芦野公園
津軽鉄道 芦野公園 1983年
「窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた娘さんが、
大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、目を軽くつぶって改札の
美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、
まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。
少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当たり前の事のように平然としている。
少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関士がその娘さんが乗るのを待っていたように思われた。
こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。」
太宰治「津軽」より |
長々と引用したのは、作中、津軽鉄道を一番生き生きと描写した場面と思うからで、これは芦野公園駅だ。
金木の町長が上野駅で芦野公園行きの切符を求め、そんな駅は無いと言う駅員に30分も調べさせて手に
入れた、という逸話も紹介されていて楽しい。初夏の陽気の中、開け放した窓から駅を眺める太宰と、
戦時中とは思えぬ牧歌的な情景が目に浮かぶ。
さてこの時、太宰や切符を咥えたお姉さんはどんな列車に乗っていたのか。手持ちの資料をひっくり
返せば、日立製の35t1C1タンクロコが戦後まで在籍していたようで、昭和5年の開業時に入線と
あるから牽引機はこれに違いない。客車は国鉄払い下げの木造ボギー車が入ったのは戦後の事で、
この当時はオープンデッキの木造二軸、いわゆるマッチ箱がぶら下がっていたようだ。おまけは
やはり木造のワフあたりか。想像しても涎が出そうだ。
芦野公園は金木の町はずれの行楽地だったようで、駅構内には桜並木が植えられ、これは現在も
健在なようだが、駅は1980年代には既に無人化されて久しく、寂しく雪に埋もれていた。
またここから川倉までの築堤は金木に負けぬスケールで、小さな列車を大空の中に溶け込むように
捉える事が出来た。
太宰列車には及ばないが、長閑な混合列車が雪原をゆるゆると渡っていく。
津軽鉄道 芦野公園 1984年
|
津軽中里
津軽鉄道 津軽中里 1987年
「中里に着く。人口、四千くらいの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟、相内、脇元などの
部落に至ると水田もめっきり少なくなるので、まあ、ここは津軽平野の北門と言っていいかも知れない。」
太宰治「津軽」より
|
広々とした平野を突っ切って来た津軽鉄道がぷつりと行き止まりになるのが終着駅津軽中里である。
太宰が「北門」と評したように、この先で平野は内陸から迫る山地に狭められ、日本海、そして
津軽海峡にぶつかって終わりになる。
中里には木造の機関庫やターンテーブルが残っていて、かつては駐泊拠点として機能していた事が
分かる。風太郎が訪ねた時には最盛期の面影はさすがに薄かったが、渋い駅舎や官舎、上屋など、
いかにも地方私鉄という風な渋いストラクチャーが残っていた。
金木あたりから先はあまり変わらない風景とはいえ、やはりどん詰まりの寂寥感が漂う終着駅である。
太宰はここからさらに北にある「小泊」を目指している。
目的は彼が育ての母と呼んだ「たけ」に会う事である。
育ての母といっても、たけが小作米代わりの年季奉公で津島家(太宰の生家)に子守としてやってきた
のは、たけ14歳、太宰3歳の時だったという。
少女のような女性が病弱な生母と縁が薄かった彼にとって最も心許せる隣人だったようだ。
たけは19歳位まで津島家に居たようだが、大した教育も受けていないはずなのに幼い太宰に本を読む
事を教え、道徳を教えたという、その老成振りには驚く。そしてたけが太宰の許を去る時は、彼が後を
追う事を周囲が恐れ、突然いなくなったのだという。
小説の後半に入ると堰を切ったようにたけへの思慕が文面に溢れるのだが、母胎回帰願望にも似た彼女
との30年の時を隔てた再会がこの旅の最終目的である事を、彼は言わずもがなに告白している。
既に嫁いで家族も持っているたけに会うため、太宰はこの駅前から2時間の道のりをバスに揺られる。
津軽海峡にもほど近い北辺の漁村「小泊」を最後に、この紀行小説もクライマックスに近づく。
津軽鉄道 津軽中里 1987年
|
小泊
小泊 1987年
たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ」私は笑って帽子をとった。
「あらあ」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。
太宰治「津軽」より
|
国道339号線は中里、そしてその先の十三湖を過ぎると日本海に落ちる絶壁の際を走る様になり、
雪はいよいよ深く、風浪激しく、この時の足に使った風太郎自慢の4WDをもってしても小泊まで辿
り着くのがやっとだった。本当は竜飛崎まで行きたかったのだが、さすがに危険を感じて断念した。
北海道の猛吹雪でも平気な風太郎が怖気づいたのはこの時くらいで、断崖にへばりついたような小泊
の集落は、まさに地の果てを思わせた。
小泊に着いた太宰は、たけの家を訪ねるが留守にしている。太宰はがっくりするが、近所の人から子供
の運動会に行っていると告げられ、やれ嬉しやと会場に乗り込むものの人ごみの中で見つからず、やは
り縁が無かったと帰路に着こうとする。しかしその道すがら、たけの娘と偶然出会い、また引き返す。
このあたりは読者をして大いにハラハラさせる場面なのだが、彼はなんとか目的を果たす。
「津軽」に書かれている事は大部分は事実と思われるが、一部彼の創作も入っていて、事実との境目が
曖昧なところもある。しかし太宰が小泊小学校の校庭でたけと再会した事は確からしい。
運動会の会場という事で「目撃者」も多く、後年の研究家は随分丹念にこの場面を調べているようだ。
それによれば、太宰とたけは確かに会ったがごく短時間、言葉を交わしたのみで太宰はその場を離れ、
校庭の隅で黙って運動会を見ていたという。後のたけ自身の証言でも多くを語ったという事実は無いらしい。
それらを総合すれば、それまで綿々と「たけ」への思慕を綴っている割には、随分淡白な再会だったようだ。
作中にある、桜の木の下でたけが幼い太宰の思い出を語るようなシーンは創作の可能性が強く、彼が
心の中で欲した会話だったのかも知れない。二人の間には既に遠い時間の隔たりが在った、というのが
現実だったのだろうか。たけの隣で「生まれてはじめて心の平和を体験した」という記述もあるが、
これらの証言が真実なら、彼はここでさらに孤独を深めたようにも感じるのだが。
太宰はこの再会から4年後には自ら命を絶つのだが、たけはその後40年近く存命した。
彼の人格形成上、大きな鍵を握った人物として、研究者や、いわゆる太宰ファンが大勢彼女の許を訪ねた
らしいが、太宰について最後まで多くを語らなかったようだ。
生涯を小泊で過ごし、1983年、85歳で没したという。
津軽半島がこの先ストンと海峡に落ちるように、この紀行小説もここ小泊でぷつりと終わる。
小泊 1987年 |
小泊 1987年 |
|