小夜の状態は、急速によくなりつつあるようだった。次に目を覚ますときは、喉の渇きを訴えるかも しれない。いつもなにやら、頬張っている小夜のことだから、何か食べると言い出すかもしれない。 やはり、様子を見計らって、食堂に行き、簡単なものでも用意してもらった方がいいだろう。 「ハジ!」 ハジが食堂に入って来たのを、いち早く見つけたリクが、大急ぎで呼び止める。 厨房にいた彼は、嬉しそうにカウンターに駆け寄ると、顔を出した。 「ハジ、小夜姉ちゃん、目を覚ました?具合はどう?熱下がりそう?」 独りで捲し立てるリクを、ハジは無言で見つめる。 「---熱は、下がってきていると思う。」 「じゃあ、小夜姉ちゃん、そろそろ目を覚ますよ!そして、きっとお腹空いたって言うよ!ね、ルイス。」 リクと一緒に厨房にいたルイスは、さもおかしそうにリクに同意する。そして、ハジの方を見ると 親しみのこもった態度で聞いた。 「ハジ、何か、必要なものはあるかい?そのために来たんだろ。」 「・・小夜に飲み物を・・。あと、出来れば消化のよいものを・・。」 「あいよ。また、特製ジュースを作ってやるよ。少し待ってな。」 ルイスがカウンターに置いてある皿からビスケットを一つ摘んで口に放り込むと、厨房の奥へ入る。 しばらくすると中からミキサーのモーターが回る音がしていた。 「・・あのね、ハジ。」 リクは、少し背後を気にしながらカウンターに身を乗り出すとそこへ頬杖を付いた。 「・・・実は、お願いがあるんだけど・・・。」 その声は、遠慮がちだ。 「・・・・・・・・・・。」 「・・あのね、後でいいから、チェロ弾いてくれるかな。」 「・・・・・・・・・・」 「・・僕、ハジの弾くチェロの曲が好きなんだ・・・。」 リクの瞳には、純粋なハジへの崇拝の気持ちが含まれていた。思春期に入った者がしばしば、 そうであるように。リクのまっすぐな視線にハジは、少しの時間ためらい、そして無言で頷いた。 「ああ・・よかった。じゃあ、あとで!きっとだよ!」 ルイスが奥でリクを呼んでいた。リクは、呼ばれるまま奥へ行くと飲み物とリゾットが載せられた プラスチックトレーを持って現れた。 「はい、これ。もし、足りなかったら、言ってね。」 そして、少し声を潜める。 「・・小夜姉ちゃん大食らいだから、足りないかもしれないんだ。でも、こんな食いしん坊じゃ、いつか、 ハジに嫌われちゃうよね。小夜姉ちゃんたらね、時々、カイ兄ちゃんより食べたりするんだよ。」 ハジが黙ったまま、リクからトレーを受け取った。そして、食堂を後にする。 まだ、あどけなさの残るリクは、どこか眩しい。難しい年齢になりつつあるリクは、兄であるカイとは 違う自分に話したいことがあったり、聞いて欲しいことがあるのだろうとハジは思った。そういう面では、 リクは、ルイスやデヴィッドの側にいることも多くなっていた。逆に少女である小夜からは、自然と 距離を置きつつあるような気がする。 ハジは、昔もあのような少年たちに何度も出会ったことがあった。成長しつつある彼らは、今の リクと同じく、ハジから聞きたいことがあり、聞いて欲しいことがあったに違いない。彼らは皆、大人に なっていった。そして、親になった者もいたし、戦争で死んだ者もいた。或いは、過酷な労働で、 或いは、病に犯されて亡くなった者もいた。運に恵まれた者は年老いることを許されたものだ。そして 今は、その誰もが、この世を去り、冷たい土の下で眠っている。 どこか幼さの残るリクもまた、残念ながら、いつの日かこの世を去るだろう。病んで、もしかしたら 事故で、もしくは、老いてこの世を去る。ハジにとってみればそう遠いことではない。直のことだ。 自分は、今までと同じように、その墓標の前で、白い花を手にして立っているのだろう。 今までと同じように。 小夜とともに。 ハジはトレーを手にしたまま立ち止まり、目を閉じる。この世に残された彼は、ただ独り、瞑目する しかなかった。 飲み物と食べ物を手にして、部屋に戻ってみると小夜は相変わらず、ぐっすりと眠っていた。規則 正しくなりつつある寝息が、小夜の症状の回復を告げている。熱のこもった苦しげな息づかいは もうない。小夜に近づくと辺りには、少女の汗の甘い匂いが漂っていた。 ハジは、食堂から持って来たトレーをテーブルに静かに置く。気のいいルイスがわざわざ用意して くれたリゾットは、まだ湯気が立っていた。温かい内に食べられるように、小夜を起こした方が いいのか、このまま、ゆっくり眠らせてやった方がいいのか、よくわからなかった。見れば小夜の 枕の上の髪は乱れたままだ。その黒い髪を指先で丁寧に整えてやり、毛布を引き上げ、細い肩が 隠れるように掛けておく。彼女は、小さな簡易ベッドで安心しきったように眠り続けていた。 ハジは、しばしの間小夜を眺めていたが、再び傍らの椅子に腰掛ける。椅子は軋んだ音がして、 今にも壊れそうだった。前屈みで両膝の上にそれぞれ肘を起き、両手を組む。 ふと組んだ手元を見ると、右手に巻いた白い包帯が、少し解けていた。解けた包帯の下に醜い形を した指が少し見える。気がつけば、この右手は、熱さも冷たさも痛みさえもほとんど感じない手と なっていた。 時折、この右手の急激な筋肉の肥大が起きるときは、きつく巻き付けた包帯さえ、その強い筋力の ため、いとも簡単に裂けてしまうのだった。その鋭い爪を隠し持つ手はすっかり赤銅色に変色して おり、厚い爬虫類のような皮膚に覆われていた。その皮膚の下には、人外で強靱な筋肉が潜んで いるのだ。 小夜を守り、翼手と戦うための手。昔、繊細な弦の感触を確かめるために、弓を持った敏感な 芸術家の手には、あまりにも、ほど遠い手だった。 ---これで、よかったのだ。 後悔など、どこにもない。だが、小夜が、30年前のベトナムでの筆舌に尽くしがたい経験の後、深い 眠りについたその時は、こんな日が来るとは思っていなかった。小夜が30年かけて、心の傷を癒し、 辛い経験を忘れてこの世界に戻ってきたとき、彼女が眠りの彼方へ忘れて来てしまった記憶に、 まさか、自分が含まれているとは、思ってもみなかった。 この胸の内を焼くような痛みは何だろう。言葉にもすることの出来ぬ哀しみは何だろうか。声に 発することも出来ぬこの苦しさは・・・。 長く長く生きて、気がつけば知人は生きている者より、死者の方が圧倒的に多くなっていた。 生きている者たちより、この世から去った者達の方が身近に感じられるような生を生き続け、そんな 生を共に生きたはずの小夜は、本当に全てを忘れていてしまったのだから。 ハジは、椅子から立ち上がり、窓際まで歩いていくと、チェロケースを手に取った。さらに、小夜の 刀も収められているそのケースを静かに開ける。そこには、人の手によって作られた官能的な 曲線に囲まれている艶やかな楽器が横たわっていた。ハジは、迷うことなくそのチェロを手にする。 自分の愛する音楽もまた、刹那に、だが時を越えて生き続けている。おそらく永遠に人々に魂を 与えられつつ。 そして、忠実なる従者ハジは、愛しい少女の名を呟く。 時の彼方から心を込めて。 「小夜。」と 閲覧をありがとうございます。帰路シリーズは、これでおしまいです。 お話を読んでいただき、感謝いたします。 帰路1へ BLOOD+ファン関係TOPへ |