晩秋 3
紅葉に彩られた獣道のごとき山道を、羽根紋様の長羽織の男は一人歩いていく。
さくさくと小気味よい音を立てる足元には赤や黄色の落ち葉が降り積もり、さながら天然の毛氈のようだった。滅多に人の通らぬ荒れ果てた間道は、谷の方へ向かって、緩やかに下っていた。男は気が急いているのか、次第に急ぎ足になっていく。だが、懸命に見渡していても、どこにも民家は現れそうになかった。続いているのは燃える様な紅色に染まる木々に覆われる秋山の風景だけだ。
ところが、男が突然足を止める。男が立ち止まったところには、苔むして風化した小さな符が刻まれた石の碑がある。五箇所ある結界の印の一つでもあった。
男は夕暮れが始まろうとする空を見上げた。頭の上を塒へ戻ろうとする鴨が三羽、群れて飛んで行く。よく見れば、その群れも結界へ近づくと、北へ北へと、不自然なほど大きく回りこんで飛んでいくのが分かる。獣は人より、気配を知る能力が優れている。通れぬ場所は、避けて通るのが道理なのだろう。
鳥妖の男は、再び足元へ視線を移すと、落ち葉に埋もれ、朽ちかけた古い碑を暫く凝視していたが、谷の方を見遣り、男は何事もなかったように、前へ進む。
男が進むと見えないはずの空間が撓み、結界が張り詰め、小さく戦慄いた。その感覚に、一瞬、男は不審げな表情を浮かべる。されど、拒まれない。薬師一派の頭領として、男は通る権利を有しているのだ。男は、一歩、また一歩と確かめるように結界を踏み越え、先へ歩を進めた。
![](GA169-1.BMP)
夕暮れの時間が迫っていた。
少年は、息せき切って落ち葉の積もる勾配のなだらかな山道を駆け下っていた。足元では、厚く積もった落ち葉が、ざくざくと音を立て纏わり付き、足を取られて均衡を崩してしまいそうだった。三羽烏たちに伴われて、民家に近い結界の傍まで接近することは出来た。だが、存在しているという強力な結界に大事な鴉たちを傷つけられることを嫌ったリクオが、それ以上の同行を断り、人間の身のままで単独行動を決断せざる得なかった。あと少しの時間で夜の姿を取れるというのに、身勝手な行動を取った鴆のせいで、それも叶わない。やりきれなくて思わず心の中で舌打ちをする。
さらに、辺りはゆるゆると陽は傾き始め、空が燃える様な茜色に変わりつつあった。今日という一日が終わろうとしてる。
少年は、平らになったところまで一気に駆け下ると、さらに黄金色のブナと緑の笹が生い茂る大きな雑木林の突っ切る細道を、一直線に走り抜ける。人間の身では息が上がり苦しかった。懐に収めた大事な白鞘の弥々丸までもが重く負担になっている。
そして、漸く大きな雑木林を抜けると、今度は、突然視界が開けた。
鬱蒼とした雑木林を懸命に駆け抜けた少年の目の前には、純白の花を付けた薬草の花畑が一面に広がっていた。その彼方には屋敷があることを示す藁葺の朽ちかけた小さな長屋門が見えている。
どうやら目的地へ辿り着いたらしい。そのことを理解したリクオは、ようやく足を止め、前屈みになって両膝に両手を手を付き、息をぜいぜいと整える。次第に呼吸が落ち着いてくると上体を起こして、今度は、懸命に辺りを見回した。
見れば、向こうの山の麓まで、白い花畑が続いている。少年は、その花畑の中央に目を留めた。
--羽根紋様の長羽織の男が、薬草の広く白い花畑の真ん中で立っている。
視界の隅には、藁葺の長屋門が映っているはずだというのに、男は何故か屋敷へ足を向けることなく、薬草畑の真ん中で立ち竦んだままだった。
リクオは再び表門と屋敷の方へ視線を移す。確かに人の気配も妖の気配もなかった。結界を通った時点で先触れが届いている筈なのに、初めて訪れる三代目に出迎えはなかった。眷属のみで構成されている小さな組に手抜かりが起ころうはずもなく。
ただ、茜色に変わり行く夕空の下、ただ真っ白な花野が広がっていた。大きな白い花々が、秋の暮れ空の中で、儚げに揺れている。そのかげろうのような美しさに、リクオは夢を見ているようだった。薬草畑、などという、無機的な畑ではなかった。表門のある屋形の向こうにまで、純白の花群続いている。最早、屋形が畑を持っているとと言うより、白い花野の中にというより、ぽつんと家屋敷があるといっていい状態だった。
見つけた薬師の男は身じろぎもせず、少年に背を向けたままで、茫然として花畑に立ち、羽根紋様の長羽織を、強い秋風に、はためかせていた。
茜に染まる空と鱗雲。見渡す限りのこの世のものとは思えぬほどの純白の花野。その真ん中には、三代目の自分が浅からぬ情を抱く妖鳥の血を受け継ぐ男が藤色の羅紗羽織に包まれて佇んでいる。
‥美しい光景だとリクオは改めて思った。
少年は、何かに魅入られ誘われるように、道から逸れると、かさりと腰から花畑へと入っていく。少年の無粋な侵入に、さわさわと真っ白な花弁が儚く散り、秋風に舞った。
リクオの目には、藤色の羽織を纏う大きな背中の男の後姿が、一歩、また一歩と近づいて来る。やがて少年は、男の真後ろに立つことになった。
「‥綺麗なところだね、鴆くん。」
すぐ背後でリクオは声を掛けた。だが男は身じろぎ一つしない。出し抜いたはずの三代目の登場を気にも留めていないのか、或いは敢えて動揺を見せまいとしているのか、その姿は微動だにしなかった。
「‥鴆くん、抜け駆けは禁止したはずだよ。総大将のボクの指示に従わうべきだと思わないの。」
憤りを込めた言葉を、少年が吐く。けれど男は振り返らない。
「あと一刻ほど待てば、夜のボクの出番なのに、どうして待ってくれなかったの。」
少年が問えば、男は背を向けたまま、静かに答えを放つ。
「‥この件は、オレの縄張りだ。オレが、全責任を持って請け負っている。それに関しちゃ、総大将のおめぇにも口出さされる筋合いはねぇよ。」
「‥他ならぬ、『義兄弟』のボクが言ったことでも?」
少年は、自分が特別な寵を与えているのだということを、匂わせるように艶めいた口ぶりで畳み掛ける。すると男の顔だけが、少しだけこちらを向いた。
「‥ここで、オレたちの仲のことを持ち出すなんざ、総大将のすることじゃんねぇ。情に溺れて、総大将らしからぬ安っぽいことをするんじゃねぇよ。」
片顔を見せている男は、感情のない平淡な声で言い放った。
三代目の権威を振りかざそうとしたリクオは、鴆に軽く往なされたのだ。リクオは、心ならずも、思い上がりを知らされてしまっただけだった。所詮、自分より年長で一派の頭領として凌いできた男に使える手段ではあるまい。浅い考えしか抱けなかった少年に取り付く島などなかった。
其の時、さあっと風が吹き抜け、目の前の見渡す限りの白い花が波のようにうねった。秋の風が白い花畑を渡っていく。あまりの美々しい光景に、リクオは息を呑んだ。
「‥見事だ。」
少年の口から、感嘆の言葉が零れ落ちる。
「ここは、‥夢のように美しいところだね。こんな見事な花畑見たことないよ。これが、全部薬草だなんて、ボクには信じられないくらいだ。」
少年は、右手で純白の花を掬う様に包み込み、うっとりと眺める。
「‥リクオ。」
男が、少年の方を振り返った。
だが、少年は、その男を見て身動きが取れなくなる。何故なら、男は冷たい萌黄色の目でリクオを見下ろしていたからだった。その眼差しは、静かな怒りに満ちている。
「‥一体どうしたの。鴆くん。何を怒っているの。ボク、鴆くんを怒らせるようなこと言った?」
予想外の男の反応に、人間の少年は動揺を隠せない。色を失ったままの表情の少年の前で、男は、懐に右手を入れた。そして、その懐からは、鍔のない黒石目の小脇差が現れる。男はそれを胸の前で両手で持つと、そっと鞘から、刀を引き抜いた。
「鴆くん、一体・・」
男は刀を抜き去ると、辺り一体の純白の花々を薙ぎ払った。銀色の刃が茜色の夕暮れの中で閃き、柔らかな花弁を持つ優美な花が、花芯を失い頭ごと落ちていく。まだ開かぬ蕾も開きかけの瑞々しい若花も容赦なくなぎ払う。風が吹き、茜色の空に、白い花が無残に散った。
「・・鴆くん!やめて!こんな綺麗な花野を荒らさないで!気に障ることを言ったのなら、謝るから!ここの花は、少しも悪くないよ!」
人間のときは、人一倍感受性の高いリクオが、男を止めようと走り寄り、その腕に縋り付いた。ようやく男が手を止め、少年は、ほっとする。
「・・リクオ、鴉たちを呼べ。結界なんか、有名無実になってやがる。ある程度、妖力があれば、入ってこられる筈だ。」
険しい表情のままで、男は少年を見た。
「わ、わかった、鴆くん。鴉たちを呼ぶから。だから花に酷いことしないで。薬師一派には、とても大事な薬草なんでしょう。」
「・・まあな。」
男の答えに、少年は胸を撫で下ろした。だが、男の表情は厳しさを増している。
「・・リクオ、お前は、この花畑から出ろ。・・ここは全て焼き払う。」
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「・・今、なんて言ったの?」
少年は男の言葉を疑い、問い直す。
「・・全て焼き払う。それだけだ。」
少年が驚いた目で、男を見つめた。
「焼き払うって、凄い広さだよ。見渡す限り、白い花畑だもの。」
男の表情は固かった。
「ここだけじゃ、ねぇ。どうも屋敷の敷地の屋敷畑にまで植えられているようだ。昔、親父が、あれほど厳しく咎めたのに、連中、また懲りもせず畑を広げてやがる。見渡す限り薬草畑なんざ、狂気の沙汰だ。」
「昔も・・って。」
少年が尋ねる。
「ここで育ててもらう、この薬草は全て買い取る代わりに、薬師一派で決められた栽培量を守ってもらうことになっている。それを代が変わるたびに、盃事と血判状で約束してもらっている。それが大事な掟でも在ったんだ。」
「じゃあ、鴆くんが、以前来たのは・・。」
「いよいよ親父が終わりだろうって観念して、オレの代へ引き継ぐことになった。それで改めて盃と血判状のために来たんだ。」
「薬師一派は、こういう方法で、薬草を確保しているの?」
鴆は、溜息を付いた。
「普通は、そんなことしねぇよ。ここの薬草は、特別なんだ。言っただろ、使い方によっては、毒になるって。」
男の声は少し緊張していた。そして、抜いた刀を振り、再び鞘へ収める。
「‥それにしても、リクオ。わざわざ、昼の姿のままで、後を追ってきたのか。」
少年は頷いた。
「‥小屋で、鴉どもと待ってればいいのによ。」
リクオは首を振る。
「でも、鴆くんの身に何か起きたらと思ったから‥。」
男の溜息が聞こえたかと思うと、男は花を押しのけて少年のところまで歩み寄り、突然、その細い腕を掴んで少年の身体を自分の胸の所へ抱え込んだ。
少年の頬が男の広い胸に押し付けられ、背中から腕で強く抱きこまれる。腰には、男が持っている脇差の鞘が当たっていた。男の長着の袷からは、馴染んだ男臭い匂いがする。奪い奪われ、全てを分かち合った男の匂いだった。そういえば、昔こんな風に抱きしめられたことがあったことを思い出す。今は亡き父が、大きな出入りがあった後、本家へ帰ってくると、迎えに出た自分を無言で抱きしめてくれたものだ。
----そして今、自分を抱きしめている男も同じく、無言のままで。
其のときと同じように、リクオは男の胸で、その規則正しい鼓動を聞く。
その鼓動を聞きながら、少年は、どうして自分の恋の相手は、年頃の少女でもなく、年上の女でもなく、幼い頃から見知っている無骨な男なのだろうと思った。・・けれど、どんなに考えても、一度も、その答えを見出せたことはない。
「‥リクオ、おめぇ、莫迦だ。先の短けぇ猛毒鳥のことなんか、気にかける必要はねぇんだよ。こんな事なら、オレは、おめぇの身体を奪うんじゃなかったな。今みてぇにオレに変な情けを持つんならな。」
男は、そう呟いた。
あとがき〜
と・・取りあえず、続いています・・。
もう飽きてきて、他のお話書きたくなってます(冷汗)
長い文章を書いている方、尊敬します・・。凄いです。
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