唐人屋敷は、江戸時代の鎖国政策により長崎に設置された中国人住居地区。
江戸幕府は一般の日本人と外国人の交流を避けるため、オランダ人の住居は出島、唐人(中国人)の住居は唐人屋敷と定めました。
1635年(寛永12年)から中国貿易は長崎一港に制限されており、唐人たちは長崎市中に散宿していましたが、
幕府は密貿易への対策として1689年(元禄2年)に唐人屋敷を完成させ、これ以降唐人の市内住居が禁止されました。
唐人屋敷は現在の館内町ほぼ全域に当たり、
周囲は塀と堀で囲まれ、大門の脇には番所が設けられ、出入りを監視しました。
1698年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、倉庫に目が届きやすいよう、
唐人屋敷前面の海を埋め立てて中国船専用の倉庫区域を造成しました。この地域が新地と呼ばれる。
天明4年(1784年)の大火では唐人屋敷全体が関帝堂を残して全焼しましたが、これ以降唐人自前の建築を許されるようになりました。
1859年の開国によって唐人屋敷は廃屋化し、1870年に焼失しました。
その後在住中国人は隣接の長崎市新地町に中華街を形成し、
長崎新地中華街となりました。
新地中華街南門の前にある「湊公園」付近の交差点に旧唐人屋敷への入り口があります。
現在は屋敷は残っておらず、「土神堂」「天后堂」「観音堂」「福建会館」という文化財が修復・再建され当時の面影を残しています。