山帰来4
「あまり御食事が進みませんでしたね、リクオ様。」
少年の膳を下げようとした鴉天狗が言った。
「‥うん。この状況で食欲なんてないよ。それより、いいよ、鴉天狗。御膳は自分で下げるから。‥遠野の連中に会うとさ、いつも自分のことは自分でやれてるか、って聞かれるんだよね。」
すると鴉天狗から、盛大な溜息が漏れた。
「‥総大将が、自ら台所へ膳を下げる‥流石、それはいただけませんな。首無に怒られます。」
すると少年も溜息を洩らした。
「じゃあ、ボク、どうすればいいんだろうね。膳を下げても下げなくても、誰かに小言を言われてさ。」
‥幼馴染でもある鴆なら、薬鴆堂では自分の好きにさせてくれたのに。そう思ってリクオは、はっとした。
鴆なら、隣の部屋で病の床に就いている。
「‥リクオ様。やはり、お疲れなのではありませんか。とても眠たそうですよ。少し横になられては。」
「‥うん、ついさっきも眠りに引き込まれるように眠くなってしまって。一瞬しか眠っていないはずなのに、夢を見るんだよ。」
膳を抱え持っていた鴉天狗が足を止めた。
「‥はて。何時だったか、本家でも誰かが、その様なことを申していたような‥。」
首を捻りながら鴉天狗が天井を見上げる。
「‥それ誰?」
興味を持ったリクオが身を乗り出した。これは本家でも起きる現象だというのか。それなら、原因らしきことが判明するかもしれない‥。早くこの妙な眠気から解放されたいと思う。
「‥う‥ん、かなり昔のことだったような。すみません‥残念ながら思い出せませんな。」
「そ、そう‥。」
がっくりと少年は肩を落とす。
「まあ、どちらにしろ、ゆっくりお休みになれば、そのようなこともなくなりましょう。兎に角、少し眠ってください。何かありましたら起こしますから。」
そう促されて、リクオは自分の座っていた座布団を半分に折ると、枕代わりにして頭を乗せた。行儀もいいとは言えぬし、寝心地もいいとは言い難いが、四半刻ほど眠れればそれでいい。すると、鴉天狗が何処から調達してきたのか、薬鴆堂の羽根紋様の羅紗羽織を上から掛け、火鉢をリクオの近くへ引き寄せた。
「遠慮なさらず、少しお休みを。朝餉も取らず、ここまで御自分でいらしたのですから、お疲れになって当たり前です。」
「‥うん、ありがとう。少しだけ眠らせてもらうね。鴉天狗も、ボクにばかり感けていないで休んで。」
少年が目を閉じる。朝早くに本家を飛び出して、朝のラッシュ時間に、電車、バスと延々と乗り継いできた所為なのか、頭と身体が重かった。瞼を閉じると同時に、あっと言う間に眠りへと落ちていく。
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その男は、女の傍らに控えていた。男の美しさと聡明さが、その女の目に留まったのだった。高価な絹の衣服を身に纏わされ、女に書物を読み聞かせ、胡琴を奏で、そして不在がちな皇帝に代わって妃でもある女の褥の相手もする‥。皇帝が暗殺を恐れて、虜となった我らには僅かな自由すらない。だが、お前は城の中だけとは言え、自由に出歩くこともできる。‥不思議と嫉妬のような感情は湧き起こらなかった。老いが見え始めた女だが、その女に気に入られている限り、若い彼には人も羨むような贅沢な暮らしが約束されている。‥一体、何の不服があろう。それなのに遠くから申し訳なさそうな表情で己を見る。‥気に病むことなどないのに。己が決して与えてやれぬ暮らしを与えられているのをみて、お前を責める気など、さらさらない。身分の高い者しか上がれぬ楼の廻縁にお前の美しい姿を認めるとき、寧ろ嬉しい。
お前は高い楼の廻縁の欄干に手を掛けて、哀しげな萌黄色の瞳で己を見下ろしている。‥いけない、そんな悲しい顔をしてはいけない。
****
リクオは胸が苦しくなって目を覚ました。
ゆっくりと目を見開いて周りを見回せば、少し離れたところに鴉天狗が座っており、静かにお茶を啜っている。
萌黄色の髪と瞳を持つ若い男。前の官能的な夢で自分の胸の下にいた男だった。城郭の中の優雅な楼閣の欄干から、じっと自分を見下ろしていた。‥物言いたげに、悲しそうに。そして、その眼差しを受け止めていた自分も、辛く苦しかった。哀しい顔をしないで笑顔を見せて欲しいと願った。
どうも夢の中の自分には、ほとんど自由な行動が許されていないらしい。
少年は上に掛かっている羽織を押し退けて、そっと起き上がった。
主の目覚めに気配に気が付いた鴉天狗が、手に持っていた湯呑みを下に置き、リクオを見る。
「‥リクオ様、目を覚まされましたか。‥お気分は如何です?」
生憎と疲れが取れた感じはなかった。
「‥うん、あんまり‥。どの位眠っていた?」
「小半刻ほどでしょうか。深く眠っておられたようですが。」
「‥深く?あんまり眠れた気はしないなあ‥。」
両手で顔を擦りながら、少年は答えた。
「おや、さすが血は争えませんな、リクオ様。珱姫様と同じことをおっしゃって。」
顔を擦っていたリクオの手が止まった。
「‥今、何て言った?鴉天狗。」
「‥はい?」
鴉天狗が茶を乗せた盆を持って立ち上がる。
「今、ボクが、おばあちゃんと同じこと言ったって。」
「‥ええ、珱姫様も、時々そのようなことをおっしゃってましたよ。」
リクオの前に盆を置くと、鴉天狗が答えた。
「大殿のぬらりひょん様に嫁がれてからも、いろんな方々を癒すことはしておられましたから。」
「‥どういう意味?」
鴉天狗は少年のいる所まで来ると火鉢を少し押して動かし、盆に載せた湯呑み茶碗を差し出した。少年は温かい湯呑みを両手で受け取る。茶碗の熱で手が温まっていく。
「‥ご存知でしょうが、リクオ様の婆様に当たる珱姫様は、不思議なお力をお持ちでしたので、お若いころから疵や病に苦しむものを癒しておられました。そういう癒しを行うとき、リクオ様のように、疲れが取れないとか、よくおっしゃっていました。」
会ったこともない、写真すら残っていない祖母が、自分と同じことを言っていたなんて‥。少年は不思議な気持ちになった。
「本来、医術が人を治すもの。しかし、心に深い疵を負うものや、呪術に因縁を持つ者は、医術では治ることができません。それで、医術に見放された者たちが、珱姫様を頼って訪れたのです。‥ですが、その者たちの深い場所にある痛みに珱姫様が引き込まれることがございました。なので、珱姫様は、癒す術を施されますと大変お疲れになってしまい、ぬらりひょん様も心配しておられました。しかし、頼る者たちがいる限り、『癒す』ことは止めませんと、おっしゃって、お元気なうちは続けておられました。‥優しい方でした。‥本当に。大変秀でた能力をお持ちでしたので、その者に触れただけも、お会いになっただけでも、癒さなければならない痛みにお気づきになることが出来たようですよ。」
湯呑みを持ったままで、リクオは古参の鴉天狗の話に耳を傾ける。‥こんな風に亡き祖母の話を聞くと、いつも心が休まる。皆、祖母のことを口を揃えて優しい人だったと言い、自分の昼の姿は、祖母の面影は宿していると言う。祖母の思い出を語る者たちは、皆、穏やかな笑みを浮かべながら、懐かしそうに目を閉じるのだ。
しんみりと亡き祖母を物語る鴉天狗の思い出を聞きながら、リクオは鴆が臥せている続きの間とを隔てている襖障子を見た。襖には薄墨と黒藍銀箔の水流を眼下に見る純白の胡粉の雲の上に、群れて飛ぶ萌黄色の鳥達が鮮やかな筆使いで描かれている。
「‥しかし、鴆さまも、こんなことになるなら、嫁様をお迎えになって子を為しておられればよかったものを‥。以前、西よりお戻りになり薬鴆堂を再開されたことを機に、御縁談も紹介してきたのですが、全て断りになっていましたから。」
鴆の事が話題になり、リクオが我に返った。
「‥鴆くん、縁談を断っていたの?」
「‥ええ。当分、女のことで煩わされたくない。いずれ跡を取る三代目の奴良組のために薬師として精進したいとおっしゃって。随分いい縁談もあったんですがね。‥やはり、昔、悪い女に誑かされたのが良くなかったのでしょうかねぇ‥」
そこまで言うと、鴉天狗が、言い過ぎたとばかり口を噤んだ。襖絵を眺めていたリクオが、その沈黙に反応して振り返る。
「‥、い、いや‥リクオ様、ぬらりひょん様から聞いていませんか?鴆さまは、昔、悪い女達と切れるのに、大枚を叩く結果になったことがあるんですよ。なんだかんだ言っても、結局は堅物の薬師ですから、跡継ぎを産んでもらうつもりだったようで。‥いや、リクオ様にこんな話をしたらいけませんね。‥さて、皆も気にしていると思いますから、一度、本家に電話をしてきますね。すみませんが、ちょっと、失礼します。」
部屋を出ようと羽ばたき始めた鴉天狗が、突然、羽ばたきを止め、再び畳の上へ降りる。
「そうそう、珱姫様のお話をして思い出しました!リクオ様!‥突然、酷く眠くなって夢を見て困る、とおっしゃっていたのも、やはり珱姫様でしたよ。珱姫様は重い病の者を癒すときは、しばしば、何かに強い眠りに引きずり込まれて、大変なんですよ、っておっしゃっていました。」
漸く符牒が合ったとばかり、独り頷きながら、そういうと、鴉はリクオに一礼し障子を開けて、いそいそと廊下へ出て行った。羽ばたきの音が遠のいてゆく。
庭で、再び喧しい鳥の囀りが響いた。リクオは座っていた場所から、静かに立ち上がり、鴆の横たわる次室とを隔てている襖障子へ歩いていく。少年の瞳の中には、萌黄色の鳥たちの舞う優雅な襖絵が、次第に近づいてくる。
‥大きく広げられた萌黄色の羽根は柔らかな筆遣いが感じられ、空を舞う伸びやかな鳥の姿が生き生きして。さらに長く優美な脚は風に乗るかのように投げ出されていて‥。
だが、その刹那、引手に手を掛けて襖戸を引こうとした筈のリクオの手が止まった。絵をよく見れば、残念なことに鳥の脚先が描き忘れられている部分が、所々あったからだった。多くの鳥を描いていて忘れ去られてしまったのか、それとも墨が掠れて足りなくなったのか。或いは、大和絵の描写の技法としてなのか、完成しているように見えて、実は中途半端に思える襖絵を見ながら、絵というものは良くわからないな、と少年は思った。そして、襖を音を立てぬよう、そっと開く。
部屋の中央には、病の鳥妖怪が褥に臥せっていた。枕屏風の横には互いに凭れて眠っている付喪神の薬壺と竹壺がいる。そして、隣の部屋から三代目が現れたことに気が付いた弟子らしき妖怪が静かに目礼し、鳥妖怪の褥の傍から下がる。
「‥どう?鴆くんは。」
三代目として、注意深く声を掛けながら、鴆の褥の横に腰を下し、先程よりは少し赤みが差してきたように見える鳥妖怪の顔を見ながら、冷静に問う。
「はい。積極的に復温に努めましたので、落ち着いてまいりました。このまま療がうまく行きますれば、目を覚まされるのではないかと。」
少年は頷く。
「‥うん、ありがとう。今度はボクが付いているから、その間に中食を取って下さい。お腹もすいたでしょ。何かあれば、すぐ呼ぶから、心配しないで。」
三代目の気遣いに、妖怪の弟子が畏まった。
「では、目を覚まされましたら、すぐお呼びください。服していただく御薬のご用意があります。」
「うん、わかった。すぐ呼ぶよ。」
弟子の妖怪は、部屋を下がり廊下で改めて座して一礼すると、静かに障子を閉め、音もなく立ち去って行った。
再び部屋に静寂が訪れる。今日は薬鴆堂を訪れる患者は殆どいないらしい。連絡が行き届いて、患者には他所へ回っても貰っているのだろう。その為、普段は療治を受け付けている筈の取次も静まり返っている。いつもなら、表の診療の部屋にいる付喪神達も、頭領の病の騒ぎに疲れ切ってしまったらしく、リクオの目の前で眠りこけてしまっていた。
リクオは身体を前へ乗り出すと、手を伸ばし掌で、男の頬に触れた。弟子たちの献身的な療治によって、体の温もりが少しずつ戻りつつあるのがわかる。さらに、そのまま指先で男の薄い唇を撫でる。病の呼吸で乾ききり、ざらついた感触だけが残っていた。そして、閉じられたままの瞳。
薬師一派の組長を継いだばかりの世間知らずな時期だったとはいえ、言い寄ってきた遊び女達を抱いたというこの男を、自分は蔑む気持ちはなかっただろうか。
‥恐らくあったと思う。母を大切にし、真面目で漢気のあった父と、気が付かぬうちに比べていたと思う。
今度は掌で男の顎を撫で、少年は背を屈めると自分の顔を男の顔に近づけて、そっと自分の唇を男の唇に重ねた。乾燥し荒れた感触。いつもなら濡れて温かいはずだった。
以前、夜の姿で殺伐とした出入りから帰り、薬鴆堂を訪れて、男にいきなり乱暴に口づけたことがある。男は宥めるように口付けを返した。また、昼の姿で恐る恐る口付けたこともある。男は優しく包み込むよう口付けを返したと思う。
--口付けを交わす自分たちを、一体、何と表現すればよいのだろう。
自身の重みに耐えかねて水滴が、葉先から滑り落ちるように、ふと考えることがある。
その滴は静かなリクオの心の水面へ落ち、リクオ自身を揺るがすように波紋を作った。
少年は上掛けの端を少し捲り、其処に男の手を見つける。そして、迷うことなく、その硬い手を両手で掴んだ。
あとがき
独自路線ですが、どうにか続きを書けました‥果たして次もいけるのか‥(滝汗)
あと、「鶸色」が「萌黄色」に変更になっています(冷汗)
岩絵の具で色を確認したところ、思っていたより明るい色でしたので。
‥パソコンの画面って、意外と色がわかりにくいんですね。
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