ベトナムの小さな港を出た船は、再び沖縄を一路、目指していた。外から船室に流れ込んでくる
風は、すっかり涼しい。
 ハジは小さな船窓から外の景色を眺める。果てしなく続く空も海も相変わらず、輝くように碧かった。
だが、波は荒い。船も大きく揺れている。秋になり、近くの海域を通っていく台風の影響かもしれなか
った。小夜の帰りを待つ日本も、もう秋になっているだろう。

「・・ハジ・・。」
ハジは、部屋の隅のベッドの中から聞こえる少女のか細い声に振り返り、そして、急いで近寄る。
「・・ハジ・・。」
少女は、再び彼の名を呼んでいる。背の高い青年は、声の主のベッドのところまで来るとその少女の
顔を上からのぞき込んだ。
「---小夜。気分はどうですか。」
「・・うん。少しよくなったかな。・・でも、まだ何か凄く身体がだるいの・・・。」
「かなり、高い熱ですから。」
「・・・うん。身体が熱い。」
ハジは、小夜の言葉に火照った頬に手を触れた。熱い。
「・・なかなか熱が下がらないですね。大丈夫ですか。」
「うん・・大丈夫。ジュリアさん、診に来てくれたし。」
「ええ・・。点滴してくれましたね。気分はよくなりましたか。」
小夜に問いかけながら、ハジが、小夜に毛布をかけ直す。
「・・・うん、少し。でも、なんか眠いの・・。」
ハジに返事をしながらも、次第に言葉があやふやになってくると、小夜は、また目を閉じ、うとうと
し始めていた。彼女が眠ってしまうと、また、部屋が静かになる。足元に、船の底からの独特の
振動音と荒い波の音が伝わってくる。船は相変わらず、揺れていた。

 しばらくすると、今度は通路を誰かが走ってくる音がした。その音がぴたりと部屋の前で止まる。
ドアがノックされた。
「---どうぞ。」
ハジが答えてやる。
その声を受けて、鋼製の細いドアが、静かに開かれた。
「・・・あの、ハジ。小夜姉ちゃん、どうなのかな。」
穏やかな声で、少年が少し開けたドアの隙間から中をうかがっていた。
「---まだ、熱が下がらないが。」
「ハジ、小夜ねえちゃん、大丈夫だよね。」
「---たぶん。」
「ハジ、僕、中へ入ってもいいかな。」
「どうぞ。」
少年は、音を立てぬよう、忍び足で部屋に入ってくると、後ろ手でドアをそっと音を立てぬよう
ゆっくりと閉めた。
「ハジに、任せちゃってごめんね。小夜ねえちゃん、我が儘言わなかった?大人しくしてた?」
「---別に何も。」
「ほんと、今日は僕大変で・・。カイ兄ちゃんは、ものすごい船酔いになっちゃうし、ほとんど風邪
なんか引いたことのないような小夜姉ちゃんが熱出しちゃうし、デヴィッドさんは、まだ怪我が治って
いないから、ジュリアさん、あっちに行ったりこっちに行ったりして忙しそうだったよ。あと、僕、ルイス
さんのいる厨房も手伝いに行かないと。」
ハジは懸命にしゃべるリクの話を、無言で聞いている。
リクは、小夜の寝ているベッドの側へ行くと小夜の様子を熱心に観察していた。そして、手を小夜の
額へ当てている。
「わあ・・。凄い熱だね。それに、沢山、汗をかいているよ。ジュリアさんの医務室にある着替えを
使わせてもらわないと・・・。」
リクの心配げな物言いにハジが口を挟んだ。
「---リク、換えの病衣なら、もう用意してある。」
「なんだ、そうなんだ。ありがと、ハジ。小夜姉ちゃんが目を覚ましたらちゃんと着替えるように
言ってね。」
ハジが、無言のまま頷いた。
「---リク、カイは?」
今度は、ハジの質問にリクが答えてやる番だ。
「ただの船酔い。でも、辛いらしくて・・。横になっているしかないみたいなんだ。」
そして、長身のハジを見上げて親しげに話しかけた。
「あの・・来たばっかりで悪いけど、僕、もう行かなきゃ。これから厨房で夕飯の支度を手伝ってくるね。
何かあったら呼んで。」
リクは、忙しそうにドアを開けて再び出て行こうとする。その時、ふと手を止めてハジの方を振り
返る。
「・・・ねえ、ハジ。僕、忙しいくらいがいいや。でないと、ムイのこととか、ベトナムでのいろんな
事を思い出してしまいそうで怖いから。・・・思い出すと辛いんだ。」
最後は独り言のように小さな声でそういうと、ドアをそっと閉めて、静かに出て行った。ハジは黙って
彼を見送ってやった。少年が出て行ってしまうと、部屋は再び静かになる。

 ハジは、ベッドの脇の粗末な椅子に腰掛けて、眠っている主の顔を眺めてみる。熱のせいなのか、
少女の顔は、少し火照っていて赤い。息にも少し荒さがあった。熱で苦しいのか、時々うわ言のような
ことを言っている。ずいぶんと汗もかいているようだ。このことは、リクも気にしているようだったし、
着替えは、用意してあるのだから、こちらで勝手に着替えさせてもよかったのだったが、あとの小夜の
大騒ぎを想像すると、憂鬱になり出来なかった。

 今の小夜には、「ハジ」という男の記憶などないに等しい。遙か昔から、ずっと側に控え、世話をし、
愛しんできた従者の想い出など、どこにも存在していない。
 今の小夜にとって、身近な存在は、今は亡きジョージと兄弟でもあるカイとリクだけだった。自分は、
小夜の記憶のどこにも存在してはいない。

 ハジは、ぼんやりと目を閉じる。小夜との想い出は、胸の内にしまってある。いつでも、取り出す
ことが出来る。いつでも、昨日の出来事のように鮮やかに蘇ってくる。この胸の内では。


 ・・・見えるのはどこまでも続く真っ白の雪野原だった。道も凍り付く想像を絶する冬の寒さの中で
旧都のモスクワからの鉄道に乗ったり、さらに点在する村や町で馬を変えながら、運河に面した
都を目指した日々。換えの馬が調達できずに、逗留せざる得なかったり、道の凍結が酷く、馬が
使えず動けぬ日もあった。サヤの少し不安そうな表情が思い出される。小さな宿で暖まりながら、
二人で吹雪の収まる日を待ったときもあった。
 訪れた北の都の花の咲く春、日の沈まぬ美しい夏、黄金のような輝きの秋、氷に閉ざされる冬。
その都の美しさとは別に、落日の帝国のあちこちで暴動が起き、大きな革命へと変わりつつあった。
考えてみれば、近代化に失敗した帝国の崩壊が始まっていたのだ。狂乱の最中、革命を逃れ、港の
厚い氷が溶けるのを待って、船で急ぎ旅立った貴族や資産家達・・・。


 何処かで物音がして、ハジは目を開けた。気が付かぬうちに、不覚にも少し眠ってしまったらしい。
小夜はすぐ脇のベッドで、いつのまにか、気持ちよさそうに寝息を立てている。気がつけば、日が傾き
始めていた。船室に入ってくる日差しは、弱くなっており、もう秋の気配を漂わせている。
 柔らかな日差しの中でぐっすりと眠っている小夜の様子を眺め、彼は、そっとその首に左手の甲を
当ててみる。ようやく熱が下がり始めたようだ。小夜は、触れたハジの手がくすぐったいのか、
もぞもぞと落ち着きなく身体を動かした。しかし、目を覚まさない。そんな艶めいた動きをされると、
こちらまで落ち着かなくなってくるとハジは思う。いつもそうなのだが、小夜は「ハジ」が実のところ
「男」であるという認識がどうも薄いようだった。考えてみれば、仕方あるまい。
 ハジは小夜の首から手を離すと、毛布を小夜の肩まで、ふわりと掛けてやった。








戻る(Back)                               帰路2へ
帰路1