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いつの日か 1





穏やかな明るい午後だった。広々とした庭園には薔薇の咲き誇る花壇が連なっていた。降り注いでいる柔らかな日差しの中で花々が美しく揺れている。その光景は、まるでおとぎ話に出てくるお城の中のようだと少年は思った。ここへ来て3ヶ月あまり。まだ、夢でも見ているかのような気さえする。
少年は、咲きかけの淡い色の薔薇の花びらを傷つけないよう、鋏で丁寧に切り取った。
そっと手でもって顔を花の中心へを近づけると鼻梁を擽る高貴な香りがする。そして、鋏を腰の革ポケットにしまい、切り取った花を一本ずつ丹念に束ねて、そっと手の中に持った。花の形が崩れぬよう大切に両手で抱える。さらに、立ち上がるとその足で足早に館の勝手口へと向かった。

 だが、館へ息を切らせて戻ってきたハジを待っていたのは、裏口のところに仁王立ちになっていたアンシャルという男だった。

「・・ハジ!お前は、今まで一体どこをほっつき歩いていたのかね。」
その声には恐ろしいほどの威圧感があった。彼は、ゴルトシュミット家の客人にすぎないはずなのに、不思議なことに、この家で大きな発言力を維持している。厳めしい容貌の男に睨み付けられた少年は、薔薇の花を抱えたまま、思わず立ちすくむ。

「・・・ごめんなさい、アンシェルさん。でも、サヤに部屋に飾る薔薇の花を摘んでくるように言われたんです・・。それで・・」
少年のその言葉に屈強な男が眉をひそめる。
「今日は遠方より、お客人がお見えになるから、きちんと客間を整えておくよう、言っておいたはずだが!」
「・・・で、でも、サヤが・・。」
少年の声が小さくなった。
「また、お前は二言目にはサヤ・・と。そんな何の役に立たぬ花など後で取ってくればよかろう!」
頭上から降ってくる怒鳴り声に少年は、思わず身を縮めた。
「・・だいたい、お前は誰のおかげで日々に糧を得られるようになったんだ!もし、あのとき、私がお前をこの城に連れて来なかったら、お前など、今頃冬を越せず飢え死にしていたはずだ!この役立たずが!」
男から加えられた侮辱的な言葉に、それまで大人しく俯いていたはずの少年は、突然、顔を上げ挑戦的な目つきをして髭の男を睨み返した。水色の瞳に灰色の暗い陰が宿る。
「・・・何だ!その目は!」
少年の生意気な態度に怒りを覚えた男の手が振り上げられた瞬間、ホールの奥へと続く廊下でさわさわと軽やかな衣擦れの音が響いた。そして、廊下の曲がり角のところから、薔薇色の華やかなドレスに身を包んだ少女が一輪の花のように現れる。
 その姿を認めたアンシェルは、諦めたように振り上げた手を下ろした。
「・・・あら、一体、何の騒ぎ?アンシェル。・・・まあ、ハジじゃない。遅かったわね。」
少女は、アンシェルの方へ向き直る。それを感じた男が佇まいを正した。
「・・・ハジが、どうかしてアンシェル?」
少女の訝しげな様子に、男は、後ろへ一歩下がる。
「サヤ、・・・実は、ハジに今日いらっしゃるパリの科学サロンからのお客人のおもてなしの手伝いをするよう 言いつけてあったのですが、勝手に館を出てさぼったのです。それで、今注意していたところ
です。」
「・・あら、今日は、お客様がお見えになるの。珍しい事ね。私知らなかったわ。ジョエルのアンシェルも私に何も言ってくれなかったものだから、知らなかったわ。」
そして、少女は、アンシャルの前を通り過ぎ、少年に無遠慮に、つかつかと歩み寄った。
「---ハジ。私が頼んだ薔薇の花は?」
少女にせがまれて、少年は黙って花を持っている両手差し出した。少女は、その花を受け取る。
「・・・アンシェル。ジョエルから聞いていないのかもしれないけど、ハジは私の『お友達』として、ここへ連れてこられたの。だから、私の言いつけたことをさせているのよ。他の仕事をさせたら、『お友達』の仕事が出来なくて困るわ。」
「・・しかし、台所も人がやめまして、人が足りないのですよ。」
「・・どうせ、子供に出来る用事じゃないでしょ。それに怪我でもされて私の世話をしてもらえなくなると、とても困るわ。今後はやめてちょうだい。」
「・・・しかし・・。」
 サヤはアンシェルの顔を見ることもなく話しながら、ハジが手渡した薔薇の花を見た。
「・・・もう・・ハジ!何度言ったらわかるの?この色じゃないでしょ。私は赤がいいの。どうして、自分の気に入った色ばかり取ってくるのよ。さあ、もう一度行きなさい。庭師に頼まないで、私のために自分で切ってくるのよ。このお花は、仕方ないから今夜お泊まりになるお客様のお部屋に飾っておくわね。」
薔薇の花色が原因で、機嫌を損ねたらしいサヤは、ハジを扉から外へと促した。
「いいこと、赤い薔薇の咲いているところを教えてあげるわ。ちゃんと覚えるのよ。さあ、こちらへ いらっしゃい。」
サヤは、先に草色に塗られた古い壊れかかった木戸を出ると勝手に薔薇園の方へすたすたと歩き出していた。

   
 サヤがハジを連れてその場を去るのを見送ると、アンシェルは、苦々しそうに舌打ちをする。
「・・・子に顧みられない金持ちの科学道楽というのも考えものだな。ムッシュ・ゴルトシュミットも、あのような、所詮人でない者を愛娘のようにかわいがるとは・・世も末だな。それに、サヤのあの態度は何だ。この家の娘と勘違いして生きている。飼われている身のくせに・・。全く、当主ともあろう御方が・・・。老いぼれて、サヤの存在目的を忘れ、とうとう頭に焼きが回ったとしか思えん・・。」

 サヤは、ハジを伴って広い庭園を歩いていた。そして、庭の一隅にある赤い薔薇のひとむらを指差す。
それを見たハジが黙って、頷いた。
「・・・ところで、ハジ。アンシェルに何か言われたの?」
「・・・・・・・・・・。」
大人しい少年は俯いてしまう。
「・・・やっぱり、言われたのね。何を言われたか知らないけれど、あなたは、私の『お友達』なのよ。だから、他の仕事は、引き受けないでちょうだい。」
「・・・・でも。」
「・・・放っておけばいいのよ。今度、ジョエルお父様に言いつけてやるわ。彼は、何故かこの屋敷に住み着いているのよね。ジョエルお父様が、昔パリの科学関係のサロンで知り合ったと聞いたことがあるわ。」
ハジは、少女を見上げた。
「・・・ねえ、ハジ。どうでもいいけど、私のドレスを掴むのはやめてくれないかしら。とても歩きにくいわ。」 少年は、慌てて、薄紅色のモスリンドレスのスカートをしっかりと掴んでいた手を離した。
   
「ハジ。あの薔薇の花を取ってきたら、後は台所へ行って、お菓子とお茶を持ってきなさい。午後のお茶にするから。もちろん、『お友達』のあなたの分も持ってくるのよ。」

 少女はくるりときびすを返すと、楽しげな足取りで館の中へと戻っていった。少年はその優雅な後ろ姿を黙って見送る。
黒く長い髪が背中で揺れていた。歩くたび、その黒髪の間から色白のうなじが時々見え隠れする。肩の柔らかな曲線。細い腰。ドレスの裾を掴む長い指先。だが、彼には自分の心の奥底で渦巻く得も言われぬこの感情が何であるのかは、わからなかった。
少年はため息をつくと、重い鋏を腰の革ポケットから取り出す。そして、再び薔薇の花の付いた細い枝を切り始めた。



             *               *               *



 ハジは大きな格子窓の外を見た。気がつけば、空がにわかに暗くなり始めている。どうも、雲行きが怪しい。風もかなり出てきたようだ。直きに雨が降り出すだろう。この様子だと今夜は荒れた天気になるに違いない。
 ハジは、身を乗り出すように、広い庭をのぞき見る。何故か花摘みをした薔薇の咲く庭園のことが気になってしかたなかった。あの深紅の艶やかな薔薇が雨で散ってしまわないだろうか。そんなことが起きたら、あの薔薇の花を部屋に飾ること楽しみとしているサヤは、きっと酷く嘆くに違いなかった。
 外の景色に気を取られている少年の傍らで、少女はいらいらした様子で、彼を見つめていた。
   
「・・・ハジ!何しているの?私の話を聞いているの?何よ!さっきから、外ばかり見て、気もぞろじゃないの!あなたは、私の『友達』なんだから、私の話をちゃんと聞きなさい!」

サヤは、やおら椅子から立ち上がり、歩いていくとハジと窓の間に立つ。突然、視界を遮られたハジが、ようやく我にかえった。
   
「・・・どうしたの?サヤ?」
「どうしたの・・・って!やっぱり、私の話聞いていなかったのね!」
サヤは、頬を真っ赤に上気させて一人怒っていた。
   
「・・・この屋敷では、ジョエルお父様以外は、みんな私に冷たいわ!使用人も!あなたもね!」

自分の話を聞いていなかったハジの態度に、突然、癇癪を起こした少女が手に持っていた真っ白いナフキンを彼に投げつけた。

「・・せっかく、お茶もお菓子もに用意したのに・・・!」

そして今度は、何を思ったのか瀟洒なテーブル突っ伏して泣き始める。驚いた少年は、椅子から降りると慌ててテーブルのところまで走って行き、泣いているサヤの背中を撫でてやった。

「ご・・ごめん、サヤ。話聞くから。ちょっと天気が悪いのが気になっただけだよ。」
すると、テーブルに伏せて泣いていたサヤが顔を上げた。
「・・・本当?本当ね。じゃあ、いいわ。」
急に機嫌を直した少女は、涙を手の甲で拭う。
「じゃあ、ハジ。そのお皿のお菓子を取り分けてちょうだい。もちろん、あなたの分もよ。それとそのナプキンを拾いなさい。」
 ハジは、仕方なくサヤが投げて床に落ちた白いナプキンを拾うと彼女に渡した。受け取った気まぐれで、しかし無邪気な少女は、さも嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。