大泊町図書館展示室
こちらでは、樺太に関する資料を展示しています。
企画展 【樺太の神社】 はこちらから
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樺太庁博物館・樺太郷土研究会発行の冊子、『北方文化第1巻第2号』です。昭和13年(1938年)8月発行、紀要のようなものでしょうか。 表紙の写真は前年に完成した博物館の建物上部の大写し、右側裏表紙は博物館案内です。 扉ページには次のような言があります。 「新装成れる樺太庁博物館 塔博物館内容充実の計画は、三ヶ年を期し完成を急いでゐるが、已に第一計画年を計画し、本年度に樺太地形模型、確動物の代表的なるものゝ解剖模型や、気象観測に関する機械類や、数多の壁画等を設備し、弥々郷土博物館としての特色を発揮するに至り、日曜日ごとに観覧者五百名内外に及ぶ盛況で、北方文化の殿堂たる観も現はれ、更に々々公衆殊に教育者の利用を期待してゐる。 」(原文ママ、旧字は新字に改めました) 目次からは、樺太南半植物分布の概要(1)、樺太石器時代の概観、海馬島海藻目録などの主要記事、科学ニュース、郷土時評、学会ニュース、学会便りなどの各種コーナーが見られ、ページ数は64ページです。記事の寄稿者は博物館職員だけでなく樺太各地の学校関係者のようで、中には樺太日日新聞社の人が書いた随筆も掲載されています。 北京原人の大腿骨発見さる、といった当時の最新の情報もあれば、編集後記には「研究会会員が500人を超えた」という喜びの声や、「紙の使用制限が始まり時局柄発行数も減るかも知れない」といった憂いも見られます。実際、この「北方文化」シリーズはインターネットで調べたところでは創刊号が稚内市の図書館にあること以外に情報を得ることが出来ませんでした。 朝鮮や台湾のように大学が作られたわけでもなく、満州のように広大な後背地と人口があるわけでもなかった樺太において、郷土についての研究を進め文化の発展の中心を担おうとする意気込みが伝わってくるとともに、時代の大きな流れの中で、この本に関わった人々のその後を思わずにはいられません。 |
平成25年1月19日、相撲界から大鵬親方の訃報が入ってきました。 親方の出生地は樺太敷香町(出身地は北海道弟子屈町となっています)。ソビエトととの国境線に接する、当時日本最北の町でした。 右の絵はがきによると、人口は1万数千人、中心部の銀座街には商店が建ち並んでいます。また、日本唯一の国際河川、幌内川が国内3位の広さの多来加湖に注いでいました。2枚目の絵はがきは湖畔で楽しむ家族連れの姿です。 敷香には樺太の先住民族であるウィルタやニヴフなどの人々も住んでおり、オタスの杜と呼ばれた地区には、彼らのための学校もありました。 第二次大戦末期にはソ連との戦いの舞台となり、多くの住民が巻き込まれました。親方の自伝によれば、親方母子は稚泊航路の小笠原丸で樺太から脱出。母の体調不良で稚内で下船したそうです。実はそのあと、小笠原丸は留萌沖で国籍不明の潜水艦に沈没させられるという悲劇に見舞われています。 弟子屈に引き揚げた親方のその後の奮闘は多くのメディアで紹介されています。親方のご冥福をお祈りいたします。 |
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亜庭神社は、樺太では豊原の官幣大社樺太神社に次ぐ格を持っていた神社です。大泊町本町にありました。祭神は開拓神である大国主命(オオクニヌシノミコト)、その息子とされ海の神でもある事代主命(コトシロヌシノミコト)、食べ物の神である御食津神(ミケツカミ)、誉田別尊(ホムダワケノミコト、八幡神)、市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)です。大国主命は、樺太神社や北海道神宮にもまつられています。 大正3年(1914年)8月に創立され、例祭は8月10日に執り行われていました。 終戦後も、亜庭神社は一般邦人の引き揚げがすむまで祭司を継続したが、引き揚げ完了後は、いつしか建物は失われ、現在では石段が残るのみのようです。 (2013.1.6) |
樺太には、巨大な森林資源を狙って製紙工場が進出しました。樺太庁も島内開発のために工業誘致に積極的でした。三浦綾子の「天北原野」にも、樺太を舞台に森林資源の開発に関わる人々が登場します。
樺太工業は、大正4年(1915年)に泊居、大正8年(1919年)に真岡工場を建設し、パルプだけでなく洋紙の生産も行いました。 昭和に入ってからは、製紙市場の景況悪化や昭和恐慌にぶつかり、合理化のため九州製紙・中央製紙・中之島製紙の3社と合併します。さらに昭和8年(1933年)王子製紙が富士製紙、樺太工業を合併し、国内の市場の約8割を占める巨大製紙会社となりました。日本統治時代の樺太の工業は、王子製紙抜きでは語れません。 |
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稚内に残る北防波堤ドームです。 海上からの高さは14メートル、長さは427メートルにもなります。 昭和6年(1931年)から5年をかけて建設され国鉄の稚内桟橋駅が設置されました。 現在も防波堤として現役であり、北海道遺産にも認定されています。 写真は左がドームの入り口部分。右がドーム前の稚泊航路記念碑です。 (2012.10.10) |
北日本汽船の樺太航路図です。絵はがきになっています。 稚泊航路は鉄道省の航路ですが、それ以外にもこのような民間の航路が設定されていました。 ※クリックすると拡大版が見られます。 (2012.10.10) |
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北日本汽船株式会社の定期航路案内です。 樺太航路だけでなく、日本全国の航路が案内されています。 これは昭和12年版のものです。 |
豊原の樺太庁博物館発行の叢書です。 昭和10年代に発行されました。写真はシリーズの1と2です。 樺太に関するものをテーマに9巻が発行されました。 なお、樺太庁博物館は現在サハリン州郷土博物館として、当時の建物が残っています。 |
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大正末の北海道拓殖銀行の営業概況です。 wikipediaによると拓銀は戦前全資産の3割以上を樺太に所有していたそうです。 この冊子にも樺太各地の支店や出張所名があげられています。 イラストは北海道本島の風景だと思います。 画像をアップするときの退色復元できれいな青空が出てきました。 |
大泊港第1期築港工事竣工記念の文鎮です。 この工事は大正9年11月に始まり、約579万円をかけて昭和3年に竣工。 大泊港駅も突堤上に12月に正式に駅として開業しました。 第2期築港工事は昭和10年にスタートしました。 |
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宗谷海峡電話ケーブル開通記念品です。 同芯型一心入重中間線だそうです(よくわかりません…)。 昭和9年12月樺太庁、住友電線製造所とあります。 北海道側は宗谷郡猿払村、樺太側は大泊郡深海村女麗に中継所がありました。 このケーブルの敷設により、東京〜札幌〜樺太豊原間の直通電話が可能になりました。 開通記念の際には、郵便局でも記念スタンプが押されるなどしました。 |