山帰来6
我に返れば、いつの間にか人気のなくなっている部屋の中は薄暗くなり始めていた。そろそろ灯りの用意も必要な夕刻だった。‥そして、人としての自分も交代の時間が迫りつつある。
現ではない夢の中の雨の所為で、すっかり冷え切った身体にも段々と体温が戻りつつあった。掌のあたりから、じんわりと熱が上がってくる。‥それにしても此の一連の夢は明らかに危うさを含んでいると少年は思った。気を張っていないと、あっと言う間に引きずり込まれ、本来の自分を見失ってしまう。‥鴉天狗の推測通りに、これが祖母から得た能力ならば、この能力を操っていた祖母は凄い人物だったのかもしれない。我を忘れ、客観性を失った癒しなど、癒しとは言えないから。‥癒すどころか、怪しい罠に落ちてしまう弱さを持つだけに過ぎなくなってしまうと思う。
--もし、手を引かれなければ、もし手を握ってもらえなければ、最悪、目を覚まさなかった可能性もあった。リクオは自分を夢から引き戻した温もりを探して、静かに手元を見る。大きく武骨な掌が、自分の手を包み込んでいた。そして、そのまま、ゆっくりと視線を上げていく。上掛けの下で続いている腕。その上部で、ほんの少し覗いている肩。首と顔。更に少年は、その表情を窺う。
「‥鴆くん?」
視線を向けた先では、萌黄色の瞳が、ぼんやりと宙を眺めている。半分開いた酷く重たげな瞼。
「‥ボクだよ、聞こえる?」
少年は、男を驚かすことのないように、なるべく穏やかに呼びかける。すると、薄い瞼が一度閉じられ、また静かに開いた。
確かな掌の温もりを求めて、リクオはそっと手を握る。すると、それに答えるかのように大きな手がリクオの掌を包み込むように握り返して来たのだった。少年の胸が淡い期待で膨らむ。
「‥鴆くん。」
更なる呼びかけに鶸色の瞳が何かを探し求めて、虚ろに動く。
少年は身を乗り出して、男の表情を覗き込んだ。
「‥ボクだよ。わかる?ここにいるよ。」
薬鴆堂に着いたばかりの頃は体温が低かった男の掌には、確かに温もりが戻りつつあった。弟子たちが、懸命に復温による回復に努めた結果が、漸く現れたのだろう。
少年は空いている方の手を伸ばして男の頬に触れた。‥温かい。その温もりに胸を撫で下す。
男の視線は、暗闇を覗き見るかの如く焦点が定まっていないが、その瞳は少年の輪郭をおぼろげながらも捉えているようだった。
「誰か呼んでくる。鴆くん、ちょっと待っていて。」
慌てて立ち上がろうとする少年の手を男が引く。リクオはバランスを崩して、再び座り込んだ。
「‥鴆くん、大丈夫だから。人を呼んでくるだけだから。そんなに、しっかり掴まれていちゃ、立てないよ。」
だが、男は手の力を緩める気はないようだった。病人のはずなのに、痛いくらい力が強い。
「‥鴆くん?」
答えようとするかのように、男の唇が微かに動くのがわかる。
「‥何?どうしたの?大丈夫だよ。」
そういえば、幼い頃、流感で高熱をだし、鴆が本家専属の薬師であった父親の先代の鴆とリクオのところへ来たことがあった。既に鴆毒に骨の髄まで侵され病で臥せがちであった先代の手伝いをしながら、懸命にリクオの看病をしてくれたものだった。熱に魘されながら目を覚ますと、傍らには鴆がいた。そっと差し出された温かい薬湯。自分が目を覚ますまで、傍にいてくれたのだと、幼心に嬉しかったものだ。病の時は、元気な時と違って、気持ちが弱くなってしまっていることも多い。しかも、当時、自分は父を亡くしたばかりだった。深い悲しみに包まれた本家で、幼かった自分は、どう振る舞ったらよいのか分らず、ただ明るく元気な子供を演じていたのだった。失望の中で希望を見出したい本家では、それがリクオの健気な演技だとは気付く者は殆どいなかった。その中で鴆はリクオの状態に気付いた数少ない者の一人だった。既に父親が薬師一派の頭領としての天命が終わろうとしている事を感じ、気丈に振る舞っていた鴆は、リクオの心情を汲み取ることが出来たのだろう。
「リ‥クオ。」
殆ど発音のない声だったが、リクオには、微かに動く唇を読むだけで、鴆が自分を呼んでいることが分かった。
少年は、掴まれていない側の手を男の顔の横について、自分の唇を男の耳元に寄せる。
「‥鴆くん、大丈夫だから。‥多分、覚えてないんだろうけど、鴆くん、倒れたんだよ。だから、大慌てて此処へ来たんだ。今、薬師の組員さんを呼んでくるから待っていてくれる?すぐ戻るから。それと灯りも貰ってくるね。」
‥リクオは、出来るだけ早く薬師を呼びに行きたかった。無事、鴆が目を覚ましたからと言って、助かるかどうかは、自分にはわからない。一刻も早く治療を受けてもらいたいたかった。それが自分にできる、せめてもの看病だから。此処にいる総大将の自分は、出入りや抗争では豪胆無比に挑めても、病の鴆を救う術など、一つも持ち合わせてはいない。
男の掌の力が緩んだ。少年は、そっと男の手を解き、立ち上がる。男を振り返りながらも、少年は大慌てで部屋を出て廊下を走って行った。
****
「‥申し訳ありません、三代目。薬鴆堂の方に怪我の急患が来たものですから、席を外しておりました。」
薬湯の入った器を乗せた盆を持って部屋に入ってきた組員でもある薬師が、三代目のリクオに非礼を詫びる。
「‥気にすることはねぇさ。それにしても、どっかで大立ち回りがあったみたいだな。」
リクオは、既に夜の姿へ変貌を遂げており、眼鏡を取って袂へ入れ、さらに着物の襟の合わせに手を押し込むと緩めて着崩している。その予想外の姿に弟子が目を瞠った。人間の時の三代目は、笑顔の優しい礼儀正しい少年で、姿勢も崩さず、大人しく真面目そうな総大将だった。
「‥てめぇ、何、オレのこと、じろじろ見てんだ。この姿が珍しいのかよ。夜来るときは、表へは顔ださねぇことも多いからな。何処でもそうなんだが、なんか夜の姿で顔出すとよ、『総大将、総大将、』って、昼間と態度が違ってて、面倒くせぇんだよな。人間のオレの方をを軽く見てんだろうけどよ。言っとくが、同一人物だからな。いちいち態度変えるんじゃねぇぞ。」
「‥も、申し訳ありません」
弟子が慌てて頭を下げた。
「それより、その喧嘩、助っ人はいらねぇのか。総大将は組の縄張りは守らねぇとな。」
「い、いえ、しょっちゅう薬鴆堂に来る常連です。気の荒い連中ばかりの組でして、止めておけばいいのに、すぐ下らない喧嘩に持ち込んで、いつも怪我人を出す組なんです。‥以前、頭領が叱ったんですが、結局、喧嘩して此処へ来るんですよね。」
「‥薬師ってのも、いろいろと大変だな。」
気遣う言葉を、リクオは弟子に掛ける。
「‥我々は薬師。手前どもの事より、仕事を優先するよう、頭領より申し付かっています。‥そのような状況ですから、肝心の組長の方は後回しになってしまい、申し訳ございません。」
そういって、病の床の鴆を見た。リクオも男を見る。男の顎が微かにうなずいているような気がした。
「兎も角、用意しました薬湯を飲ませましょう。鴆一族の方技書と経方の治則に従って、急いで去毒を行います。」
と、説明をしながら盆から薬呑の器を手に取る。その様子を見ていたリクオが顎をしゃくった。
「…おい、それを貸せ。オレがする。いつも本家は診てもらってばかりだからな。こんな時ぐれぇ、手伝うぜ。」
「‥はぁ‥。」
本家で傅かれてきた三代目は人の世話をした経験など無い筈だし、ましてや医術の心得も看護術の心得もない。だが戸惑う組員を尻目に、リクオは少々強引に薬呑の道具を取り上げる。そして、鴆の褥の傍らに、胡坐を組んで座り込むと病の鳥妖に話しかけた。
「おい、鴆。大事な薬らしいぜ。ほら呑めよ。」
すると、鳥妖の男の唇が震えるように動いた。
「‥あぁ?何だ?」
手を止めたリクオが男を見る。
「‥何が起きたか、やっぱ、わかってねぇのか。さっき言ったのによ。全く頭いい癖に‥しょうがねぇな。」
リクオは背を屈めて男の耳元へ唇を寄せた。
「‥あのな、おめぇ、一昨日、離れでぶっ倒れていたんだぜ。暫く意識が戻んなくてよ、本家に連絡が来て、大騒ぎだ。わかったか?」
隣で弟子の薬師が呆気にとられたようにリクオを眺めている。
「三代目は組長が何を言っていらっしゃるのか、分るのですか?」
「‥あ?わかるぜ。大体ならな。先ずはオレを見て驚いてやがる。ま、そうだろうよ。あの日から、ぷっつり此処へ来なかったからな。」
「‥あの日‥ですか?」
訝しそうな表情の組員でもある弟子に、リクオは顔の前で手を振った。
「‥ああ、こっちの話だ。おめぇらが気にすることかじゃないさ。」
話が終わるか、終わらないかの内に、さっさと薬呑陶器の吸い口を、横たわったままの病の鴆の口元へ、大雑把に押し込もうとしたリクオを、組員が慌てて引き止める。
「さ、三代目!そ、そんな角度で入れてはいけません!まだ、頭領は鴆毒で全身が痺れていて、上手く飲むことが難しい状態なんです。もっと、そっと、緩やかに薬湯を与えないと‥。」
「そ、そうか‥。悪かった‥。本家じゃ、人の世話とか、殆どしたことなくてよ。‥考えてみりゃ、世話されてばっかりだもんな。‥それより、薬鴆堂の方の怪我人共の手当てまだ終わってねぇんだろ。ここはオレが何とか薬呑ませておくから、戻ってもらって構わねぇ。」
そう言いながら、三代目も今度は反省したのか、鴆の口元へ注ぎ口をそっと含ませる様子に、弟子も安心したらしかった。
「‥では、申し訳ありませんが薬鴆堂の方へ戻らせていただきます。何かあればすぐご連絡を。あと、鴉天狗様が急患の来た薬鴆堂の方の手伝いをしてくださっているのですが、戻っていただけますようお話しいたします。」
「‥いや、鴉天狗には休んでもらってくれ。いろいろと疲れただろうしな。」
「承知しました。鴉天狗様には休んでいただきましょう。」
と答えて、組員でもある弟子が部屋を辞し、廊下から部屋の中を振り返ると、三代目は既に背を向けて不器用ながらも頭領の看病に専念し始めており、退室の挨拶をしても、もう弟子の声は耳に入っていないようだった。
****
リクオは、一旦、薬呑みを盆の上へ置き、懐へ手を入れる。そして身だしなみに気を付ける昼の自分なら必ず持ってきているであろうはずのハンカチを探して取り出した。昼の自分は、なかなか優等生だぜ、と悠長なことを思いながらも、上手く薬湯を服することすらできない鴆の様子に、今更ではあるが酷く動揺していた。
--正直、こんなに弱っている鴆を見たのは初めてだった。幼いころから知っている年上の鴆は、難しい書物を読み熟すほど頭が良くて、頼れる兄のようでもあった。
「おい鴆、薬湯。」
リクオは、再び薬湯の飲み器を手に取ると男を見る。そして吸い口を口元に当ててやると、鴆が、一瞬、困惑しているのが見て取れた。薬師でもあり年長の鴆は、腕力では敵わぬとも年下のリクオの世話を焼くのを当然の事として振る舞ってきた。‥反対の立場など想像したこともないのかもしれない。
「‥あのな、オレの大きな出入りが近けぇからな。さっさと良くなって貰わねぇと、怪我するなとか、前へ出るなとか、本家の連中が煩ぇんだよ。」
ぶっきら棒な声をリクオが出す。‥すると薬師の鴆が、困ったように笑みを浮かべたような気がした。
リクオは気を取り直すと、取り出したハンカチを痺れが残っているであろう鴆の口元に宛がってやりながら、薬湯をゆっくりと飲ませていく。毒を身に持つ鴆一族の宿命の知識はあり、頭では理解していたつもりだったのに、実際は想像もしたことのない光景だった。
--危険な出入りに出かける自分は診てもらう存在。そして手当てしてもらう立場。‥そう思い込んでいたと思う。
時間を掛けて、薬を飲み終わらせると口元を丁寧に拭ってやり、指先で短い萌黄色の髪を整えてやる。そして、上掛けの上半分を捲ると乱れた寝間着の襟合わせを直そうと手を伸ばした。
‥病の鴆の蒼白い胸に鮮やかに浮かび上がる蘇芳色の紋様。花唐草のような鴆一族特有の刺青模様が、その細い上半身を彩っていた。翼にも変化する肩から腕にかけては、厚く発達した筋肉が覆う。一目で、くっきりと筋肉の形状も見て取れる。鴆は病の床に付いていると云うのに、自分は何とも身勝手なものだ。‥次第に下腹部が熱くなってくるのを感じていた。病のため、恐らく抵抗できないであろう鴆の痛ましさも、支配欲や征服欲の強くなる夜の自分の男の欲望をそそっているに違いなかった。
あとがき
‥取りあえず、続いていますが‥(-_-)‥(-_-;)‥(-_-;;)‥
BACK
山帰来7へ