紀行小説 「津軽」
津軽鉄道 金木
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」
太宰治「津軽」より |
太宰治の小説「津軽」は、彼の故郷である津軽半島一円を訪ねた紀行小説である。
半島各地に在住する知人と酒を酌み交わし、その人となりを通して「津軽人」を明るくユーモラスに
描く反面、生地金木に近づくにつれ、彼が故郷に対し負った「業」が少しづつ露わになっていく。
風太郎がこの小説を読んだのは、高校時代に読書感想文が夏休みの宿題で出たためで、当然ながら
いやいや読み飛ばしたため、どんな感想を書いたのかさえさっぱり覚えていない。
しかしその後の写真絡みで津軽という土地と縁が深くなるにつれ、本棚の背表紙が気になって来て、
青森行きの定番だった夜行急行「八甲田」車中での長い一夜の慰みに読んだりした。
この小説の世界は、やはりこの土地に実際に立ってみて初めて心に沁みる所もあるようだ。
そして太宰の旅は、津軽鉄道を辿る旅でもある。
津軽鉄道 ストーブ列車 1984年
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五所川原
津軽鉄道 五所川原 1984年
「岩木川に沿うて五所川原という町が在る。(中略) 善く言えば、活気のある町であり、悪く言えば、
さわがしい町である。農村の匂いは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらいの小さな町にも
既に幽かに忍びいっている模様である。」
太宰治「津軽」より
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太宰が津軽を旅したのは、昭和19年という抜き差しならぬ時代で、描かれているような
自由な旅が出来たのが不思議な位だが、半島北部については「国防上の理由により詳述
を控える」というようなくだりがあるあたり、時代を感じさせる。
この小説は、富とは縁が薄い土地柄にあって、名家の御曹司として生まれた彼が背負った業と、
その使用人であり育ての親でもあった女性への思慕が絡み合うように底を流れているのだが、
半島北部の「小泊」に住む女性と30年振りの再会を果たすべく、津軽鉄道で北上するのが
クライマックスになっている。朝8時の汽車で五所川原を立ち、終点の津軽中里に9時に着く
とあるから、当時の蒸気列車故、今より少し時間が掛かったようだ。
五所川原は、太宰も言う通り津軽平野の中心とも言える町で、特に撮影に適した場所は無かったので
素通りしてしまう事が多かったものの、ホームを埋め尽くす通勤通学ラッシュアワーは都会並みだった。
五能線の客車列車から吐き出され、大勢の乗客が津軽鉄道に乗り換える様は、まだ地域に必要とされて
いる鉄道を感じたもの。
津軽鉄道の大きく広いホームからは、太宰の時代の活況と喧噪も伝わる。
津軽鉄道 五所川原 1984年
金木
津軽鉄道 金木 1983年
「金木は、私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位置し、人口五、六千の、これという
特徴もないが、どこやら都会風にちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、
悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。」
太宰治「津軽」より
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金木は津軽鉄道沿線最大の町であり、多くの列車がここで交換した。
また五所川原方の大築堤は広々とした津軽平野が堪能できる名撮影地で、ここでどれだけ撮ったか
分からない程。無論冬は吹きさらしになり、地吹雪の洗礼を浴びる事になったが。
人口が多く駅も賑わいがあって、待合室内にところ狭しと掲げられた広告看板は経済的な活気も感じ
させたが、太宰が見栄坊と評した通り、背伸びの割に垢抜けない田舎臭さは漂う町だったように思う。
太宰は金木の生家に数日滞在したようだが、それまでの「友」との快活な交流に比べ親族は何かしら
近づき難く、よそよそしい存在であることが行間からも伝わってくる。いや彼が「友」と認めて訪ね
歩いた人々も、実は彼の生家に以前仕えていた「使用人」達が多く、彼が歓待されたのもかつての
旦那様だったから、という見方も出来なくはない。そこに彼の深い孤独を見る事もあれば、ボンボン
の矮小な感傷と唾棄される一面でもあるのだが。
いずれにしても、潔癖な倫理性とその反動たる淫蕩の匂いに塞がれたような地方の名家に生を受けた
者にしか分からない、宿命の檻はあったのだろうと想像する。
彼の生家は戦後人手に渡り、「斜陽館」という旅館となった。一度外から見たが高い壁を巡らした豪壮
な建物で往時の面影はある。10年以上前に廃業し、今は記念館となっているらしい。
太宰が旅したのは5月の良い季節だったようだが、風太郎は分厚い雪雲と目の前が真っ白になる程の地
吹雪に閉ざされる冬がこの地らしくて好きだったし、重い大気の中に太宰が苦しんだ「宿命の重さ」を
どこか見つけるような気がしたもの。
津軽鉄道 金木 1984年 |
津軽鉄道 金木 1984年 |
津軽鉄道 金木 1984年 |
後篇に続く
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