山帰来3
「リクオ様。」
耳元で囁く声が聞こえ、その拍子に頭が大きく斜め前へ傾いだ少年は目を覚ました。
見れば自分は鳥妖怪の鴆褥の横に座したままで、右手は上掛けからほんの少し現れている鴆の右手の指先を掴んでいた。
「‥お疲れのようですね。」
声の主を探して、リクオが座している膝のあたりを見ると。鴉天狗が心配そうに少年を見上げていた。
「‥ううん、大丈夫。ちょっと居眠りしただけだから。」
「やはり、リクオ様に控えの間を用意していただきましょう。少し横になって、お休みになっては。」
「ううん、大丈夫。うたた寝だけど、今、少し眠ったしね。それより、鴉天狗も休んだ方がいいよ。電車、バスと駆けずり回ったボクの懐の中で目を回していたから。」
鴉は首を横に振った。
「‥私は、もう休みましたので、大丈夫です。それより、鴆さまのご御様子は如何ですか。」
二人は褥の鳥妖怪を見る。
「‥ボクは薬師じゃないから、よくわからない。ただ明らかに、いつもと違うよ。触れてみると何だか体温も低いし、顔色も悪い。‥さっき少し目を覚ましたんだけど、またすぐ眠っちゃったんだ。」
「‥体温が低い?‥もしかして体温が下がってしまっているのですか。それは、大変良くない兆候ですね。鳥妖怪にとって体温が下がることは、良くないことの前兆なのです。」
「そ、そうなの?‥どうしよう、鴉天狗。湯たんぽは入っているみたいなんだけど、早めに変えてあげた方がいいよね。」
少年が上掛けの下に手を入れて褥の温もりを確かめる。
「‥取りあえず、人を呼んでまいりましょう、リクオ様。」
何事にも慎重な鴉が羽ばたきながら部屋を出ていくと、少年は不安な気持ちで横たわる男を眺めた。目を瞑ったままの男の、ゆっくりとした息遣いが聞こえる。
‥自分は、この男の事を良く知っているつもりだった。幼馴染で義兄弟で貸元で、そして今は‥。
昼の自分から見れば、見守ってくれる心強い兄のようでもあり、夜の自分から見れば、誠実な下僕としての貸元の一人であり、いざという時、当てにできる才ある薬師でもあった。
全てを分かち合ったつもりでいたのに、自分はこの男の何処を見ていたのだろうと思う。‥恐らく、この男は、自分に全てを晒していない。一派の頭領としての領分だけは見せていない。勿論、自分にそれを責める資格はなかった。それは、奴良組を背負う自分も同じであろうから。
鴆が率いる薬師一派は、今や大きな一派と化し、既に鴆一族だけで構成されているわけではなかった。複雑な構成員達を率いるのは、並大抵のことではないだろう。
その時、何処かで鵯の喧しい囀りが聞こえて来た。その賑やかな囀りにつられて、庭へ視線を移せば、その一角に葉が落ち艶やかな赤い実の付いた山帰来が見える。
鴉天狗が表へ人を呼びに行ってから、数分後、まるで待っていたかのように弟子の薬師たちが部屋を訪れた。後から鴉天狗も付き添って羽ばたきながら飛んでいる。
「リクオ様。人を呼んでまいりました。それとリクオ様に控えのお部屋を用意してくださるそそうです。」
鴉天狗が少年に告げる。
「三代目、次室を整えますので、是非、控えの間として少しでもお休みになってください。」
弟子の一人がリクオに部屋の準備を伝えながら、褥を挟んだリクオの向かいに腰を下ろすと、頭領の男の顔を覗き込む。
「‥ありがとう。でも、もし構わないなら、今はここにいたいんだ。せめて鴆くんの傍にいたいから。」
少年も褥の男を覗き込んだ。
「‥少しばかり、お顔の色が良くなられてたような気もしますが‥。」
「‥そう?ボクから見たら、充分に顔色は悪いけどね。」
次々に現れた薬師の弟子たちは薬師一派の会頭の男の褥を取り囲み、内一人が上掛けを剥ぐと、皆で手際よく、温度の下がった湯湯婆を新しく手拭いに包まれた湯湯婆に取り換えていく。
リクオは、傍でただそれを見ているしかなかった。‥せめて、せめて自分にできることはないだろうか。
「‥あの‥ボクにも手伝えることがあったら‥。」
そう言うと、すぐ目の前で、小さな湯たんぽを重そうに引き摺っている付喪神の竹壺と薬壺がリクオを振り返った。そして、湯湯婆を二人で抱えたまま、リクオを見上げる。
「‥ありがと。それは、ボクがするね。」
少年は優しく微笑むと重い陶製の湯湯婆を拾い上げ、周りの弟子たちがしているように手拭いで包む。そして、見よう見まねで反対側と同じように、右の腋の下の湯湯婆と取り換えてみる。
「‥鴆くん‥これでもっと温かくなるからね。」
男の耳元へ顔を近づけながら、少年は静かに囁いた。
すると、それに答えるかのごとく、男がゆっくりと、その双眼を見開く。
その反応に周りが、あっと息を飲み、思わず手が止まった。
「‥鴆くん、温かくなった?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」
「‥何?鴆くん。」
草色の涼やかな瞳は宙を捉えているが、確かに少年の声を聞き取っている。
「‥ボク、ここだよ。わかる?」
リクオは皆の注目を集めつつも、懸命に薬師の鳥妖に話しかけた。
「‥三代目は不思議なところがあると噂に聞き及んでおりましたが、確かに‥。」
一連の出来事に戸惑いを隠せない弟子の一人が傍らに控えている鴉天狗を見た。
「‥左様ですな。実は、リクオ様のばば様でもあった珱姫殿が非常に不思議な御方だったのです。それを聞きつけて、ぬらりひょん様が通われて口説き落としたくらいですから。」
弟子たちが顔を見合わせる。
「‥どのような力をお持ちだったのでしょうか。」
「ええと‥。頼まれて病や疵を癒していました。妖の者にも施して下さいました。」
皆が固唾をのんで二人を見守る中、薬師の男は再び、その薄い瞼を閉じた。周りから落胆のため息が漏れる。
「やはり容体は、一進一退ということでしょう。」
と弟子の妖が言った。
「‥でもさっき、少ししゃべったよ。もしかして、ボクのこと分かったんじゃないかな。」
弟子の薬師たちの会話に、慌てて少年が横から言葉を挟む。
「‥三代目、申し訳ありませんが、それは譫言でしょう。病の症状の一つに過ぎません。」
「‥そ、そうかな。」
心のどこかで回復を期待していた少年は肩を落とした。
「今は様子を診ていくしかありません。しかし場合によっては‥。」
弟子たちが一斉にリクオを振り返った。
「三代目には薬師一派に古老会の手が及ぶ前に手を打っていただかなくては‥。鴆さまは、根回しの策に優れておりませんでしたから。」
「まさしく、その通り。人の血の入っている三代目に心酔していた我が頭領は古老会の懐柔には全くの無策。」
「三代目には責任を感じていただき、亡くなられる前に新頭領の仮襲名の回状を回していただきましょう。」
「古老会は既に動いているとの一報も入っています。さすれば鴆一族の血を受け継がない者たちには不利。」
口々に不安を述べていく弟子たちの中でリクオは目を伏せた。薬師の仕事には熱心で優秀でも、不器用な鴆。その生き様が、彼の人となりを彷彿とさせるが、この状況下では下に付く者たちに取れば悩みの種に過ぎないのだ。
少年がそう思った次の瞬間、ゆらりと人間の少年であるはずのリクオの姿が揺れ、巨大な妖気が漂った。リクオが静かに顔を上げる。その容顔は様変わりして、妖しく美しく、瞳は熾火の如く紅く底光りしていた。‥先ほどまでは、ただの人間の少年であった筈。だが今は凄まじい妖異の気配を放つ三代目と化している。リクオは弥々切丸を膝へ引き付けると右手で持った。
「‥必要であれば、策は考えてやる。てめぇらは、ぐだぐだ文句言ってねぇで、今は鴆の回復に努めろ!てめぇらの大事な組長だろうが!奴良組には親分を大事にしねぇ乾児共は許さねぇぞ!」
リクオの放つ威圧感と畏れに弟子たちが震え上がった。自分たちが三代目を、ただの人の子だと思って軽んじたことを悟られたのだ。
****
燭台の仄暗い灯りの中に男の白く広い背中が見えた。纏わりつくような紅緋色の紋様が官能的に背から腰までを彩っている。香油の塗られた右手で長い髪の中へ手を差し入れて梳いてやると、萌黄色の髪の毛がするりと指の間を流れ落ちた。項に唇を当て、両肩を両手で撫で、そのまま胸へと手のひらを滑らせていく。香油の芳しい香りが匂い立つ。しっとりと潤った掌で平らな硬い胸を撫で上げる。それに呼応するかのごとく、その男の顎が仰け反るように反った。恍惚した表情を浮かべたまま、その眼は閉じられている。
‥美しい男だった。己は、その愛しい男の名を呼ぶ。その声に答えるように、男が双眸を開いた。澄んだ萌黄色の瞳が開いた瞼の下に現れ出る。
柔らかに微笑んだ男の面差しに、うっとりとして右手を、其のまま下腹部へと滑らせていく。柔らかな茂みを掻き分けて辿り着いた男の力強く硬くなった雄を丁寧に愛撫してやる。すると男は掠れた声で己の名を呼んだ。
****
「リクオ様。」
少年は我に返った。
「‥な、何?」
足元で鴉天狗の声が聞こえ。リクオは目を見開く。
「やはり、お疲れのようですね。」
少年が面を上げて周りを見ると、先程と同じく病の鴆の横たわる部屋だった。すぐ目の前には褥に臥せっている鴆の姿が見える。正気に戻った少年は慌てて自分の両手をじっと見つめた。香油の心地よい香りはない。滑らかな感触も残っていなかった。右手は自分の胸の下に伏せていた男の弾力ある性器を優しく撫で摩っていたはずだった。目の前で広い肩が震えていて‥深い呼吸が聞こえて‥。
‥まただ。ここへ来てから、何かがおかしい。いや、既にここへ来る途上、眠りに落ちやすくなっていた。乗り物の中で起きていることができなかった。‥気のせいだろうか。妙な夢に引きずり込まれやすくなっている。
少年は目の前の薬師の男を凝視した。
夢の中に出てくる男も萌黄色の髪の色をしていた‥。瞳も萌黄色で‥。
鴆が倒れたことで、動揺しているのだろう。その容体が芳しくないことも、自分に並々ならぬ不安と焦燥を与えてしまっていることも事実だった。
「リクオ様、どうされました?」
供として付き添ってきた黒い鴉妖怪が気遣うように少年の顔を覗き込んでいた。
「‥ごめん。また、一瞬眠っていたみたい‥。お見舞いに来て、ボク、一体何しているんだろう。情けない三代目だよね。」
声を潜めて鴉天狗に答えた。そして、周りを見回すと弟子たちが怯えたようにリクオを眺めている。
「‥みんな、一体どうしたの?」
リクオがひそひそと鴉天狗に尋ねる。
「‥何をおっしゃっているんですか。リクオ様が、お叱りになったんじゃないですか。」
それを聞いた少年は腕を組み、指を頬に当てた。
「‥確かにそうだけど。でもボクは、当たり前のことを言ったまでだよ。薬鴆堂に弟子として迎えてもらったんだもの、薬師一派の頭領でもあり、薬鴆堂の師匠でもある鴆くんが、こんな風に倒れたんだから全力で助けてあげるべきでしょ。それが乾児たちの役目だもの。曲がりなりにも薬師の組員なんだしさ。」
鴉天狗が大きく頷いた。
「‥それよりリクオ様。隣の部屋で少し休ませてもらいましょう。朝餉も中食も、まだ召し上がっておられませんでしたよね。リクオ様まで倒れられたら、鴆様が悲しまれます。」
その言葉に少年は、薬鴆堂を訪れると、鴆が必ず酒か食事、昼の姿の時は菓子などを出してくれたことを思い出した。普段は不愛想な癖に、嬉しそうに一瞬、顔を綻ばせる薬師の男。
「‥うん、悪いけど少し休ませてもらうね。やっぱり少し疲れているみたいだから。」
少年は、今度ばかりは素直に同意した。
あとがき
取りあえず、続きました。この先も続くといいな‥( ̄▽ ̄;)
関係ないですが、私、以前、薬鴆堂って奥多摩くらいにあるって勝手に想定していました‥。鴆一派って神奈川だったんですか‥。
んじゃ、丹沢くらいに‥思っていたらいいのかしらん。皆さん、丹沢ってご存知でしょうか?
あと、関係ありませんが「鶸色」→「萌黄色」に変更になっています。
岩絵の具で色を確認したら、思っていた以上に明るい色だったので‥。(-_-;)
山帰来4へ
BACK