山帰来 7
身を乗り出し褥に手を付くと、背を屈めてリクオは男の唇に自分の唇を押し当てる。‥伝わって来る湿った温かさ。男の唇には自ら与えた薬湯の苦い味が残っている。
「‥リ‥クオ。」
唇を離すと、男が薄い唇を動かし殆ど声にならない声で囁いたのが分った。
リクオは僅かに頷くと、更に右の掌を男の痩せた胸に載せ、その上に上半身を預けるように耳を胸に当てて頭を載せた。心臓の脈打つ音が聞こえてくる。ゆっくりとした、けれど規則的な脈音。
―鴆は生きている‥
リクオは思った。鴆は生きて、自分の傍らに、まだ存在しているのだと。
度々、逢瀬で身体を重ねていると、何かの拍子に耳が身体に当てられ、男の力強い心臓の脈音が聞こえていたものだった。思わず、その、人より早い脈拍に耳を澄ませたものだ。
リクオは、躊躇なく男の緩んだ寝間着の合わせに掌を忍び込ませる。だが、いつものように薄い肌を震わせるような鳥妖特有の官能的な反応は無かった。だが、その温かな肌の感触を味わってみる。本来は羽毛に隠されているため、日に当たらぬ滑らかな白い肌。妖鳥の羽色の名残を残す鉄紺の刺青紋様。
リクオが目を閉じ、狂おしい逢瀬の記憶を遡りながら、鳥妖の温もりを味わい続ける。
‥しかし、気がつけば何処からともなく物音が聞こえて来ていた。神経を研ぎ澄ませて気配をうかがえば、薬鴆堂の表玄関が騒がしくなり始める様相が伝わって来る。主が重い病で臥せっていても、患者達が容赦なく訪れる医院の無常さ。それは、恐らく主が死んでしまっても、決して変わらないのだろう。其の侭、いつもの忙しさや騒がしさが続くに違いないと思った。一派が薬師の組員を数名抱えていれば、そうした難局も、いとも簡単に乗り越えて、医院は持続していくのだろう。薬鴆堂の主人の変わりはいくらでもいるという残酷な現実だった。すると、何処からともなく廊下を早歩きする足音があちこちから聞こえ始めていた。落ち着きを失ったその足音はいつもと違う気配を漂わせている。こんな夜更けに、何が起きたというのだろうか。‥やはり急患か。が、今宵は出入りの予定されていない奴良組の構成員達ではない筈だがら、取りあえずは、大将としては安心していい。
念のため、リクオが様子を窺っていると、奥で休んでいた筈の組員たちまでもが表に集まり始めているらしい。廊下を行ったり来たりする者、玄関を上がったり下りたりするもの。外へ出て行くもの。様々な音が聞こえてくる。リクオはその気配に暫く耳を澄ませる。すると、表門の重い門扉が開く音が聞こえてきた。戸の軋む音。
リクオは、只ならぬ雰囲気の物音に思わず耳を欹てた。こんな夜更けに潜り戸ではなく、わざわざ閂を外し表門を開けるとは‥沢山の急患かもしれない。‥そうでないとするなら‥。
結界も兼ねる表門が開く音がしてから、薬鴆堂の表がざわめき始めている。更に伝染するように玄関の辺りが落ち着きなくなり始めていた。
暫くの間を置いて、廊下を歩く足音が、この奥の座敷まで近づいて来る。
その気配にリクオは身を起こした。薬師の痩せた胸の上を撫でていた右掌を離す。
焦ったように擦って歩く足音はリクオのいる部屋の前で、ぴたりと止まった。廊下で姿勢を正す緊張感が伝わって来る。
「‥三代目。」
障子越しの部屋の外で、組員の声がした。
リクオは廊下に向き直る。
「どうした。玄関の方が騒々しいな。急患か。」
「‥申し訳ございません。急なことで‥。」
「ここならオレが見ているから心配しなくていい。患者の方を優先してくれ。何かあったら、こちらから言う。」
落ち着いた声でリクオは答えた。もっとも大事な組長に何が起ころうとも、薬鴆堂は患者を優先する。それが薬師一派の鉄則でもあった。
「あの三代目。‥少々よろしいでしょうか。」
「‥ん?構わないぜ。」
リクオの返事に襖がすっと半分ほど開き、隙間から戸惑っているような怒ってるような不思議な表情の年長の組員が顔を覗かせている。その表情を訝しげに眺める三代目に、組員が深々と一礼した。
「‥三代目、実は急患ではございません。」
「患者じゃないのか。」
「はい。」
リクオの顔色が変わる。
「‥まさか、こんなところまで不意打ちの出入りか。分った、心配はいらねぇ。オレが出るから、お前らは下がれ。薬鴆堂と一派は守ってやる。」
傍らの祢々切丸に、リクオが手を掛けた。
「違います。‥実は‥表に来客がありまして‥。総大将の三代目がこの場におられるとはいえ、主は病で臥せっており頭領が実質不在の中でございますので、少々狼狽えております。」
動揺を抑えきれない声が発せられる。
「‥一派の大事な客人か。なら、オレに気を遣わなくていいぜ。オレがここにいると不味いなら、適当に立ち去る。オレの畏れで気配は消せる。心配しなくていい。」
「‥確かにそうですが‥。」
再び、リクオは廊下に背を向け、鴆の上掛けを直し、髪を整えてやる。再び、大事な義兄弟の世話を始めていた。だが組員は廊下に座したままで下がろうとしなかった。
「‥どうした、まさかオレに関係のある客か。」
「‥関係あるかどうかは、手前どもは計りかねますが‥頭領が倒れてる今、私たちには判断しかねる客人でして‥。」
「けどよ、鴆がこんな状態じゃ、肝心の組長はでられねぇし、何も答えられないだろうが。オレは薬師一派の事はわかんねぇしな。」
困惑するリクオに、組員が突然低頭した。
「三代目、実は鴆一族古老会の長老自らのお出ましでございます。奴良組総大将のお目見えを要望なさっています。」
「‥‥‥‥。」
薬師一派は大陸渡りの俊英揃いの鳥妖怪族の鴆一族を中心に成り立っている。奴良組の傘下となった今、広く組員を集め、一派は鴆一族のみで成り立つ貸元ではなくなったが、重要な代議に関しては、鴆一族が決定権を持っていた。
先代、先々代が、他の妖怪達も組員に取り込んで薬師一派を広げてきた方針に、年長者を中心とする古老会は良い心証をもっていないらしいことは前々から耳には入っていた。鴆からも古老会の懐柔に難儀したことも聞いたことがある。
「恐らく、次期、頭領について進言したいのではないかと思われます。」
「‥けど鴆は生きているし、多分、大丈夫だ。少なくともオレはそう信じている。だから、わりぃが今回は進言なんぞいらねぇって伝えて帰ってもらってくれ。」
「古老会を相手に伝言では、それは余りにも無礼かと‥。」
組員はうろたえている。リクオが溜息を付いた。古参の部類に入る組員でも扱いに慎重にならざる得ない古老会。それを奴良組の総大将にまで投げられても困るよな、とリクオは思う。それに組長が無事であるなら、次期、頭領に関して、現時点で進言も助言も必要ない。
「‥オレは総大将だけどよ、薬師一派のモンじゃねぇ。鴆の状況を説明するのは、一派組員の役目じゃねぇのか。そうだろ。おめぇらじゃだめなのか。」
リクオがそう言っても、目の前の組員は無言で叩頭しているばかりだった。これではらちが明かない。
確かに玄関から伝わって来る妖気は濃い。禍々しさはないが、威圧感のある妖気だった。頑迷で誇り高い妖気。しかもこの国にない香気を漂わせている。
「仕方ねぇな。」
リクオは下がる気配のない組員に、また溜息を付くと片膝を立て立ち上がり、右手に携えた祢々切丸を懐に収めた。
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夜更けの薬鴆堂の表は闇に包まれていた。リクオは外廊下を通り玄関へと進む。やがて玄関の取次に燈火を携えた組員たちが控えているのが見えてくる。皆、低頭し、畏まっていた。その組員たちに傅かれている小さな人影。背は丸くやせ細り、皺に包まれた手を衣服の袖が覆っている。その姿には見覚えがあった。
それは、朝、リクオが本家の表門ですれ違った鴆一族古老会の朧車に乗っていた年老いた翁だった。
「‥見事にヨボヨボのじぃさんだな。」
その姿を一目見たリクオはそう小声で言って、後ろを振り返った。その発言に組員が蒼褪め、緊張で顔が引きつっている。
だが、リクオはそれを意に介さず、そのまま玄関へ進むと、夜目の効く目を凝らして辺りを見回した。薬鴆堂の組員全部が集まっているらしい。各々の持ち場を離れることのない薬師達が全て玄関に勢揃いするとは驚きだった。只ならぬ気配に、取次は静まり返っている。
目の前の黒光りするほど磨き抜かれた式台には、背を丸く屈め、絹の漢服のに身を包んだ年老い痩せた翁が腰かけていた。周りには平伏した組員たちが控えている。
こんな年寄り一人に、周りの空気が張りつめているのが伝わって来る。にもかかわらず、破天荒なぬらりひょんの血を受け継ぐ、若い奴良組総大将は、われ関せずと言った飄々とした気色を漂わせていた。
「‥おいおい。長老ってのは、学校の歴史の教科書でみたことあるようなじいさんなんだな。」
回りに同意を求めるかのようなリクオの場違いな言動に組員が凍り付いている。
深々とした薄絹の衣装に包まれた翁が、ゆっくりとリクオを振り返った。
萌黄色の瞳は白く濁り、後頭部に疎らの白髪が纏められている。薄く開いた口には歯は殆ど無い。
「お前が奴良組の三代目か‥。とんだ若造じゃな。」
「‥まあな。‥悪りぃが、オレが三代目だ。本当なら親父の代なんだけどよ。親父が死んじまったから、オレが継いだ。ついでに言うと初代のじじいは隠居してブラブラしてやがる。」
リクオが懐手で背を屈めて、翁の顔を覗き込む。長老を前に、端座せぬ呑気な総大将に、周りは一層凍り付いた。その気配に漸く気が付いたリクオは、取り敢えず、翁の前に胡坐をかくが、その様に周りは呆れたように眺めているばかりだった。
「‥ふむ。あの下らぬぬらりひょんの孫か。奴は我らを謀りおった。大陸渡りの我らは、この小国の誰とも組さん。」
リクオが返答に困って嘆息する。
「‥あのよ、オレのじじいは、親父と違って単純で大莫迦だから、『謀って』いねぇだろうけど、薬師一派の揉め事をオレに言われてもな。でもよ、奴良組に入っていなかったら、鴆一派は今頃、生き残れてねぇぜ。それが分ってたから、一派はじじいのところに来たんだろうよ。」
リクオの言葉に不愉快そうな翁の顔。そして、口を開く。
「―それより。」
組員たちが固唾を飲んで二人を見守る。
「―当代鴆が倒れ、危篤だと聞き及んでおる。」
その言葉にリクオが懐から手を抜き、顎に親指と人差し指を当てた。
「‥奴なら、もう大丈夫だ。無事、回復する筈だ。だから心配はいらねぇよ。」
リクオは顔色も変えず答えた。
「大丈夫かどうかは、最長老の薬師であるワシが判断する。」
「‥おいおい、何を言いやがる。本当に大丈夫だぜ。オレが約束する。体温も意識も戻った。」
翁は見えぬ目でリクオを睨みつけた。
「―だいたい、お前は薬師ではなかろう。立場を勘違いするでない。差し出がましいことは大概にするのじゃな。」
「けど、オレには分る。鴆は絶対によくなる。当代鴆は一派頭領を続行できる。」
リクオも睨み返した。
「‥ただの若造のお前では話にならん。」
翁はにべもなかった。
「―お前たち。よく聞くがよい。」
老いさらばえた体から、突然、曇りない声が辺りに響いた。
「皆の者にも言っておく。この若造の様に己の立場を弁えぬものは、たとえ才ある者であっても一派を破門する。どこへなりとも立ち去るがよい。」
「‥おい、一体‥。」
一派を破門されるということは、薬師の術を奪われることと同じだった。医薬の門に威光あるこの一派を破門されれば、分派にも他派にさえ拾われることがないということを意味していた。最早、妖薬師として生きていくことは出来ない。回りは緊張に包まれ、姿勢を正して畏まる。
「皆も承知しておろうが、古老会は嘗てより、一派の中心である。頭領と言えども古老会の決定を覆すことは出来ぬ。ましてや他の組の干渉を受けることはない。」
辺りは静まり返った。
「この度は、当代鴆が危篤に陥り、一派は代替わりの節目の危機にある。古老会はそれを深く憂慮し、長老自らが一派の為に進言を行うものである。」
「‥おい。‥ちっと待て。」
傲然と宣言する古老にリクオが口を挟もうとした。が‥。
突然、強い妖気が逆巻き、結界が震えて戦慄いた。その結界が、翁の妖圧に耐えかねて弾け飛ぶ。
「小僧!我は一派古老会最長老である!口を慎め!」
気を圧する大声に、若いリクオは、思わず怯んだ。だが、紅い目を眇めたままで、当然、場を去りはしない。
「この奴良組の無礼者め!おのが立場を弁えよ。」
「‥‥‥‥。」
「‥嘴の黄色い青二才風情が、一人前を気取るでない。」
「‥別にオレはそんなつもりは‥。」
薬師一派は今は、当代の義兄弟が総大将を務める奴良組の傘下にある。駿才揃いでも脆弱な妖の集まりでしかない一派は奴良組の庇護なしに生き残れる道は無いはずだった。しかも、現総大将は、若いが力量という点では、初代さえも凌ぐことがあると知れ渡っている。不安に駆られながらも、組員たちは事の成り行きを見守るしかなかった。
一頻り言い終わって気が済んだのだろう。翁は漸く静かになった。
「それより小僧。」
「‥おい。まだオレに‥。」
胡坐に組んだ脚をリクオが組み直した。
「ワシを当代鴆の元へ運べ。ワシはもう歩くことは殆どできん。」
「‥‥‥‥。」
「小僧、聞こえているか」
リクオが自身の額に手をやる。
「‥あのな、じぃさん。」
「運べと言っておるのじゃ。薬師でもない役に立たんお前は、それぐらいしかできんじゃろう。早く運べ。」
「‥やっぱ、オレに言ってんのか。」
「お前以外に誰がおるというのかのう。」
リクオは呆れながら、目の前の皺だらけの小柄な年寄り妖を見た。
二人のその様子を見かねた番頭が、慌てて、いざって進み出る。蛙顔の大きな目が翁の機嫌を窺うかのようにぐるりと一回転した。
「‥長老、そ、それは私が‥。こちらは奴良組本家の総大将でいらっしゃいます。お若い身で京妖怪も配下とされたほどの。」
途端、可笑しそうにリクオが笑った。
「ああ?オレは京妖怪を傘下に迎えてねえぞ。奴良組は江戸を中心とした関東の組だ。西の組には西の組でやればいいさ。オレ達は江戸妖怪だから関係ねぇ。」
呑気な三代目の笑い声。が、それを厳しい声が遮った。
「黙らんか、若造!ワシの話をよく聞け!‥さっさとワシを当代のいる部屋まで運ぶのじゃ。ワシは奴良組の傘下の者ではない。薬師一派の最長老である。」
骨と皮ばかりの皺に包まれた痩せた身体。
二人は睨みあったままで、我慢比べのような沈黙が続いた。そして、とうとうリクオが折れる。
「‥ああ、もう仕方ねぇな。」
リクオは胡坐を組んでいた脚を崩し、膝で立った。懐に収めていた祢々切丸を取り出して、邪魔にならぬ様、腰に差す。
「‥わかったよ、じいさん。オレが奥の間まで運んでやる。おい、誰か、座敷に、じいさんの腰掛ける場所を用意してやってくれ。」
番頭が予想外の事の成り行きにおろおろしていたが、席を立つと慌てて奥へと早足に去って行った。
リクオはその後ろ姿を見送ると、翁に背中を向ける。老妖はその小さな身を遠慮もせず、リクオの若く精悍な背中に投げ出した。リクオは少し前屈みでその老体を背負う。‥思ったよりずっと軽い。リクオは、安堵して片膝を立てて立ち上がろうと上体を持ち上げた。
―だが、その次の瞬間。
目の前から光が消えた。玄関を仄かに照らしていた筈の灯りも何処にも見えなかった。リクオは真っ暗な闇に閉ざされる。
その時、天が割れんばかりの激しい雷鳴が轟いた。暗雲垂れ込める空を白い閃光が走り抜ける。雷光に視力を奪われ目が眩む。その上、身体には痛いほどの烈しい雨が降っていた。‥違う、雨ではない。雹だ。鋭い氷が滝の様に降っている。空からは硬い雹が叩きつけられているのに、下からは突風が吹き付けてくる。冷たい氷の塊に感覚を奪われ、方角すら分らない。目を凝らしても、荒れ狂う昏い波間には陸も岩場も見えなかった。
「‥どうされました?三代目?」
どこかで組員の声がする。
答えることも立ち上がることが出来ず、リクオが力無く膝を付いた。
眼前では暗い海へ風に揉まれながら一羽の鳥が落ちていく。巣立ったばかりの幼鳥だった。力尽きたのだ。
陸は何処だ‥。絶望が群れを包んでいく。寒さのため、体の震えが止まらない。再び、追い討ちを掛けるかのように雷鳴が轟いた。容赦なく海に落雷する。
天と地が入れ替わる程の激しい眩暈に襲われながらリクオが、辛うじて背中の翁を振り返る。痩せこけた皺だらけの老人は、何事もなくリクオの背中に納まっていた。嵐のような雷雨で息も出来ぬリクオは絞り出すように声を出した。
「‥じいさん、オレに何かしたな?」
「‥何の事じゃ?」
妖翁は歯のない口を、モグモグと動かすばかりだ。‥だが、年月を経た物の怪なら、特別な業を身に着けている可能性が高い。
「‥しらばっくれやがって‥じいさん、オレを罠に嵌めやがったな。」
あとがき
‥久しぶりに更新しました。以前、読みに来ていた方々も、
もういらっしゃらないような‥気がします。相変わらず、独自路線で書いています‥(汗)
そして、まだ終わらない‥その上、次回の更新は未定のまま‥(゜▽゜;)
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