風太郎の 「旅の空」
 
 島原半島潮風紀行  ( 長崎県 島原鉄道  )  
 

胃袋の形をした島原半島の海岸線を律儀にトレースして走る島原鉄道は、長崎本線諫早から加津佐まで78.5kmのローカル私鉄だ。湘南窓のキハ4500やキハ20タイプのキハ2000国鉄キハ17を改造したキハユなど個性的な車両が居て、「西の気動車王国」と言われていた。


初めての訪問の上、長大な路線は何処で撮ったらいいのかも定かでなく、
5万分の1地形図を見て線路と海が迫るところを拾い撮りとする。「日本一海に近い」とされる大三東は一番行ってみたかったが、最後のデザートにとって置く事にした。
「日本一海に近い駅」

最初に行ったのは「布津」の界隈で、思ったほど海が入らないので雲仙岳をバックに撮る。

布津駅には風太郎が愛蔵している写真集「写真紀行 私鉄ローカル線」の文中にも登場する委託駅長のおじさんがそのまま居て、感動した風太郎は1枚撮らせてくれと頼んだところ「もういいよお」とニガ笑いしていたが構わず撮る。写真集登場以来、いろんな人が顔を見に来るのだという。上半身は下着姿の、のどかな駅長さんだ。

駅は自宅併用なのか、飼い犬や鶏までいて賑やかだ。ホームは近所の人々が三々五々集まり、社交場と化していた。

 

雲仙岳をバックに




                      布津駅点描

     
     


この布津駅周辺は後の1991年、あの雲仙普賢岳の噴火に伴う大火砕流に飲み込まれ、島原鉄道をはじめ、町全体が壊滅に近い被害が出たところに程近い。その後鉄道は高架化により復旧されされ
2008年
まで生き延びたが、あの時駅に集う人々は無事だったのだろうか。

 

車体の半分が郵便室になっているキハユに乗る。主要な駅に着くたびホームに郵便局員が待ち構えていて大きな郵袋を積みおろす。かつては全国で行なわれていた「鉄道郵便輸送」がここではまだまだ現役なのだ。

 



                        キハユ17車内


大きな車庫がある南島原では気動車改造の郵便客車ユニも見たが、たまげたのは「走る納涼ビヤホール」だ。キハ4500を真っ白に塗って「カラオケ&ビヤガーデン仕様」にしたもので派手なのなんの。ローカル私鉄の窮余の一策でこの手のイベントトレインは他でもあるが、ここまで徹底したのは珍しいだろう。数年で消えたらしいのであまり繁盛しなかったのだろうが、まあ一度乗ってみたかった珍列車ではある。





   


正面に三本ひげを生やしているのが島鉄オリジナルで、特に湘南顔には似合う気がするし、何より国鉄線では珍しくなった朱とクリームの塗りわけがいいのだ。緑濃い日本の田舎の風景にベストマッチな色だと思う。日が傾いたので今日の泊まりの原城駅に向かう。
 

駅に着く頃、あたりもう真っ暗に近かった。宿泊先に選んだ国民宿舎「原城荘」は徒歩10分とのことだが海に突き出した岬の突端にあり、一山越えなくてはいけないらしい。


晴れてはいたが月の無い晩で、わずかな星明りを頼りに暗い山道を歩く羽目になった。暫く行くと夜目にうっすら白い看板が立っている。見れば「ホネカミ地蔵」とあり、
1637年の「島原の乱」が鎮圧された後、周辺一帯に無数に散乱していた人骨を憐れみ、ここに集めて供養したのだという。

「鉄」に気を取られてすっかり忘れていた。ここら一帯は「島原の乱」の古戦場なのだ。
 

この地にかねてより根付いていたキリシタン信仰への迫害と圧政に耐えかね、蜂起したキリスト教徒と近郷の農民は3万人以上に及んだという。天然の要害とされていた原城に立て篭もって、鎮圧の幕府軍と4ヶ月もの間戦い抜き、落城の際にはその全員が討ち死にもしくはその場で処刑された。1万以上のさらし首の列が海に向けて立ったという。一般民衆のレジスタンスとしては日本史上最大規模であると同時に、ごく狭い地域でこれほどの大量殺戮が行なわれた点でも稀有な例だ。そして今、風太郎はその現場に立っているのだ。真っ暗闇の中で。 

真夏なのに背筋が凍りそうになるが、なにしろ暗いので早くは歩けない。時々何やら由緒を書いた看板が立っているが読まないことにする。「原城荘」の明かりが見えた時には心底ほっとしたものだ。風呂で一緒になった土地の古老によれば、子供の頃にはよく人魂が飛ぶのを見たという。ああ怖かった。



翌朝は何事も無かったかのように「鉄」に戻る。実のところ島原鉄道はすっきり海と絡められる場所は少なく、猛暑のなか脱水状態になりながら潮の香り漂う漁師町をさまよう。

 

  堂崎
 

結局大した写真は撮れずに、駅に着くたび待合室でコーラをがぶ飲みしつつスナップを撮ってお茶を濁す。夕方近くに終点加津佐の近くまで来て、やっと気持ちのいい入り江と線路がある場所を見つけた。日が傾いて海からの風が吹くと結構涼しい。お盆も過ぎて暦の上ではもう秋なのだ。横っ腹に島原鉄道名物の派手な看板をぶらさげたキハを逆光で撮り終えると、砂浜に下りてみる。

 

 浜には藁を舟形に加工し、提灯をぶら下げたマスト(?)を載せた物体が鎮座していた。最初は何かと思ったが、お盆にちなんだ「死者の舟」と見た。風太郎が通った幼稚園は仏教系だったので、旧盆が近づくとナスやキュウリに割り箸の足を付けた「仏様の乗り物」を作った記憶がある。海辺の里では、死者の魂は海の彼方から舟でやって来て、また海に還るのか。やがて波に洗われて舟は跡形も無く消えるはずだが、それをもって現世の人々は「送り」とするのだろうか。長旅の疲れと睡眠不足の風太郎は、砂浜に腰を下ろしそんな事を考えなから、うつらうつらと浅い眠りに落ちてしまった。



 
 
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