<楽楽・神戸>練習風景


7月5日(水)「蘭陵王」
 
 雅楽というのは一般的には日本の伝統音楽だとされています。
 しかし、日本人の我々でさえ、雅楽はめったに聴く機会はありません。
 宮中で伝えられている宮廷音楽であるからでしょう。
 そして、長い年月、宮中で伝えられたからこそ、日本の伝統音楽とされているのでしょう。
 ただ、我々の身近な歌謡曲や民謡とは異なって、日常生活では殆ど聞く機会はないものです。
 ハレの音楽、つまり儀式用の音楽という性格を持っています。

 雅楽は、合奏と言う形態では世界最古であるそうです。
 昔、日本に伝わってきた唐楽、三楽、林邑楽などが元になって雅楽として伝えられているものです。
 唐楽は中国から伝わった音楽です。
 三楽とは、高句麗、百済、新羅から伝わった音楽です。
 林邑楽とは、林邑(りんゆう)つまりヴェトナムの音楽です。
 其々、器楽曲だけではなく、踊りも一緒に伝えられたのです。

 続日本紀を見ると聖武天皇天平三年(731年)七月二十九日条に雅楽を演奏する楽生と呼ばれる人の 定員と採用基準を示した記事があります。
 大伴旅人が亡くなって四日後の次に出てくる記事です。
 それによると大唐楽は日本人でも外国人でも良いが、高麗楽、百済楽、新羅楽は其々の国の人を採用 するように、と書かれています。
 ですから、高句麗人、百済人、新羅人を採用するのです。
 高句麗は668年に滅び、百済は660年に滅びているのに不思議ですね。
 もう少しページをめくると、天平十六年(744年)二月二十二日条 百済王が百済楽を奉納したと いう記事があります。
 聖武天皇は4人の百済王に褒美に位を昇格してやります。
 いづれも国司クラスです。
 これらの百済王とは、日本にいた百済王の一族です。
 そういう人々が百済楽を上演していたことがわかります。
 ですから、日本人が演奏するのではなく、百済から亡命した人々が演奏を続けていた時代があったのです。
 つまり、百済の音楽がそのまま日本で演奏され続けられていたのです。
 さらに数年後には、東大寺の大仏に金メッキをする為の金が東北で見つかったという記事があります。

 天平勝宝元年(749年)の聖武天皇の詔勅の記事は重要です。
 陸奥国の国司である百済王敬福が金を見つけたので聖武天皇は喜んで詔勅を出したのです。
 その中で「海ゆかば・・・」の原型の歌も出てきます。
 大伴家に伝わる歌です。これを聞いて感激した大伴家持が最後の部分の「のどには死なじ」を「かえりみはせじ」と歌い上げます。万葉集に収録されています。
 歴史に残る絶唱ですね。
 それは1200年近くの時を経て太平洋戦争でしきりに詠われます。
 そして亡くなった人々は靖国神社へ。
 そして今なお、靖国の問題は続いているということで現代史にまで繋がります。
 さて、大仏が出来ると聖武天皇は東大寺に大勢の人々を集めて儀式を行います。
 同じ年の12月、宇佐八幡の神様が大仏建立を応援にきます。
 奈良の都では神様を泊める宿屋がないと大騒ぎです。実は仏教が国家挙げての一大プロジェクトによって画期的な時代を迎えつつあるので、神道が尻馬に乗ろうとしたのです。
 十二月二十七日に宇佐八幡の神様は東大寺におまいりします。
 実は女性の神主さんが来ただけなのですが、宇佐八幡の神が来たのだと主張するのです。
 それで聖武天皇も東大寺にお参りします。
 この時に東大寺で雅楽をしたと記載されています。
 その時に渤海楽も演奏されたと書いてあります。
 ですから雅楽には渤海の音楽も加わっていたことがわかります。

 所で、皆さんは雅楽を本当に聞いたことがありますか?
 雅楽を聴いた方は少ないのではないでしょうか。
 代表曲は越天楽、蘭陵王などです。

 「蘭陵王」という題名の三島由紀夫の小説があります。
 自決する前の短編小説としては最後のものです。
 非常に神秘的な内容の印象深い小説です。
 恐らく三島由紀夫は日本の伝統音楽の神髄として「蘭陵王」を理解していたのだと思われます。
 蘭陵王の写真が次の所にあります。
  http://www.ne.jp/asahi/alkemist/s/ta/t039.htm
 私は「蘭陵王」を聞いたことがあります。
 あるパーティでの特別な演奏だったので、目の前で見て聞くことができました。
 本当に幸運でした。
 その印象は、これは外国の音楽だという印象です。
 やはり、中国や朝鮮の音楽をそのまま日本で保存してきたものではないか、と思ったのです。
 ですから、「蘭陵王」から私の受けた印象は三島由紀夫とはまるで異なったものです。
 もっとも、私は三島由紀夫の文章は好きですから、「蘭陵王」という小説の評価が変わることはありません。

 さて、雅楽は古代のものが、そのまま保存されてきたのでしょうか?
 実は応仁の乱の時に京都が荒れ果て、天皇は勿論、お公家さん達も苦惨をなめた時期があります。
 約百年あまり、雅楽が途絶えたと言われています。
 しかし、現在でも雅楽では16世紀以前の日本語の発音の特徴が伝えられているそうです。
 又、敦煌で発見された琵琶の楽譜は、雅楽で使われている琵琶の楽譜と類似しているそうです。
 そういうことから古い時代のものが忠実に伝えられているという面もあるようです。
 各国の音楽を元に日本で独自の雅楽にしたという面もあるでしょうが、古いままの部分も残っているようです。
 すると、私が日本的なものというより渡来してきた音楽と感じたのは間違いとは言えないと思います。
 ただ、アジアの古い音楽ではないか、という表現をすれば、正にそのとおりだと思います。

 最後に付け加えれば、ベトナム戦争の後、アメリカとベトナムは和解しました。
 日本もベトナムと和解しました。
 其の時、日本とベトナムが記念の儀式をした時に雅楽が演奏されたそうです。
 我が恩師が「ベトナムの古い時代、林邑と称していた頃の音楽が日本に伝えられた。日本では他に唐や新羅、百済、 高句麗、渤海などの国々から伝わった音楽を大切に伝えてきたのです。今日演奏する雅楽の中にベトナムの古い時代 の音楽が伝えられています。雅楽は日本とべトナムの友好の証です。」
 という意味の解説をしたと聞いています。

 参考文献
  続日本紀 講談社学術文庫
  Wikipediaの「雅楽」の項




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