山帰来5
男のごつごつとした硬い手を握りながら、リクオは、ふと視線を上げた。鳥妖の褥の向こうにも見事な襖障子が、部屋を取り囲むように続いていた。考えてみれば、薬鴆堂を訪れた時に、今までも此の座敷を何度も利用したことがあったが、襖絵など、いちいち気に掛けたこともなかった。
リクオは、じっと真向いの襖を眺めた。墨で荒々しく書かれた岩場には、萌黄色の上品な鳥たちが身を寄せ合って立ち竦んでいる。岩場の周りは荒れ狂う波が、乱れた墨の筆遣いと、くすんだ銀箔で用いて描かれていた。萌黄色の優雅な鳥たちの目は、濃い茶墨で色が差されており、丸い瞳を宙へ瞠って、不安に怯えるさまが偲ばれる様に表現されている。‥妙に想像力を掻き立てられる描写だった。美しい羽根には、わざわざ薄墨で汚れを加えられ、その上、風に煽られ乱れ、更に荒れた波が彼らへ向かって怒涛如くに押し寄せていた。
少年は、何故か急に不安になって、男の手をしっかりと握った。
この絵の妙な不安定さは何処から来ているのだろう。‥リクオには分らなかった。岩場に優美な脚を並べ、儚く美しい身を寄せ合う。だが、リクオは、その時、あっと声をあげそうになった。
狭い岩場に身を寄せ合う鳥たちの足元を見れば、やはり次室の襖絵と同じく、足先が描かれ忘れたものが、幾つかあった。こんなところまで足指の描き損ねがある。
得も言われぬ胸苦しさに、リクオは目を閉じた。
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その男は、一瞬我を忘れたかのように己を見た。‥変わらない美しさ。宮廷暮らしに慣れ、以前より優雅さに磨きがかかったように見える。元気そうで何よりだった。だが、目を伏せ己を直視できず、狼狽えている。老いてゆく女の寵を授かる身となっていることが耐えがたいのかもしれない。
己が太医署の片隅の陽の差さない生薬倉庫で使役を行っている様を見て、悲しげな瞳をする。本来なら同じ一族の彼も此処にいる筈だった。こんな場所で会うとは‥と男の目が、そう言っている。我らが一族は毒を持つ身。されど。鳥でもなく人でもなき身。我が一族は医薬に秀でた一族だった。国中を飛びわたっては毒薬を集めては、医事に用いる業を身に着けたのだった。だが我らは秘して語らず、一族の中で口訣でのみ伝えられている。‥皇帝も、我らを獄に繋いでおくだけでは惜しかったのだ。殆ど外出できぬ不自由な身であるが、幸い太医院の片隅を居場所とすることが出来た。此処にいれば、遠くからだが、お前を見守ることもできる。
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「リクオ様。」
耳元で、鴉天狗の囁き声が聞こえて、少年は目を覚ました。
「‥本当に今日は眠ってばかりですね。」
少年が眠気を振り払うかのように、頭を左右に動かした。
「‥ごめん。今日はどうかしてるみたい。また、夢を‥。」
「夢、ですか?」
心配そうに少年の頭上をを飛んでいた鴉天狗が、リクオの足元まで、ふわりと舞い降りた。
「‥うん、また夢なんだ。‥どうしよう、鴉天狗。本家を出てから、ボク変なんだよ。電車の中でも眠ってしまったし、ここへ来てからは奇妙な夢ばかり見る。電車の中で眠ってしまったときは、ラッシュで混んでいて‥それでも立ったまま眠っちゃったし。最初は、人込みで疲れるせいだと思っていたんだ。」
鴉天狗は視線を落とし、リクオの手が鴆の掌をしっかりと掴んでいるのを見る。
「‥取りあえず、落ち着いてください。リクオ様は、御姿を見ても、どうも珱姫様の血が濃いようですから、珱姫様に起きた事と同じような事もあり得るかもしれません。」
そう言われて、少年も自分の手元を見た。癒しの手を持っていたという祖母。その祖母に思いをはせながら、しっかりと男の手を握り返す。
「鴆さまは、リクオ様とは幼いことから親しく、しかも『義兄弟の盃』を交わしておられます。リクオ様は、もしかしたら珱姫様が有しておられた力を受け継いでいて、無意識の内に使っておられるのかもしれませんぞ。」
だが、リクオは暫く黙考すると、慎重に首を振った。
「ボクな純粋な妖怪のおじいちゃんとは違うところがあることは、理解しているつもりだよ。おじいちゃんが出来ることでボクの出来ないことはあるし、その逆もある。もし、おばあちゃんの力を受け継いでいるのだとしたら嬉しいけど、全然、実感はないよ。第一、ボクが鴆君に何を施しているっていうの?‥何もしていないよ。とても心配はしているけど。」
「しかし、珱姫様の血は受け継いでいる限り、充分あり得ることです。」
「そ、そう‥?」
本家の妖達は、齢十二歳で鬼纏を身に着け、奴良組を継いだリクオを過大評価する傾向がある。それ故、少々腑に落ちないような気もしたが、もし、そうだとしたら朝から始まっている強い眠気も理解できると少年は思った。
「‥だとしたら、ボクはどうしたらいいの?」
畳の上に座し、腕を組んだ鴉天狗がリクオを見上げた。
「‥そう言えば、珱姫様が良くおっしゃっていたことがあります。癒さなければならない者の心覚えに引きずられないように気を付けていると。」
思い出すように目を瞑って唸る鴉天狗に、リクオは注目するしかなかった。
「お若いころは、それが出来ずに引きずり込まれ、混乱したとも。」
--心覚え?
「‥夢じゃなくて?」
鴉天狗が頷いて見せる。
「もし、今の現象が珱姫さまの癒しの御業と同じものなら、リクオ様は夢を見ているのではなくて、その者の記憶を受け取っているということになります。」
--記憶?
「‥記憶って‥。」
「左様。珱姫様が、よく零していたのですが、その記憶も断片的で混沌としていて、全容を捉えることが、とても難しいと。」
‥残念だが、今のリクオには理解できそうになかった。如何考えても、自分は誰の記憶も辿ってはいないと思う。見ているのは、ただの夢だと思う。見たことのない景色、部屋、人物‥そして衣服すら見覚えはない。幼いころから見知っている鴆ゆえ、余計、関係あるとは思えない。
すると、リクオは部屋の片隅から視線を感じた。振り向けば、大和絵の描かれた襖絵があり、そこに描かれた鳥たちが、こちらを見ているような気がしただけだった。リクオはその襖へ目線を走らせた。
美しいと萌黄色の鳥たちが、城の地下と思しき場所に、沢山、閉じ込められている。しかも足には枷が嵌められて、皆、俯き、世を儚むかの如く悲しげな瞳をしていた。
リクオは溜息を付く。‥座敷の襖絵に有るまじき題材。なんと悪趣味な。
そして、さらに視線を中央へ運んでいくと、雲間から望むように広い城址が墨で細密に描かれていた。その中心には高く雅な楼閣があり、その外見櫓のような場所に萌黄色や草色の岩絵の具で羽根が一枚一枚丁寧に描かれた優美な鳥が佇んでいる。鳥は、何故か項垂れ、悲しげに地上を眺めていた。リクオは視線を絵の下の方へ移す。絵の片隅には、一羽の鳥が楼閣の鳥を見上げている。その足元には石の薬研が置かれていた。
‥リクオは息を呑んだ。
そして、ぐるりと視線を廻らせる。
隣の襖絵は、先程見た岩場に身を寄せ合う鳥の群れの絵図。良く見れば、足元には、まだ綿羽に包まれた雛が一羽、力なく横たわっている。そして、一段高い岩場の切り立った先に一羽の鳥がいる。萌黄色の羽根に、一際艶やかな金彩を施され、目立っていた。この群れを率いている頭に当たる鳥なのだろう。鋭い目を持ち、正面を凝視している。
‥じっと見ていると、取り囲む襖絵たちの絵に吸い込まれて行くような心地がする。摩訶不思議な絵図。
‥目を閉じなくてはいけない。この絵を見続けてはいけない。
一段高い切り立った岩場から、リクオを睨みつけている一羽の金彩の鳥。
‥気が遠くなる。目が眩む。
****
激しい雨が降っていた。雷鳴は遠のいているが、漸く見つけ舞い降りた岩場も、いつ荒波に洗われるか分らなかった。
見回せば、やはり群れの数が減っていた。だが、誰もそのことに触れない。誰もが仲間を顧みることすら無理だったのだろう。
そして群れの真ん中からは、女の啜り泣きが漏れていた。
見れば、女が抱いているのは既に息絶え、腐り始めた雛だった。雛の汚れた綿羽は雨を吸って重くなり、最早、女の負担となっている。他の女達は遠巻きに眺めならも、物狂おしい女の様相に沈黙を守っていた。腐乱が始まり、匂いを放つ雛の骸は鼻の効く追っ手を誘う。
己は、痛む足を引きずり、少し羽ばたいて歩み寄る。‥誰も言えぬなら、己が言うしかない。
「その雛は既に骸だ。海へ葬れ。」
己の言葉に女が小さく叫び声を上げ、正気とは思えぬ形相で己を睨みつけた。其の侭、鋭く睨みつけた状態で後ずさる。何かに取りつかれた様相で、息絶えている雛を守ろうと己に背を向けようとした、その一瞬に、己が手を伸ばして雛の遺骸を掠め取った。突然の事に恐慌状態に陥った女の悲鳴が上がる。
「腐った雛を携えて飛ぶな。追っ手に見つかる。」
そう冷酷に宣言すると、死んだ雛を荒れ狂う海へ放り込んだ。取り返そうとして我を失って飛び出した女を周りの者たちが懸命に押し留める。汚れた綿羽に包まれた小さな雛が暫く波に揉まれて漂うが、静かに波間へ沈んだ。己の情け容赦ない言動に、先程まで、ざわめいていた周りの女たちから、溜息が漏れた。
「皆にも言っておく。生き残りたければ、私に従え。従わぬものは置いていく。何処へなりとも去るがいい。」
皆が、目を背け押し黙った。
--だめだ。そんなことしちゃだめだ‥。そんな事を言っちゃだめだ。回りの反感を買うだけで、何れ群れをまとめていくことが出来なくなる。
リクオは、心の中で、懸命に、そう思うが、夢の中の自分の振る舞いは収まりそうになかった。己の行った行為に、周囲が水を打ったように静まり返っている。
胸が痛い。心が苦しい。雛を捨てられた女は、海に向かって半狂乱で何か叫んでいる。それを取り押さえる周りの女たちが、耐え難いのか、己から視線を反らした。雨で濡れた全身が、冷えていくのがわかる。長く城の地下に居すぎた己の羽根は、水を弾かなくなっていた。右足首が引き千切られる様に猛烈に痛み、立っていられない。耐えきれず足元を見る。襤褸布が巻かれて血が滲んでいる。そして‥
--踝から先は無かった。
驚きのあまり、少年が声を上げそうになった。
その瞬間、誰かが少年の手を引いた。
「‥リクオ。」
氷のような雨で冷え切った自分の手を包むように握り返してくる。
「‥リクオ。」
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少年は、深く冷たい淵から引き上げられるように、目を覚ました。掌が温かい。掌から、じんわりと伝わってくる熱に少年は深呼吸する。包み込む温もりに、少年は自分を取り戻したのだった。
我に返って見回せば、辺りには誰もいなかった。精緻で卓越した筆使いで景色や鳥たちが描かれている襖障子が周りを取り囲み、薬鴆堂の趣ある座敷を作り上げているだけだった。耳元で鳴っていた激しい豪雨も強い風も荒波も、何事もなかったかのように掻き消えている。濡れた羽根に染み込む冷たさもなく、胸の痛くなるような哀れな雛の死骸と其の母鳥も何処にも存在していなかった。
あとがき
‥独自路線で「5」まで来てしまいました。続くといいな‥(=_=)
取りあえず、趣味のサイトなのでマイペースで書いていこうと思います。
少々ネットから距離を置いた方がいいような気もしますし‥。
いや、置くべきなんだろうな‥一旦サイトとか始めると、それが難しくて。(溜息)
しかし、メモもなくて、頭の中だけでお話考えているのはリスク高い気がします‥、
ほんと。忘れちゃうよ!‥ていうか、微妙に方向が変わりそうだよ!
ところで、Windows7って、書体によっては、文字の大きさのタグ、読まないみたいですね。
ここだけ書体変えてみました‥。(T_T)
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