辺りは暗闇だった。
よく目をこらさないと何も見えない。そんな闇の中でどう猛な獣のような荒い息だけが近くで
聞こえてくる。小夜は、ずしりと重い刀を両手で持って身構えた。緊張で刀の切っ先が震えている
のがわかる。

---どこかにいる。

 耳を澄まし、五感を研ぎすませる。でも、視覚に頼りすぎてはいけない。
視覚は、時として判断を誤らせるものだ。
小夜はそっと、目を閉じた。

そう、あれらは、異形の者。

この臭い。
この気配。
あれは、餓えて獲物を求めている。
血を。
そして、私をも。

身体の中から、沸々とわき上がってくる恐怖にどうしていいかわからなかった。

 ほとんど何も見えないはずの闇の中で、その気配が、正面で一瞬退いたのがわかった。
恐怖を振り払い、すかさず、その間合いへ勢いよく走り入り込んで、上段に刀を構えた両腕を、
思いっきり振り下ろした。
肩まで響いてくる重い手応えがある。
と、同時に顔に生暖かい飛沫が、ぽとりと降りかかってきた。それが雨の滴のように頬を
流れ落ちていく。
ゆっくりと。

---・・何?

 その得も言われぬ不気味な感触に思わず、全身の力が抜ける。頭の中のどこかで、得体の
知れぬものが脈打っていた。意識が遠のきそうだ。頭が痛い。そろりと刀をおろして、片手で持ち、
そっと右手を頬に当てた。
 それは、ぬるりとしていて生暖かく・・・。異臭がする。
その右手をそっと目の前へ持ってくると、恐る恐る開いてみた。赤黒く、生臭くて・・。

---これは、血・・。

・・・私はいつかどこかで、このような光景を見なかっただろうか。

どこか、遠くで。
心の奥底で。
ゆっくりと、記憶の彼方のから、近づいてくる何かがあった。



見回してみると、そこは、辺り一面火の海だった。
粗末な掘っ立て小屋のような家々が、轟々と音を立てて燃えており、空高く、火の粉が舞い
あがっている。炎で空が赤く染まっていた。
煙で喉が痛い。そして、熱い。息が苦しい。声が出ない。呼吸が出来ない。
目に煙が入って、よく見えない。すすで手も真っ黒だった。
燃えさかる炎の熱で顔が火照って、熱くてたまらない。
上空をけたたましい爆音をあげて、ヘリコプターが飛び交っている。地響きするほどの騒音に、
耳が潰れそうだった。

誰かがどこかで叫んでいる。あれは、逃げまどい、助けを求める叫び声だ。


いつ?
どこで?

深い、深い淵の底から、亡霊のように浮かび上がってくるもの。

[貴方は、その扉を開けては、いけない。
それは、封印しておかなければならない。
鍵をかけよ。
貴方が、貴方のままでいたいなら。]

その時だった。突然頭上で興奮した咆吼が聞こえた。

翼手だ!

我に返って、上を見上げると
鋭く醜い爪のある毛深い腕が、すぐ目の前にあった。

---やられる!

咄嗟には、身を低くした。かわすには、今はそれしか方法がない。

「小夜!」

声が聞こえた。誰かが自分を強い力で押しのけ、抱え、身体を丸めて堅いリノリウムの床へと
倒れ込む。小夜はその拍子に腕と膝を床に打ち付けた。だが、思っていたほど、痛くない。

気がつくと誰かが自分の下になっている。

「---小夜、気を抜かないで。」

 低く澄んだその声に、頭の中を閃光が走るかのごとく、瞬時に小夜の意識が鮮明になる。
彼女を抱え込んだ状態でたおれている人物が、身体を起こした。それでも、まだ小夜の上腕を
つかんだままの右手は、暗がりで浮かび上がる白い包帯が痛々しい。

「---大丈夫ですか。」

 残念ながら、彼に返事をする余裕はなかった。空中で、くるりとすぐ体勢を変えて、勝利の
雄叫びを上げながら上から飛びかかってくる黒い固まりに小夜は、重心を落として重い日本刀を
一瞬の隙も与えず、高く押し上げた。その反動で、勝手に身体が後ろへと押し返される。
また、すぐ後ろで背中を強く抱えられた。

手元に残る鈍く苦しい感触。





「・・・・・夢?」

 目を開けてみると、小さな窓の外に白い鳥が飛んでいるのが見える。
あれは、カモメ・・・?
その窓から入ってくる涼しい風が心地よい。外は、晴れている。青く澄み切った空がまぶしい
くらいだ。
波の音がする。海がすぐそばなのだろう。
そうだ、海を見に行こう。こんな日は。カイとバイクで海岸へ。
思わず嬉しくなって、飛び起きた。
「いたっ。」
急に腕に痛みを感じて、やっと左腕が何かにつながれているのに気がついた。
腕の中心から、透明な細い管が上へと上って行っている。点滴のチューブだった。
よく見ると、自分は、いつも通い慣れた病院の白いベッドの上におり、点滴を受けていたのだった。
頭が、ぼんやりしていて、頭の奥がずきりと鈍く痛む。

・・・一体どうしたんだろう。学校の帰りに、病院へ来たのかな。

定期的に通うように言われた病院。カイがいつも送ってくれた。頭が、ぼんやりしていて、よく
思い出せない。病院は、海が近かったっけ・・・。

いつ、ここへ来たんだろう・・。


「・・・目が覚めましたか。」

その声に振り返るとベッドの横で、小夜を見下ろしている背の高い青年が立っていた。







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朝1