ほんなら・・・
  ほんでも・・・


     37回目 
    『適当に、暇つぶし本を』
の続き。
      ・・・・・2005年 9月 18日・・・・・


 前回に続けて、注文したり、棚(売り場)に並んでいたのを。
               
(読み終えたのは七月上旬です)

 今、これを作成している日は、衆議院選挙期間中です。
店の前の道路は、これまでの選挙ならうるさいぐらい街宣車が通っていたのですが、今回は静かなものです。

 ここの選挙区は、郵政法案に反対した自民党衆議院議員さんがいたので、例の”刺客”とやらの、春に別の所での参院補選では民主党から出て落選した女性候補さんが出馬しています。
気分的には「何じゃ、こりゃ!」って気がします。
 当選するのかしないのか? 下馬評では一歩リードとか。
 かてて加えて、自民党市議、公明党市議、そして民主党市議等や、それぞれの支援者の深く静かに、それぞれの思惑での動きを見ていますと、実に面白い。


『日本国債』
日本国債』(上・下)

幸田真音 著

講談社(文庫)

2003年11月27日
初版発行

日本国債

 ほとんど興味のない”国債”。
 お上は個人国債を「買え買え」と勧めているようだけれど、どうも「胡散臭いシロモノ」と
思っている者としては、官僚や自民党(政権与党って意味では公明党も)のお歴々が引率して、てんこ盛り購入していないようなモノを「何で・・・!!」
 この「何で・・・」の疑問が少し解けたのが本書。
 早い話が自転車操業中で、ペダル漕ぎ続けなければ日本国家がぽしゃるのが実情らしい。

 日本国債のディラー有志達が中央銀行(日本銀行)の入札を不買したおかげで発行額の「未達」が。
 市場は大暴落、金利高騰、株は暴落・・・つまりは日本は沈没への道を歩みだす。

 作品が書かれて二年後、現実に”未達”が起きた。
その時、小説ほどの混乱は起きなかったけれど、今後も市場からの反乱としての未達から、恐慌が起きない保証はない。

 発行国債の半分強が借り換え資金に廻っているにしても、戦時国債をチャラにした事例(
財産税新設・銀行閉鎖・新円切替なんて荒治療をインフレの中で行った)を見て解るように、国家からすれば実は日本国債は「そんなに怖くない」シロモノなのかも知れない。
 国債の買い手は米国と異なりほぼ国内だから、泣かしたところで国内問題だ。
 ”国家”に良識を求めてはならない。

加えて、国民ももう少し慎ましい生活をしないと・・・ね。

 http://ueno.cool.ne.jp/gakuten/network/fin.html


『沖縄イメージの誕生』
沖縄イメージの誕生
・・・青い海のカルチュラル・スタディーズ


多田 治 著

東洋経済新報社

2004年10月6日
初版発行

沖縄イメージの誕生
・・・青い海のカルチュラル・スタディーズ


 表紙カバーの折り返しに
『「青い海の沖縄」はどこから来たのか。日本復帰によって、沖縄はいかにしてナショナルな物語に組み込まれ、南のリゾートとして変容をとげたか。基地とリゾート、二重の現実を、まったく新しい切り口から解き明かした画期的な書。ビジュアル資料、用語解説、コラムも充実。』
と書かれていて、これを転記すればもう書く事はないようだ。

 空前の沖縄ブームらしい。
沖縄と聞いて、暗くて辛いイメージは出てこない。
天真爛漫、何もかもが明るく、歌にゴルフに海に空に・・・はたまた文化にすら、時には憧憬の念を覚えるらしい。

 隣の芝生は何とかと言うけれど、この今日の”沖縄”イメージを創り出され、且つ現実に構築されていったスタートが1975年の沖縄国際海洋博覧会だった。
 行政・地元自治体・経済界(本土も含めて)住民を巻き込んで、この壮大な一大事業は、虚と実の境目までもが解らぬように遂行に向かって進められた。
 がしかし、どうみても沖縄国際海洋博覧会と言う儀式自体は大成功とはならなかった。
 しかし、この幻影としてのイメージ路線は継続され、言わば”観光客”としては「酔った者が勝ち」となり、リゾート沖縄は誰が引率して吹くのやら、進軍ラッパを鳴らし続けているようだ。

 著者は社会学の諸概念を使いながら、沖縄イメージとしてのリゾート構築への解明を解り易く書く。

 リゾート(保養地)か?観光か?
この違いは大きいが、良くも悪くも出来上がったイメージから逃れる事が出来得ない”沖縄”の今後を解き明かす事はさすがの著者も出来ない。
 
『このような地域イメージをめぐって、根拠なき幻想も表明されれば、怒りを含んだ違和感も表明されるだろう。世代や立場の違いによって、「これが本物の沖縄だ/ではない」といった、オーセンティックな<沖縄>像をめぐる対立や交渉も、展開され続けていくことだろう。1つだけいえることは、われわれは今後、こうしたイメージをめぐる現実からもはや逃れることはできない、ということである。』

  罹ってからでも、遅くはないが、出来れば”沖縄病”に罹る前に、眼を通しておく本。


『沖縄列島・・・シマの自然と伝統のゆくえ』
沖縄列島
・・・シマの自然と伝統のゆくえ

(シリーズ 島の生活世界と開発 全4巻の3巻目)

松井健一 編

東京大学出版会

2004年3月19日
初版発行

沖縄列島
・・・シマの自然と伝統のゆくえ


 眼を通したのは
    T部 ソフト・レジスタンス
        2章 環境的正義の来歴
          ・・西表島大富地区における農地開発問題
        3章 開発と環境のジレンマ
      
・・八重山諸島の最適ツーリズム戦略
    U部  生活の質とマイナー・サブシステンス
        4章  マイナー・サブシステンスと環境のハビトゥス化
    V部  伝統の再生
        6章  開発による伝統の再編と民俗行事の力学
         ・・共同性とアンデンティティをめぐるポリティクス
        7章  開発による民俗の変容と相克
         ・・平安座による墓地移転からみえてくること

 沖縄復帰後、本島はもとより、八重山群島では開発と環境保全との板ばさみに揺れながらも、人々はしたたかに暮らす。
 外部の、内地の「八重山は(鳩間島は)観光地化して欲しくない」とほざく者達の声はあまりにも無責任に聞こえる。
 鳩間島の今後を思う時、開発と保全とのせめぎあいは他の島よりも、島内部での落としどころを探る過程において島を二分する程のものとなるように思う。
 島の人々が考える”最適ツーリズム戦略”だが、島の人々にはそのような眼をほとんど持ってはいないように思う。
いや、正しくは持てないのだろう。
 
補)「八重山諸島の最適ツーリズム戦略」で取り上げられているのは
    竹富島での保存。西表島でのエコ・ツーリズム。小浜島での企
    業観光開発。


 聞くところでは、あの閉鎖性の最も高く、住人三名と言われていた新城島でさえ渡島出来、豊年祭さえも島外者が見る事が出来るらしい。
 あの”新城島”がだぜ!!

 自然と伝統は、時代の変化と共に流されるのは避けられないだろう。
ほど好い着地点を見出すように祈る。


『風景と人間』
風景と人間

アラン コルパン 著
小倉孝誠 訳

藤原書店

2002年6月30日
初版発行

風景と人間

 風景とはひとつの解釈=解読であり、風景は評価対象にあり、環境は測定対象にあるものだが、風景は自然の一部と言う認識が広まり、風景保存は自らの起源を見出す要求や、エコロジー的な不安等と結びつく。
 風景自体は自然に維持されるものと言う認識から、不安定で脆弱なものと言う認識の転換に至り、積極的に風景を保全しようと言う欲求が広がり、その結果、風景保護をめぐり対立すら起きるようになった。
 その後、”自然らしさ”と風景を同一視する志向が表出し、自然と人間との相克は、開発と保護の対立のみならず、”自然保護
をどのように捉えるかにより、保護派内部においてさえ対立が生じる。

 著者は、
『風景を保護し、整備し、保存し、あるいは再生させるのは、ひとつの解釈を守るということを意味』すると述べる。


 う〜ん、「守る、ひとつの解釈」の選択を鳩間島
(八重山群島)の人々に出来るのだろうか? 


『大阪100円生活・・・バイトくん通信』
大阪100円生活
・・・バイトくん通信


いしいひさいち 著

講談社

2005年6月25日
初版発行

大阪100円生活
・・・バイトくん通信


 寒い日、四畳半の安アパートでバイトくんは鍋に水を入れ、ふたをかぶせ切らずにガスコンロでお湯を沸かす。
『加湿暖房ガス器具』と言うわけだ。
 部屋に来た友人が空気が悪くなるのを心配して聞くと「隙間だらけのの部屋だから大丈夫」と。


 思い起こせば、貧乏自慢じゃないが、バイトくんは「今朝はサムイッ」って事で、お湯を沸かしたが、まず、寒くても鍋すらなかった。
 ボロアパートに暖房用の鍋を買ったのは、そしてガスを開栓したのは、さる大事なお人が来室するようになってからだった。
 1951年生まれの学生君のアパート暮らしと、家を出て働き出してからの暮らしととの違いにそれほどの差がないのは、社会人
(帰属)意識に乏しく、気分的に彼も遊民と言うのか周辺人だったからだろう。
 多分、今はいしいひさいちさんも暮らしは楽になっているだろう。
でも、気分は今でも・・・・なのだろう。
 いしいさんの漫画は、そのどれもが今読んでも面白いはずだ。 


『レジャーの誕生』
レジャーの誕生

アラン コルパン 著
渡辺響子 訳

藤原書店

2000年7月30日
初版発行

レジャーの誕生

 現代人が時間との係わり方において、時間内における”余暇”の捉え方、その”余暇”における”休む”と言う認識の変遷をたどる。

余暇文明へ向かって』ジョフル・デュマズディエ著
(東京創元社発行 現代社会科学叢書 1980年12月)以来あえて余暇論を手にした事はなかった。
 
 働くだけで自分の時間なんて持ち合わせていなかった者達と、人を働かすだけで時間(銭もね)はたっぷり有った有閑階級の者達とのせめぎあいは産業革命以降、有閑階級に対してある種の軽蔑の意味を込められたものでありながら彼らの特権としていた”レジャー”に文化的意味を持たせ、ひたすら空いた時間は自宅で休息するだけでの時間であった者達に”余暇”として消費されるようになってきた。
 それは、鉄道の普及により余暇時間は”旅行”へと変遷される中で、自己再生の源は”躰”なんだけれど、その躰に良い事を
・・・つまり、「休む」「健康志向」ね・・・かっての有閑階級が好んだ温泉等に求めず、山へ海へと余暇=自由時間は変貌する。

 有閑階級をやゆする程の宗教信も持ち合わせていず、どうみても「成りたいけれど、成れない者のひがみ」としか思えない自分としては、自己再生への”レジャー”
(余暇と言っても良いけれど)認められているとしても、仏国の民族大移動”バカンス”を見ていると、確かに長期間の休日ではあっても、どだい有閑階級の別荘三昧程には「休む」に乏しく、何処に文化的な意味合いを込めるんだと思う。
 余暇は確かに旅行だけではなく、スポーツや観賞にも向けられ、旅行と結び付けれらた、例えば高原でのテニス旅行、美術館めぐりと細分化された上での文化の匂いをかもしだすモノもあるけれどさ。

 
南の島での青い海をみながら、浜辺でのんびりする。
気分は「天国 てんごく」なんだけれど、実はイメージの世界。幻影。
 「風景は解釈・解読」
となると、想像力で補い、自宅でのんびり休息する方が躰にとっちゃ余暇時間のとても充実した安息だ・・・と、つくづく近頃は思う。
 少なくとも「民族大移動時期には行きたかぁない!!」
たんなる歳か?


『恋獄漂流』
恋獄漂流

貴志元則 著

松文館

2005年7月15日
初版発行

恋獄漂流

 初めてコミック『蜜室』のわいせつ性が裁判で争われた。
被告の松文館社長が喜志元則さん。
 今年6月16日の高裁判決で、1審の判決は破棄され、懲役刑ではなく罰金150万円に減刑になった。

 元々、喜志さんは真崎守さんの影響を受けた漫画家で、70年前半に『ビッグ・コミック』『漫画アクション』等とはちょっと路線を外れた『ヤング・コミック』に宮田雪さんの原作を漫画化したのがこの『恋愛漂流』

 全作品は収録されていないが、その時代背景、時代に流された多感な者の心象は十二分に描かれた作品ではある。
 が、しかし一見「真崎守の作品?」と思ってしまう程にその主題も絵も似ているが、個人的には真崎守さんほどにはこなされていないモノが多いように思う。

 喜志さんは摘発を受け、裁判闘争の道を選んだ。
更に最高裁へと上告した。
 健闘を祈る。 



いいあんべぇ沖縄島暮らし

沖縄島暮らし調査隊 編・著

双葉社

2005年6月10日
初版発行

いいあんべぇ沖縄島暮らし

 沖縄移住ブームに便乗した本。

 沖縄で暮らしたい人々が増えているらしい。
各島の情報を各島に詳しい人による調査を記載する。
 一説では、先を考えずに「南の島でノンビリ暮らす
「なるようになるやろ」者達が移住組みの大半で、もしくは、年金生活者らしい。
 後者はまだしも、前者は島からすれば”利”は殆ど無いに等しいように思う。

 この本を見て”島”を決める馬鹿がいるとすれば、どうしょうもない大馬鹿者也。、


『ツチヤ学部長の弁明』
ツチヤ学部長の弁明

土屋賢二 著
いしいひさいち(マンガ)

講談社

2003年10月28日
初版発行

ツチヤ学部長の弁明

 週刊・文春に連載されている土屋さんの『ツチヤの口車』が結構面白いので取り寄せて、見た。
 連載は一回分読みきりなので、ワッハッハで済んだが、単行本化されたのは読み続けるので、すんごく疲れる。
 連載ではさほど気にならなかったけれど、何せ、こちらは幼少の頃から吉本新喜劇どっぷりで育ったものだから、辛気臭いとでも言おうか、笑いのコツがツボが違うのだ。
 決して嫌いじゃないんだけどね。

 そう言えば、土屋さんが在職しているお茶の水女子大学を卒業した人を知っているが
・・・たった一人で決め付けるのは何だけれど・・・教授の思考・性格と学生のはよく似とる。
 土屋さんとは、週一回、1ページを読むだけに限る。
卒業した人とは、・・・・・・・・・・・に限る。



グロテスクな教養

高田里恵子 著

筑摩書房(新書)

2005年6月10日
初版発行

グロテスクな教養

 
単純に“教養”言説の一覧表として眼を通してもよいものなんだけれど、それでは著者は単なる文献並べ屋さんになっちまう。

 “教養”の定義自体が一筋縄ではいかぬもので、著者は“教養”そのもではなく教養についての言説を、ぞれは“教養”がもたらした近代日本の特殊性を書き連ねているのだけれど、そこにあった西洋至上主義の文献屋と化している教授・旧制高校の伝統・帝大生のエリート意識・語学教師の思い込み・大衆(凡人?)に根づく反知性主義・「売らんかな」人文書系出版社との二人三脚関係・良家のお嬢様の高等女学校教育=男探しにおける階級論等々を懇切丁寧に拾い上げていく。

 “教養”を『自分自身で自分自身を作りあげる』と定義する著者は、かっての受験の勝者は自分は単なる秀才・優等生ではない事を自己に他者に示さなければならず、自己肯定と他者からの承認を得る、そこに“教養”の存在があった。

 しかし現代ではこの定義は何も彼等だけの特権ではなくなり、優等生ではない凡人だって「私って・・・なぁに?」つまり自己実現だの自分探しだのに明け暮れるおかげで、・・・(何も文学書や思想書を読む事だけが“教養”ではないもんね)・・・“教養”主義は衰退の道を歩んだ。

 間口の広い“教養”は、確かに『自分自身で自分自身を作りあげる』ではありそうだ。
 そして狭い“専門”でもなさそうだ。


 何にしても、阿部謹也さんの定義『教養とは一人ひとりが社会とどのような関係を結んでいるかを常に自覚して行動している状態を言うのであって、知識ではないのです』に乾杯したい。
 ”知識”と”知恵”の違いとでも言おうか・・・。



ホンダ1300・クーペ9(後ろ)
38回目はまだ未定です。


HONDA1300イクーペ9でに乗って・・・掲示板へ。
 この車に乗って往き、
”本”の事でも、
”わんこ”の事でも、
何でも書いて
(掲示板)おくんなはれ。


ホンダ1300クーペ9の郵便車。
「お手紙は、この”HONDA1300クーペ9”で運びます」


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