本的になったのかも知れません。
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