ほんなら・・・ ほんでも・・・ 29回目 『二十前後の旅行と六十代の旅』 ・・・・・2005年2月19日・・・・・ |
樹村みのりさんを終えて、久しぶりに本を読もうと思った。 |
『日本一周 ぼくの自転車旅行』 小林鉦明 著 少年画報社 1964年7月30日 初版発行 |
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『日本一周 ぼくの自転車旅行』 千九百六十四年と言うと小学六年生の時に読んだ事になる。 高学年になってからは記録物をよく読んでいたけれど・・・例えば ”少年少女世界の記録”シリーズで『翼よあれがパリの灯だ』のリンドバークに感激したりしたもんね。これは児童向けに短くされたものだったので、千九百八十年に旺文社文庫版で読み直した・・・この本はどう見ても高学年向けではなく、漢字には全てルビが振られてあるので、文字が小さいけれど低中学年向けだったらしい。 地理が好きだったと前に書いたか? 色々な所に行って見たいと思った。 海の向こうにも行って見たいが、まず日本全国を見てみたいと地図帳を眺めては喜んでいた。 その頃、本屋で見つけたのがこの本だった。 「よ〜し、日本一周するぞ! 自転車でするぞ!!」 そう思いながらいつの間にか高校生になっていた。 入学してすぐ、飛田の近く、阿倍野斎場前にある安売り自転車屋さんで,小遣いを叩いて十段変速・ドロップハンドルのわりにはタイヤが細くない自転車を買った。 大阪市の南部から北に向かって行き淀川の手前まで、片道十六キロの自転車通学は身体に変化をもたらした。 暢気に走って一時間(最高記録は三十五分を切った)の運動は太腿を逞しくさせ、成長期でも有ったのだろうが、入学時百五十六センチの身長は知らない間に百七十センチを越えていた。(卒業の頃は百七十八センチ) 取りあえず、まずは紀伊半島を一周してみようと思い、参考にと本棚からこの本を取り出して読み直した。 今見たら絵で装備品を描いてある『日本一周装備一覧表』のページには 赤のボールペンでしっかり確認の印を入れてある。 (当時から歯磨きは嫌いなので印を入れていないし、別に毎日着替えなくても気持ち悪いと思わないので『パンツ九枚』は「2枚」と変更記入してある) 一年生の夏に行く予定だったが、体力的にもあまり自信がなかったので延期し、二年生の夏に行った。 道中、一週間程停泊していたので、二週間・行程千キロ程の初めての”旅行”と言える旅行だった。 翌年の春、単車免許(今で言えば限定解除の)を仕方なく取った。 と言うのは、軽四輪免許を持つ級友らと夏に「西日本一周しょう」と決まり、ただ連れて行ってもらうに等しいのはつまらないと思い(軽四輪免許はその年、廃止になった)単車で一緒に行こうと考えたからだった。 二週間・行程三千キロ程の旅行から帰った翌日、まだ夏休みが残っているので淡路島一周をと思い、家を出た。 深日港まで快走したが、引き返した。 膝頭が痛み出したのだった。 わずか半年ほどで足の筋力が衰えていた。 結局、自転車で日本一周の夢は潰えたのだけれど、翌年に二ヵ月弱・行程七千キロ程の東日本一周を、さらに次の年には走る道が重ならないようにして三ヵ月弱・行程一万三千キロ程の沖縄県を除く日本一周を単車で済ませた。 帰阪して、一応、残していた宿題を済ませた気分だった。 小林さんは千九百六十二年、暑い夏に(六月二十八日〜八月二十六日)九州を、寒い冬に(十月十九日〜十二月十二日)北海道を走る。 寒さで自転車が凍りつきながらも彼は走る。 時には旅行先で人の温かさを受け、日本を見ながらペダルをこぐ。 全行程一万五千キロ。二百七十二日。 この頃は一級国道でも未舗装が多かったと思う。 十年ほど後の私の場合でも、幹線の一級国道は舗装されていたがまだ未舗装の道路が多く、泣いた。 帰阪して見てみるとスクランブル・タイプの単車なのに後輪のスポークが二本折れていた。 単車から降りた後、真冬の北海道、復帰後の沖縄と残り少ない学生期間に視て廻った。 『日本中の子どもたちに、読んでもらいたい。そして読んだあと、 すこしでも、地理や歴史でおそわった以外のニッポンというびんぼうな国を理解してもらえたら』 と著者は後書に書く。 |
多分、初めて読んだ旅行記がこの『日本一周 ぼくの自転車旅行』だと思う。 次の『日本縦断 徒歩の旅・・・65歳の挑戦』までの間、国内旅行記はもとより、海外での旅行記、滞在記、生活記、はたまた探検記・・・そう言えば、印度仏典の原初形態を残していると言われる大蔵経(一切経)を手に入れる為、1897年神戸港から船に乗って印度・ネパール経由チベット(西蔵)に入ったのが1900年。翌年にようやくラサに辿り着いた河口慧海さんの『チベット旅行記』(旺文社・文庫・1978年刊)は旅行記と言うよりも探検記?・・・と手にした冊数は多い。 でも、所詮、読み物ですね。 |
『日本縦断 徒歩の旅 |
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『日本縦断 徒歩の旅・・・65歳の挑戦』 著者は報道写真家。 千九百六十五年から六十八年にかけて南ベトナム政府軍・米国軍に同行取材した経歴の持ち主。 二千三年七月十五日、北海道・宗谷岬を出発し、十二月十日、沖縄県・喜屋武岬まで百五十日間(実徒歩日数百二十六日)三千三百キロの徒歩の旅を行う。 仕事柄、行く先々で知人友人と会い、コンビニを利用し、洗濯は毎日し、もちろん野宿などせず、時には行き先で妻の支援を受け、徒歩で豊かになった日本での”豊かな旅”を続けた。 『日本の平和を考える時、アフガニスタンを思い出したように、今後、どこかの国へ行った時、日本の農村、漁村の状況が浮かんでくるのではないか。』 『徒歩の旅は感動の旅だった。いろいろな風景を見て、良い人たちと出会い、新鮮な魚を食べ、旨いビールを飲んだ。まさしく天国へ行ってきたような気持ちだ。』と終章に書く。 |
小林さんの”旅行”と、石川さんの”旅”。 この”旅行”と”旅”の語感の違いが気になった時期があった。 その頃から、気負いのようなものが感じられる”旅”と言うコトバを使わずにいた。 重さが、深さが、そして自己愛的・自己救済的な要素が”旅”にはあるように思えた。 同世代が「旅に出る」「北海道の旅では」と言うのを聞くと、読むと、虫唾が、ジンマシンが、出そうな気がした。 「おいおい、君にとってそんな御大層な代物なのかい?」てなもんだった。 千九百六十九年、はしだのりひことシューベルッが唄った 『風』 人は誰も ただ一人旅に出て 人は誰も ふるさとを振り返える ちょっぴりさみしくて 振り返っても そこには ただ風が吹いているだけ 人は誰も 人生につまずいて 人は誰も 夢やぶれ振り返える (作詞・北山修 作曲・田端宣彦) 二番以降の歌詞からすれば失恋の歌なんだろうけれど、何処となく恥ずかしさを持ちながらでなければ唄えなかった。 六十五年の歳を重ねた石川さんが”旅”と使っても、さほどの違和感を感じない。 道中豊かなモノではあるけれど、身体の酷使は避けれない。 しかし、彼は友人から「すごいことをしたなぁ」と言われても、そうは思わず『のんびりと風景を見ながら楽しい旅をしていた』『つらいけど歩き通そうなどの悲壮感は少しもなく、旅館で毎晩旨い料理を食べて酒を飲み、自分だけこんな贅沢な旅をしていて良いのかなあ、と妻に申し訳ないと思ったぐらいだ』 二十歳前後、小林さんの”旅行”もどきをしたつもりでいる。 近い将来、石川さんの”旅”もどきをしてみたい。 が、馬齢を重ねただけの阿呆坊では・・・無理か。 |
30回目は『これ、一つでって無いもんだ』です。 |
この車に乗って往き、 ”本”の事でも、 ”わんこ”の事でも、 何でも書いて(掲示板)おくんなはれ。 |
「お手紙は、この”HONDA1300クーペ9”で運びます」 |
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